掌に刻まれた歪な曲線。

今の俺の掌は血塗れで、それが見えない。










      掌










鉄の匂いが身を包んでいて吐き気がする。

それに夏の暑さも加わって、不快感は増す。

血塗れの身体。腕。顔。

真夜中で良かったと心底思った。


どうしてそう、こんなにも俺は、










「おかえりなさい」

俺を迎えたのは、消えそうに点滅する蛍光灯とその女。

綺麗に並べられた食器と、彩り良く盛り付けられた夕食。

今だに慣れない。

何人もの女と付き合ってきたが、飯を作って貰えることは愚か、帰りを出迎えて貰うことすらなかった。

きっと互いに、恋人なんざ消耗品だと思っていたからだろう。

きっと俺自身、その方が気が楽だったしそれで良いと思っていたからそんな関係ばかり作っていたんだろう。

そもそも彼女は俺と違う世界の人間だ。何故彼女は俺で良いと言ったのか俺には理解できない。

いや、彼女は俺 が 良い、と言ったのか。

もっと分からんやつだ。

「血。大丈夫?」

「......怪我はしてない」

「そう、良かった。お風呂、沸いてるから先に入って着替えたら?」

「ああ」

タオルを受け取り、狭いバスルームに入る。

怪我がないなんて嘘だ。

本当は身体中に致命傷という程ではない傷が沢山ある。

しかし、言わない。言いたくない。


今だに、本当に慣れない。

俺を迎える夕飯の匂いにも

手作りの料理にも

温かい風呂にも

誰かに愛されるということにも

俺だけの為にある腕にも

失いたくないものにも

他人を愛そうとしていることにも

誰かを気遣うことにも


今の生活が幸せかもしれないと言える俺自身にも。


どうして?

何時から俺はこうなった。

是は人間としては良き変化であり殺し屋としては悪い変化だ。

今の所殺し屋を辞めるつもりはない。彼女には悪いが。

....ホラ、また。

「殺し屋を止める」だなんて話。こんなことを僅かにだって考えることはなかった。


慣れない。

付いて行けない。

唐突に色を変えた世界 に。

そして俺はこの色鮮やかな世界が壊れることを畏れてる。

しかしどんなに拒んでも何時かは壊れてしまうのだろう。

其れは生き物がいずれ死ぬことと同じで、誰にともなく決められたことだ。

水が傷口に滲みる。

けれど血をしつこい程に洗い流さなければ彼女に触れることは許されない、気がした。


本音を言えば何をしても許されないと思っていたけど。










彼女といる時間は幸せだけれど気まずい。

愛していても人間的に相性の悪い人間というのはいる物だ。

お互い何処か気まずいのはもう何時ものことだからと慣れてしまったけれど。

テレビやラジオといった騒々しく音をたてる類の物は静寂を誤魔化す為にある物だと思う。

故にその類の物がない簡素な俺の家は嫌な静寂に満たされる。

彼女と付き合い始めて考えるようになったのは、当然ながら彼女のことだ。

自分がそんな人間だったとはあまり認めたくないが卑屈なことばかり考えてしまう。

彼女からも充分愛情は貰っているから分かっているつもりなんだ。

所詮それはつもり、でしかないのだけど。

俺が彼女に愛されていないと言えば彼女は悲しむだろうし苦しむだろう。

でもそれは俺の自惚れでしかないのかもしれない。

彼女は本当は俺のことなんて好きでもなんでもないのかもしれない。

ならば俺の元に居るのは何故だ?

なんのメリットがあって此処に居る。

きっと彼女は何処かの殺し屋企業のスパイで、俺の弱点を探し俺を殺せる瞬間を待っているんだ。

そうきっと今夜にでも寝ている時に俺の咽喉にナイフが突きつけられているんだ。

だから俺は彼女を殺さなければならない遠ざけなければならない消さなければならない。

なのになのになのになのに なのに俺 は



俺は馬鹿だ。

畜生、俺は何を考えているんだ!

