六畳一間、唯一の居場所を奪われた。
 三流大学の講義は暇だ。試験をやり過ごして単位さえ取ればそれでいい。どうせたいした試験もない。出席日数はぎりぎり足りてる。たぶん。ちゃんと数えてはいないからわからない。なに、足りなければもう一年通えばいいだけだ。親の脛は齧れる限り齧りつづけるつもりである。肺一杯に煙を深く深く吸い込んで、ちょっとだけ噎せて、それでも平静を装いなるべく細く息を吐く。ちっとも美味しくないくせに依存性だけを残すそれに突然無性に腹が立って、火も消さずに指でへし折り流しの中へ投げ捨てた。くもった銀が黒とこげ茶に汚される。壁にだらりともたれかかって、ゆっくりゆっくり息をする。どうせ見るものもないのでずれた眼鏡は直さない。貧乏学生の一人暮らし、テレビなどといった高尚なものはないのだ。と、以前ならばのたまってみたのだろうが、先日この部屋から追い出されてしまった。実家はここからさして遠くない。おれが暮らしていたこの部屋は、馬鹿で愚鈍で中二病な弟に奪われてしまったのだ、ああ、憎らしい。大体おれはあいつを弟だとは思っていないし、向こうもおれを兄とは思っていないだろう。不本意だけれど血が繋がっている、それだけのことだ。まったく気紛れがこんな面倒ごとに発展してしまうとは。めんどうくせえ。おかげでおれは我が家であるはずの古い六畳一間のアパートを追い出され、二度と寝床に使うことはないだろうと思っていたかつての家、かつての自室での生活を強いられている。しかし黙っていれば勝手に食事がでてくる生活というものは非常に楽で有り難い。
 両親には、弟は家出したのだと伝えた。おれのアパートにいることは伝えているから特に心配はしていないようだ。何故あいつが家出したのかは知らないだろうが、どうせ思春期だからくらいに考えているのだろう。その判断は正しい。親と言え首を突っ込むべきではない。面倒なことになりたくないならば。
 薄い扉の開く音がしたほうへ顔を向けると、学ランを着た阿呆が立っていた。何故おまえがここにいるんだと言う心情を惜しげもなく晒した間抜け面でおれを見る。悪いか、ここは元来おれの家だ。
「……なにか用かよ」「暇だからたまには真面目に大学生をしようと思ってな。必要な文献の類もすべて置いたままだったから取りに来た」手を翳して少し待てと意思表示をすると、あいつは一旦部屋に引っ込んだ。
 あいつ変わったなあ、なんて小さく口の中で呟いてみる。死んでいるくせに、やたら目だけがぎらぎらしている。ああいうのを、イマドキの子供と言うんだろう。非行少年。もっと茶や金の髪で、いかにもいまどきの若いやつを言うのだと思っていた。おれやあいつには、似合わない。とても真面目でしっかりした子でしたよ、なのにどうしてあんなことを……耳障りな編集された声とモザイクをかけられた町内の映像。いつかワイドショーで流れるかもしれない陳腐な報道は容易に想像できて、笑えた。
 一番のきっかけは、あいつが女子と歩いているところを見たことだ。中坊かというほどに頬を染めたあいつを見て、ああ青春だなア、などとおれは思って、風が青くて、それからじくじくと醜い気持ちが湧き上がってきて胸を埋めた。おれは女子と並んで歩いたことがない。青春だなアなんて自分に思ったことは一度もない。一度たりとてないのだ。二十年も生きていながら。一度もだ。
 あいつがその女子を好いていることは一目見ただけで十分すぎるほどにわかった。当時まだあいつと同じ屋根の下に暮らしていたおれは彼女との関係やら何やら、根掘り葉掘り鬱陶しく問い詰めてみた。暇だったのだ。最初は無視や適当な返事ばかりしていたあいつも、とうとうおれのしつこさに折れてただの友達なのだと白状した。頭の片隅は女子と並んで歩けるあいつをいいよなアいいよなアと嫉んでいたが、そんな阿呆みたいな感情は自分にも見えないところに仕舞いこんだ。おれがこの馬鹿で阿呆で愚鈍な中二病の弟に嫉妬? ありえない話だ。笑わせるな。
