僕は未だ曾て無く冷たい眼をして人を見下している。
 此処は何処だ。顔は動かさずに視線だけで状況判断。…この世では無いな、少なくとも。トリップしたんだか死んだんだか寝ているのだかは分からない。僕は立っているが、地面が無い。はあ、と息を吐けば生暖かい水蒸気がマフラーに籠る。気分が悪い。天井は無い。右も左も前も後ろも果ては無い。色は限り無く黒に近い白。限り無く白に近い黒。灰色では無い。世界に色が無く、僕のマフラーと彼が垂れ流す血だけが選ばれたものかのように彩色されている。マフラーは僕からは近すぎてあまり認知できない。因って眼前に広がるのは、赫い赫い。
 目の前で俯せになり這い蹲っている彼が僕を見上げた気がした。判断はできない。彼の瞳があるべき場所にはぽっかりとした黒い空洞だけがあって、その穴からまるで涙みたいに血を流してる。きたないな。
 これがまた、彼の顔も酷い。何をトチ狂ったのかは知らないが、顔中に深い切り傷がある。きっと自分で自分の顔にざくざくとナイフを立てたのだろう。笑える奴だ。
 なのに僕は相変わらず足下のそいつを蔑んだ眼で見やるだけで、さっぱり笑いは出て来ない。目の前の奴が使えない喉で「はは」と笑った。なんだお前。
「……? お前、その指」
 頻りに地面を引っ掻くそいつの手だが、左手の指先が全て欠落している。骨と肉と筋肉の剥き出しになった指先で、彼は地面を引っ掻く。彼の指先の通り道にはドス黒く赤い線が引かれていく。
 彼は何も言わなかったけれど、僕には彼が何を言ったかが手に取るように判った。彼は自分で僕の手の中にあるナイフを遣い、己の指を切断したのだ。其れはもう、何の躊躇も無く、ばっさりと。理由は単純明解で、日頃ギターを弾いている所為で硬くなっていた彼の指先を、彼の彼女はあまり好いていなかったのだ。と、すると、彼の身体の損傷の全てに納得が行く。彼女は眼鏡の人間はあまり好きではなかった(なんでも眼鏡はインテリのようで苦手らしい)。彼女はなるたけ格好良い人が好きだった(そんなの誰だってそうだ)。彼女は頭の悪い人間は嫌いだった(低俗な考えは吐き気がする)。彼女はロックよりクラシックの方がずっと好きだった。空気を歪ませる真空管の音なんかよりピアノの優しく時に激しい静かな音色の方が好きだった。彼女は彼女は彼女は

 人間には好き嫌いがある。
 其れに完璧に沿うだなんて、そんなこと。

 それでも彼は少しでも自身の彼女の意嚮に沿わない部分を消失させたかったのだ。実にケナゲでそれはもう可愛らしい行為である。実に誠実でそれはもう必死な行為である。漸く僕の喉から笑いが零れた。
「はは」
 それはもう、実に不様だ。なんと言う醜態。お前、よく生きてるな。
「馬鹿か!? 馬鹿だろ! お前はなんて不様なんだ! よくもそんな醜態を晒して生きていられるな! とっととその汚い血を全て流し出して死んじまえよ! ああ、もう、お前は本当に馬鹿だ! 僕もさ! お前はそんな、ただでさえ醜い姿を余計に醜くして、其れでも尚彼女に好かれると思っているのか! いい加減分からないのか! お前の彼女に好かれようと言う努力が裏目に出てお前は彼女に嫌われるんだ! ははっ不様だ! お前は本当に救いようの無い奴だな! お前は本当に救いようの無い奴だな! お前は本当に救いようの無い奴だな! お前は本当に救いようの無い奴だな! お前は本当に救いようの無い奴だな! お前は本当に救いようの無い奴だな! お前は本当に救いようの無い奴だな! お前は本当に救いようの無い奴だな! お前は本当に救いようの無い奴だな! お前は本当に救いようの無い奴だな! お前は本当に救いようの無い奴だな! お前は本当に救いようの無い奴だな! お前は本当に救いようの無い奴だな! お前は本当に救いようの無い奴だな! お前は本当に救いようの無い奴だな! お前は本当に救いようの無い奴だな! お前は本当に救いようの無い奴だな! お前は本当に救いようの無い奴だな! お前は本当に救いようの無い奴だな! お前は本当に救いようの無い奴だな! お前は本当に救いようの無い奴だな! お前は本当に救いようの無い奴だな! お前は本当に救いようの無い奴だな! お前は本当に救いようの無い奴だな! お前は本当に救いようの無い奴だな! お前は本当に救いようの無い奴だな! お前は本当に、救いようの無い奴だ!!」

