「愛しているよ。」
「それはそれは」





愛しているよ。

(その言葉の使用用途は大きく二つに分けられて、)





 喧騒は穏やかなBGMで緩和させられる。世界はセピアかモノクロだ、所詮。皆さん注目、なんて、そんな言葉自体聞いてる人間いやしねえ。つまりは無駄。喉の酷使は、カワイソウ。折角親御さんから貰ったカラダは大事にしてね。美味そうなお前を餌食にしようというヤツらが沢山沢山お前を待っているんだから。えーと、そうね。つまり、
 俺は気になる人がいる。

 下卑たヤツから出てくんのは、下卑た笑いに始まり下卑た声、下卑た話、下卑た言葉、要するにそいつの構成物質の主成分が下卑。因って出てくるモンも全部下卑た物になっちまうわけです。俺、さっきからゲビゲビ言い過ぎ。何ごとよ、コレ。
 世界は美しい故に汚いものが存在すんです。つまるところの光と影です。ああ、こんなヤツが存在するから彼女みたいな美しい人も存在するんだなあ、なんて思えばこんな虫以下のヤツにもお礼を言って上げたくなる様な寛大な心が俺の中にも芽生えてるんです。俺ってば、超いい人。
 彼女の美しさと言ったら、それはもう、人間じゃないです。自然が作り出せるレベルじゃない。アレは最早、人工物だ。そんなレベル。半端なく君は美しい。
 そう、だから俺は金曜日の二十五時。この時間のタメに生きてるなんて言っても過言なんかじゃないんです。彼女を見るだけで一週間の疲れなんて塵以下です。その瞬間のためだけに俺は生きてる。彼女に会うタメに俺は毎週定時にここへ来る。別に下卑た友人もどきと無駄に時間を潰して酒を飲みに来ているわけじゃんかじゃない。俺はそんなに暇なヤツではない。だって一応売れっ子ラッパーだ。嘘だ。まだまだひよっ子のストリート上がりだ。まあ、ファンはそれなりに居る。自分で言うのもなんだけど、俺はそこいらの男(少なくとも目の前にいる友人もどきズとか)よりは顔はできてると自負してる。頭はどうだか知らないが、とりあえず高校中退です。馬鹿ヤロウ人間の価値なんて学歴で決まるモンじゃねーんだよ。