 それから何度かあいつが彼女と一緒にいるところ目撃した。たまにあいつはおれに気付いて、なんともきまりの悪い顔をした。それから教師に楯突くこどものようにきつとおれを睨んだ。それを見てなんだかおかしくて、きっとこいつはおれのどこかにある嫉妬心に気付いているのだろうなと他人事のようにぼんやり思って、醜い心情すら通り越してすっかり悲しくなってしまっておれは笑った。負けた、こんなやつに。
 こうすることは、なにかの本を読んでいたときに思いついた。あいつとはなるべく関わりたくないが、暇潰しとしての弟いじりは好きだ。半ば冗談で、あいつに提案をした。有象無象に消えろと心の奥底で念じたり、嫌いな教師についてクラスメイトと死ねばいいと話したりするような、そんなレベルの可愛い冗談だ。そんなことはどうでもいい。大学もろくに行かず暇だったおれはわざわざかつての我が家に出向き、おれの提案をあいつに話した。あいつは気が付いていなかったようだが、おれはあの女子があいつに好意を持っていることを確信していた。しかし、あいつにそれを気付かせるわけにはいかない。おれのプライドのためだ。弟には負けたくない。負けてはいけない。なににしたって、「弟」は「兄」より格下だ。おれはおれのプライドを守らなければならなかった。どうしても。ぺらっぺらの紙みたいなプライドだ。しかしながらそれはそれで、よく切れる。
 再び扉が開き、コートを着たあいつが出てきた。「買い物に行ってくる」自分が帰るまでここにいろということなのだろう。なんて人遣いの荒い弟だ。兄をなんだと思ってる。靴を履いてトントンと床を蹴り、あいつはさっさと家を出て行ってしまった。どうせ暇だし、ここにいることそれ自体は構わないのだが、あいつに遣われているという事実が気に喰わない。この近くにコンビニはないから、あいつは歩いて十分強の場所にあるスーパーへ行ったのだろう。すると、帰ってくるのは少なくとも三十分後か。悪くない。
 ぎいぎいと軋みを上げながらゆっくりと閉じていた玄関が大きな音を立てて閉まる。部屋は静寂に包まれた。壁に背中をつけたままだらだらと立ち上がり、六畳の部屋への扉を見た。ここから先は非日常。くだらねえ、めんどうくせえ、そう言った思いを遠くへ追いやって、面白いと思い込む。たしかに、つまらなくはない。
 部屋に入ってまず認識できたのは異臭だった。慣れてはいるが、あいつのものだと思うと至極気分が悪い。うっかりそれを吸ってしまい吐き気を催す。小さく息を吐く。すっかりおれの部屋はおれの部屋ではなくなっていた。一先ず窓を開き、高校数学の教科書と真っ白なワークの広げられた乱雑な机の中から必要なものだけ引っ張り出して重ねていく。ルーズリーフとファイルとつまらい専門書。論文。忘れ物があればまた取りにくればいい。ここは家からたいして遠くないのだから。それらを鞄に詰め込んで床に置く。振り返ると部屋の角にぴったりと万年床が敷かれていて、その上で皺のついた服を着た彼女が静かに寝息をたてていた。一瞬悩むふりをするも、悩み始めたときは答えがでているときだ。おれはもう一度彼女を見た。どう見てもこの季節には寒いであろう薄い生地のスカートから、細く白い足が見えている。彼女は眠っている。無防備だ。おれは脳内からすべての面倒ごとを抹消し、彼女の上に圧し掛かった。欲望を満たすには理性が邪魔で、しかし猿にはなりたくない。欲望に流されないただそれだけが馬鹿な今日の若者を見下せる唯一の資格であり矜持であったというのに。欲望なんて欲望なんて欲望なんて、それで気がつく。今までおれが欲望に流されず理性を保ち続けられた理由。おれを流そうとする事象がなにもなかったからだ。世界はおれに興味がない。自発的にも、うごかない。そんなことならば、そんな、矜持なんて。今更。





六 畳

(08/05/15)