そんな筈はない。

もし彼女が俺を殺そうとしているのならチャンスは今まで幾らでも合った訳だし、

弱点を探っているのなら当に見つけている筈だ。

何しろ彼女にあってもう数年経っている。

こんなの被害妄想だ。

忘れろ。今のことは全部。


「KK?」


唐突な声で我に帰る。

ふと目の前に座る彼女を見れば、不思議そうな顔をして俺を見ている。

俺には出来ないくらい真っ直ぐに。

「どうしたの?」

「いや...........なんでもない」

平静を装って再び夕食を食べ始める。

畜生どうしてあんなネガティブな思考を巡らせてしまうのだろう。

可能性の一つとして考えるのなら兎も角、こんな決め付けたような思考。

俺らしくない。

特に会話もなく飯を食う。

傍から見れば倦怠期なようにも見えるのかもしれないが、少なくとも俺は幸せだ。

彼女がどうなのかは知らないが。

しかし幸せはそう長く続くものではない。幸せは、続かないんだ。


純粋なものは時折何より恐ろしい。

白を俺が汚していく様は、見ていて吐き気を催す。

俺は酷い人間だなと思いながらも、何を今更と俺を嘲笑い、

汚す行為を心底楽しんでいる俺がいる。

そんな俺が更に嫌になるのだ、が。

彼女は俺の危険因子。

近付けてはならない。

発せられる危険信号に気が付かないふりをして、俺は彼女に付け入らせてしまった。

付け入ってしまった。アホか。

「KK!」

今度は少し大きな声で名を(勿論本名じゃねぇが)呼ばれて、我に返り顔を上げると

今度は不機嫌そうな顔をした彼女がいた。

彼女は既に自分の食事を殆ど終えている。

「食欲ないの?珍しい」

「いや..........」

「別に無理に食べなくても良いよ?」

「そうじゃなくて」

なんと言うべきか。

言葉が見付からず歯痒くて苛立って頭を掻いてみるが、そんなことをして思い付く筈もなく。

嫌な沈黙だけが部屋の中を満たす。

畜生、嫌いだ、この感じ。

「あの、さぁ。お前」

「なに」

「何時まで此処いるわけ」

彼女は一瞬はっとしたように目を見開いて、それでもすぐに平静を装う。

一方俺はポーカーフェイスが得意中の得意な人間だから、何時も通り、特に何も考えていないようなふりをする。

内心本当は..........って言いたくねぇけど。

昔仕事仲間の誰だかが、俺達は幸せになるべき存在じゃないだのとぬかしてた。

やっぱりその頃も『もしかしたら』なんて曖昧で漠然とした物に期待していた俺は反抗したのだが、

その誰だかは結局幸せとやらの影すら見ずに死んでいったに違いない。

数多くいた友人らはもう今は、二、三人しかこの世にいない。

厳しい世界だとは思っても、それでも俺が死ぬかもしれないなんてことは考えられなかった。


『俺は死なない』と

確信にも似た根拠のない自信が、何処かにあった。

現在進行形で今もある。

それと同時に、何時しかやはり確信に似た根拠の無いけれど根拠のあるやつなんぞより、

ずっと強大で、確実で、揺るがない自信で


やはり『俺は幸せになるべき存在じゃない』のだと。


「....出て行って欲しいってこと?」

感情を押し殺したような声で、呻くように彼女は問う。

そういう意味ではなかったのだが、そう捉えてくれると助かるかもしれない。

「知るか」

適当に答えて煙草に火を点ければ、彼女が自分なりに解釈してくれるだろう。

好きにしてくれ。決定権は俺にはない。

俺が永遠に此処にいてくれと言えばお前は死ぬまで此処にいる。

其れは本当にお前の意思か?

なら俺が何も言わなかったらお前はどうする。

出て行きたいのなら好きに出て行ってくれ。

少なくとも俺は平気だ。

今までだって二十幾年間ずっと、一人で生きてきたのだから。


がたんと音を立てて彼女は立ち上がると、そのまま家を出て行った。

何も持たずに。

とは言っても本来此処は彼女の家ではなく、彼女の家は此処から然程離れていない場所にちゃんとあって、

勿論彼女には彼女を愛してくれる家族も存在している。

頼る場所なら沢山ある。俺とは比べ物にならないほどに。



目の前には冷め切った夕食。

食う気も失せたが片付けるのも面倒くさい。

身体中の傷が痛い。


眠れば痛みも忘れられるだろうと決め込んで、

テーブルの上の其れらは無視してベッドに潜りこんだ。










鉄の匂いが身を包んでいて吐き気がする。

それに夏の暑さも加わって、不快感は増す。

血塗れの身体。腕。顔。

真夜中で良かったと心底思った。


どうしてそう、こんなにも俺は..........



きっと帰っても彼女はいない。

嗚呼でも其れは其れで悪くはない。

夕食はやはりカップラーメンだろう。手料理も良いが、カップラーメンも悪くない。

その前に昨日の夕食を片付けなければならない。

一日放置していて、更に今は真夏だから腐っているかもしれない。

片付けが面倒だ。小さく舌打ちする。


一人なら煙草が幾らでも吸える。

酒もいくらでも飲める。好きなだけ寝れる。

痛みを我慢することもないし、気を使うこともない。

我が儘に悩まされることもない。

メリットだらけだ。ずっと二人だったから。


其れと同時に、二人ならではのメリットも腐るほどあった。



なんて、今更考えるだけ無駄なんだが。

整然とテーブルの上に並んでいた夕食は、彼女の帰りを待っているようで痛々しかった。

帰ったらさっさと片付けてやろう。










「おかえりなさい」

出迎えたのは消えそうに点滅する蛍光灯とその女。

綺麗に並べられた食器と、中身は腐った夕食ではなく、やっぱり彩り良く盛り付けられた夕食。

やはり慣れない。


何事だと唖然としている俺の方をその女は振り返り、申し訳なさそうな顔をする。

「ごめんね。やっぱり私、KKに迷惑だ、嫌だって思われても、此処にいたいの」


なんだか笑えてきて 俺は力なく笑ったあと、彼女を思いきり抱きしめた。

血塗れの身体と腕で。

血塗れだってやはり身体は身体として機能するし腕は腕の役割を果たす。

後始末は大変だがあまり気にすることもないかな、と

何時になくポジティブに思った。



今回ばかりは彼女の我が儘に感謝しよう。












恋する51のお題 20:一人なら

(05.11/19)