「ああホラ、ニッキー。もうすぐ一時になるぜ」
「マジか。ありがと」
 慌てたふりをして携帯を開く。本当は外のウィンドウで小まめに時間確認してたんで気付いてましたけど。開いてみると、五十八分十九秒。 なんだ、こうして見るとまだまだじゃねえか。
 もうすぐだ。あと一分以上、五分もせずに彼女は店に現れる。
 出現条件土曜午前一時某洋風酒場。頻度としては少ないが、時間さえ把握すれば確実。言われなくても気付いているに決まってんだろ。お前の一億倍以上俺は彼女の出現を楽しみにしてるんだから。思わず無防備に笑顔になるのも止められない。俺はどこの中坊だ。
 大体きっかけもまた笑ってしまう。きっとご想像の通り。そうです一目惚れです。あんな美しい人、俺は見たことありません。声もまた、人間のものとは思えないくらい綺麗だ。聞き慣れたドアが開く音と取り付けられた安いベルの音。丁度一ヶ月前のここ。土砂降りだった。相変わらず下卑た友人が目の前にはいた。つまり酒が飲みたかったけど、一人は寂しかったってわけです。無意識にドアの方に視線をやって、グラスを落としかけた。「今世紀最大の突然変異」って少し前に出た歌で誰かが歌っていたけどそれは絶対に嘘だ。何故ってそんな人間がいるならそれは彼女しかいないからだ。もしその歌が彼女を歌っているのなら、俺は嫉妬で狂い死ぬ。切腹でもして死んでやる。ってくらいに彼女は美しい。
 彼女の髪や服からは水滴が落ちていた。其れこそ言葉通りの水も滴るイイ女。あ、其れは男でした? 彼女は一息吐くと、つかつかと店の中を歩いて躊躇無くカウンターへと腰掛けた。彼女がドアを開けた瞬間からだが、俺はまったく目が逸らせなかった。彼女はバーの扉を開けて、カウンターへと座りマスターに酒を注文しただけだのに。なのに其れはもう映画のシーン宛らで、他の彼女を見ている男共の目を俺は覆い隠してしまいたかった。
 ああ、しまった。俺は彼女に恋をした。
 …―以上、回想終了。
 其れだけだ。本当に其れだけ。別に話をしたことがあるわけでも無く、目が合ったことすらない。声に至っては、彼女がマスターに酒を注文するときのものだけ。たったそれだけでだなんて、中学生か良くて高校生の話だ。通学途中にすれ違う、または同じ電車に乗っている彼女に恋した! なんてのと全く以て同レベル。有り得ねえ。もう成人して何年経ってんだって。
 まあ、俺が単に面食いだと言うのもあるだろう。従って、彼女とは関わりを持たないほうが良いかもなんてことも俺は思っていた。だって、理想が崩れるのは困る。しかし、今のままだって困る。こんなの生殺しだ。苦しい。(俺が恋愛で苦しむだなんて!)
 彼女は今流行のツンデレなのかいつも無表情だ。一ヶ月前の雨の日以来、彼女は毎週同じ時間に此処へ来るようになった。何時も同じカクテルを飲んでいるように見受けられる。別段酒が好きという訳でも無さそうだ。カクテルを作っている姿を彼女にじっと見られているマスターがかなりな感じに羨ましい。少なくとも、今まで作り上げたラッパーとしての地位を投げ捨ててバーテンダー見習いになっちゃいたいくらいには羨ましい。いや、なってねえけど。ならねえけど。
 いつも一人で彼女は店に訪れる。一人で酒を頼み、一人で酒を飲んで、一人で帰っていく。彼女に目を付けてる男は店内に何人もいるのは俺でも分かった。実際目の前の友人Aも目を付けていた。負けない自信はある。先ほど時間を教えてくれた友人Bは一応妻子がいるそうだから興味は無いらしい。いや、わりとあるらしい。兎に角、彼女に目を付けている男は掃いて捨てるほどにはいる。が、少なくともまだ「隣、良いですか?」とか、ましてや「今夜空いてますか?」なーんて訊いちゃうような猛者は現れてない。好都合。俺は今作戦を練っている。嘘だ。
 俺は彼女を手に入れたいと思っているが、思っていない。もし誰かが彼女を誘って彼女が了承したら、俺は死ぬほど嫉妬する。けど、つまるところは恋愛なんて面倒くさいのだ。死ぬほど嫉妬するよりもずっともっと面倒くさいのだ。だから万が一話しかけることになったときは、作戦も何も立てずにぶっつけで思いついたことを言うんだろう。できれば潔く終わりにしたい。だから、作戦なんて考えるだけ無駄。まだ何も行動していないのは、単に即で断られたら俺が無様で恥ずかしいから。そんだけ。
 そう。それで俺は、このバーに来るのは今夜が最後と言うことにした。バーなんて別に幾らでもある。恋をすることからして初体験の男子中学生みたいにいつまでも、彼女がここに来なくなるまでこうした気持ちを抱えてい続けるなんて、そんなことはしたくない。何故って俺はそこまで純粋ではないし、恋愛未体験でもないし、むしろ女に困ったことなんて一度もないし、そんな長い気は持ち合わせて無いからだ。とか言いつつ、恋愛をしたことなんてないのかもしれない。面食いの俺のお眼鏡に適う女なんてそうそういなかったし、俺は俺に近寄ってくる女を片っ端から喰っていっただけだからだ。いちいち一人一人に思い入れなんてものないし、思い出すらない。今まで付き合った女の顔の半分も思い出せれば上出来だ。
 しかし俺はそんな俺が冷たい人間だなんて全く思ってない。だってそれが俺にとって普通だし、俺の周りにとっても普通だからだ。捨てる人間が悪いんじゃなくて、捨てられる人間が悪い。つまり捨てられるヤツはその程度の人間だったと言うだけで、それは一重にそいつの力が足りなかったってだけ。
 ベルの音が響いた。
 はっとしてドアを見やる。安っぽいベルは彼女がドアを開いた時だけ高貴な音を発する(ように聴こえるだけ)。彼女は今日も美しい。それは世界に毎日朝が来て夜がやって来るのと同じくらい当たり前のことだ。彼女は何時も通り、カウンターの一番端の椅子に座った。マスターが常套句みたいな挨拶をして、いつものですかと訊ねた。俺はいつもタイミングを見計らうのが苦手だ。いや、いつもではない。物によっては得意だ。
 今日も同じ酒を頼んだらしく、彼女の前に青い液体が差し出される。彼女が酒を飲みだして一息吐いてから、を狙う。狙うなんて言ったところで、当然策は無い。
「ひゅーニッキー。今日もお熱い視線を送ってんね。オレ妬けちゃう!」
「ばっか俺のあつーい視線は若い女の子限定なんですー」
「ははっ、当たり前だろ。お前にそのケがあったら退くっつーに」
 いや、案外そういうの好きな人なんかには受けるかもよ? ニッキーきれーな顔してるもんなあ。バカ、俺たちがの話だって、なんてやり取りをしてバカ笑う。タイミングがなあ、難しいんだよなあ、こういうのって。
 完璧タイミングを見失ってる。どうする。どうする俺!?(選択肢のカードがあったら楽なのに)(某CMみたいにさ)