 言葉が記号になってずらずらと口から流れ出る。
 思わず荒くなった呼吸を落ち着かせる。ああ、そう彼は本当に救いようの無い奴なんだ。彼が力無く僕を見上げる。
 違う。違うんだ。だって僕は知ってる。彼は、彼はただ
「判っ て る  よ」
 ひゅーひゅーと無駄に空気の通りの良くなった喉で、血の混ざった日本語とも判別し難い言葉で彼は途切れ途切れに言う。聞きたくない。
「こ んな こ と、する 必要無か った 。か の女に は   彼 女の 好 き嫌い の 意嚮が  在っ て、僕 は其れ に 沿って いなか  った け れど 彼女 は 其 れで も  僕 を 好きと 言って  くれ た」
 ひゅーひゅーと空気の抜ける音がする。すっかり冷静さを取り戻した僕は、最初みたいに冷たい眼で彼を見下ろしている。彼は馬鹿で、とても哀れな奴なんだ。だから、できれば彼女には彼を許してやって欲しい。
「そう、そうだね。彼女は君を深く深く愛していた。何処かしら疑っていた部分も君にはあったかもしれない。それでも、確かに君も彼女を信じていた。君が信じれなかったのは紛れも無く君自身だ。君こそが、一番君を信じられなかった。君は彼女に愛されることをとても嬉しく思っていた。だからこそ、許せなかった」
 きっともう、彼に話をする体力は殆ど残っていない。彼は死ぬ。死ぬんだ。
 僕がこうしたことを、彼女も馬鹿だと言って怒るだろう。当たり前だ。僕や彼だって、彼女にそんなことをされたら怒る。そんなの、酷く当たり前で、当然のことだ。
「……………………………」
「君は君が許せなかった。彼女の意嚮に沿えもしないのに彼女に愛される自分が許せなかった。沿えない自分が憎らしかった。そんな大層な人間でもないのに、彼女に口付けをして凌辱までする自分を殺してしまいたかった。自分が誰より疎ましかった。赦し難かった。僕なんて低俗な人間が彼女を抱き締めたり、況してや抱いたりするなんて、どうしようもなく罪深いことなんだ。そんなことが…赦される、筈が無い」
 だから君は目を抉った。だから君は指を切断した。だから君は顔を潰した。だから君は手を汚した。だから君は喉を切り裂いた。だから君は身体中を切って切って切りたくった。だから、そう。自分を殺すことにした。
 僕は彼に一歩だけ近寄り、片膝を付いた。彼は見えるかのように僕を見上げた。そこには黒い暗い空洞があるだけだ。僕は彼に向かって破顔した。
 これはどうしようも無い劣等感の結果。
 これは激しい自己嫌悪の結果。
 これは他者への嫉妬の結果。
 これは自身への嫉妬の結果。
 これは彼女への愛慕の結果。
 これは冷静なる自己裁判の、判決。
 因って、僕は、


 彼の右手が僕の頬を撫ぜた。彼が僕に触れた部分だけ僕も赫くなる。本当は撫でるなんて生易しいものじゃなく、彼は僕を叩きたかったのかもしれない。だけど彼の手に力は無く、それは撫でるとしか形容できなかった。尤も撫でると形容するには多少ぞんざい過ぎたけれど。彼の腕は僕の頬に痕だけ遺して重力通りに着地する。
 思わず僕は苦笑する。彼の空洞が『判っているんだろう』とでも言いた気に僕を見つめる。常人が見たら絶叫しそうな姿の彼を、僕は醜いとは思えど目もあてられないとまでは思わなかった。
「ああ、判ってるよ」
 僕は再び立ち上がって一歩下がる。もう一度彼を見下ろしたが、彼はもう完全に停止し、二度と動くことはなかった。
(さて、まずはどうするべきか…)

 彼の空洞はぽっかりと、ひたすら虚空を見つめていた。
 一度大きく息を吸って、ゆっくり吐く。
(そうだ)(僕は判っている)
 左の掌を、ぐっと胸に押しつける。どくどくと規則的に伝わる振動。彼女が愛した男は、確かに今此処で生きている。
 酷く穏やかな気持ちだった。僕は静かに目を伏せる。
 そして、
 手の中のナイフが深々と僕の眼を抉った。




 視界は限り無く黒に近い赫へと変わる。
(当たり前だ)(だって彼は)

(僕なのだから)



誰よりも甘く誰よりも厳しい



(06/09/24)