 頭を抱えて悩んでいると、友人Bがばしばしと俺の肩を叩いてきた。
「あ? なんだよいてえ………」
 友人Bの言いたいことはよく分かりました。一瞬で分かりました。
 見知らぬおっさんAが、厚かましくも彼女の右隣の椅子に腰掛け彼女に話しかけていた。まずい。コレは非常に由々しき事態だ。
 俺は冷静に酒を飲んでいるふりをして、ちらちらと横目で彼女の方を盗み見た。友人Aは隠す気も無いように彼女の方を見ている。ガン見だ。くそっ、あのヤロウ! と小さく毒づくのが聞こえた。俺もそっくりそのまま同じ心境だ。気安く彼女に話しかけやがって。
 彼女が困ったように笑った。困ったように困ったように困ったように、
 くそ、こんなのって、無い。
「え? おいニッ…」
 もう我慢ならん。

「おい」
 ぎり、とそいつの左手首を締め上げる。ああ、しまった。これも無い、俺。これは絶対無い。
 今更なんだが、俺は物凄く自己嫌悪している。これはない。酷すぎ。と、言うか、痛すぎ。俺が。激痛! 俺、激痛!
 どうにも収集のつかない俺を、オッサンが少しびびったような顔で見上げる。当たり前だ。俺って年配とか子供から見たらそれなりに怖そうな風貌をしている。あからさまな現代のコドモ。何をしでかすか分からないって、触るな危険。一方彼女も俺を見ている。俺はさぞかしバツの悪そうな顔をしていることだろう。ああもう、はしたなきもの! オッサンの左手首を締め上げる、この手の収集が一番付かない。どうしたものか。
「…遅かったのね。待ってたのよ」
 急に何を言い出すんだ、と言う目をオッサンと俺が同時に彼女に向ける。ついでに俺は言いそうになった。ギリギリで口を噤む。彼女は俺の収集の付かない事態をわりかし収集はつく、でも矢張り俺に言わせれば『ソレは無い』な方法で収集してくれたらしい。俺も便乗する。
「っそう! 悪ィな、遅れちまって」
「そうよ、もう十分も過ぎてるわ。まあ、前々回は三十分遅れてきたし、そのときよりはずっとマシね」
 ふふ、と彼女は笑った。う、わ、彼女の笑顔が俺に向けられている。
 恐らく今の俺は顔が赤くなっている。まずい。だから俺は中学生かって。
「ね。そろそろその手、離したら? そのかたは何も悪くないのよ。なのに貴方が早とちって…」
「…え、う、ああ。悪い」
 言われた通りすぐに手を開き、オッサンの左腕を開放してやる。俺だってそんな長い間オッサンの手を握ってたりなんてしたくない。腕を解放されたオッサンはそそくさとその場を後にした。こういう設定を作ってしまって以上、とりあえず俺は空いた彼女の右隣の椅子に座る。
 彼女はオッサンが去っていったのを見てから、俺へと向き直った。有り得ない。本当に有り得ない。だって、こんな。こんな。
 こんな古い少女漫画みたいなの。あざと過ぎる。
「ええと、ありがとう。と、言うべきかしら」
「………………別に礼とか、いい」
「ううん」
 落ち着け。落ち着け俺。とりあえず、普段の飄々とした、余裕綽々の俺を取り戻せ。俺の頭は今おかしい。
「何かお礼がしたいな。何か、いいお礼は…」
「あ、の」
 ぐるぐると俺の頭の中を色々な言葉が駆け巡る。考えなければ考えなければ、その場凌ぎでも良いから今一番ベストな言葉を考えろ。考えろ考えろ。数多の女を落としてきた俺の口!考えてきた脳! 期待してる! 信じてる! 頼むから何か…………『今夜いいですか』駄目だそんな卑猥な台詞! 『一緒に飲みませんか』だって其れは確実に今こんな状態なんだし飲めるだろ! 『今度一緒に食事でも』別にそんな食事とか興味ねぇしこの人が満足しそうな処で奢る金なんて持ってねぇ! 『どんな仕事をしているんですか』そんな話題は唐突すぎる! 『お名前は』流石に安易だ! 『お幾つですか』レディに年齢を訊くのは御法度だなんて小学生だって知ってるだろ! くっそ俺の頭が此処まで使い物にならねぇとは思わなかった!! 酷いなんてモンじゃない。不様な姿は晒せない。だって酒場の半分以上の人間が見ている。不様な姿は晒せない。


「愛してる」

 彼女が呆気に取られたような顔で俺を見ている。あーしくじったーしくじった。
 心の中の俺は、あーあ、とでも言いたげに呆れたように肩を竦めた。現実の俺はそんなことすらできないでいる。

 馬鹿か、俺は。
 馬鹿だ。






(07/07/29)