放課後。わたしはあの人の下駄箱を開けた。驚愕した。閉めた。見なかったことにした。
「……なんであんな怖い人がもてるの」
 まったくもって人のことは言えなかった。なにしろ、わたしもその怖い人に惚れている一人であったからだ。そういえばひっそり彼のファンクラブもあったのだった。何故群れることをなにより嫌う彼のことでわざわざ群れなければならないのだ。不可解なこと極まりない。と、きっとわたしと同じような意向であったり、集まって好き好き格好いいと分かち合うのでなく本気で彼を狙っている(それこそ彼と同じ獣のような貪欲さで)(女ってこわい!)人であったり、ファンクラブに所属せずとも彼に思いを寄せている人は沢山いるだろう。前途多難だ。ライバルだらけじゃないか。くっそうみんな山本くんや極寺くんに流れてしまえ! あれ、一体わたしは何を考えているんだろう。これは恋じゃなくてただの憧れだと昨夜何度も言い聞かせたばかりなのに。成就させたいともさせようとも考えたことなんて一度もないのに。(そんなのうそだ)
 あんな大量のチョコレートの中に自分のものを埋もれさせたくない。あの人のことだからそのまま捨てるなんてことも充分に有り得る。そんなのいやだ。せめて食べて貰いたい。吐かれたっていい。とにかく口に入れて味わって、や、やっぱり吐かれるのはいやだ。
 しかしこんなこと、誰だって思うんじゃなかろうか。沢山の中に埋もれてもいいだなんて本気で好きならまず有り得ない。こうなったら手渡ししか。ああきっとこれも誰もが考えることだろう。そして諦めるに違いない。あの射るような目、素人でもわかる殺気、他に向けられているからこそ素直に格好いいと思えるけれど、あれが自分に向けられるなんて想像しただけでもう。恐怖以外のなにものでもない。それでも猛者な恋する乙女は彼の視界に入りたいがためだけにわざと校則を破るのだ。短すぎるスカート、勝負メイク。肩より長い髪はパーマ。彼の目に入らないはずがない。それで、朝っぱらから中学校の正門で咬み殺されるのである。流石に男子相手のときよりは手加減されていたようだけど、彼に咬み殺されて無事なはずがない。ご愁傷様です。しかしながら、自業自得。結果は見えていたろうに。それにきっと、雲雀さんは清純好きだ! 大和撫子ラブなのだ。そうに違いない。そしてその仮説が本当だとすると、更にわたしには望みがない。はあ。
 あの人は怖い。恐ろしい。でも、一度くらいあの目で睨まれてみるのも悪くはないかもしれない。だってずっと好意を寄せていたのに、卒業まで一度も彼の視界にすら入れないなんて悲しいじゃないか。校則違反とはいえ、流石にチョコレートを渡しにきただけの女子生徒を咬み殺しまではしないだろう。そう思いたい。
 応接室の扉の前に立った。部屋の中は静寂だ。一切物音がしない。もしかして、いないのだろうか。そういえばよく校内を巡回してるもんな。取り敢えず、ノックして、開けてみて、それで帰ろう。残念だけれど内心実は安心している。それで、勇気が涌いたらテーブルの上にでも置いていこう。差出人は書いてないけど(それで当初下駄箱に入れるつもりだったのだ)(埋もれる気満々である)。でも、いないとわかってても怖いな。右手の甲を扉の前に翳す。息を深く吸って、吐く。もう一度、ゆっくり吸って、吸って、
 ガラッ。
「なにか用かい」
 不意打ちで開いた扉の向こうに雲雀さんが立っていた。いつもと同じ薄い笑みを浮かべている。は、と呼吸することを思い出して息を吐いた。少し吸って、ようやく現状を理解する。わたしの手の中のものを見て、雲雀さんは顔を顰めた。あ、だめそうこれ。
「え、ええとですね」
「わざわざ言う必要はないよ。どうせこれでしょ」
 ひょいと私の手の中から丁寧に包装された箱を奪われた。
 あっ、
 声に出したかどうかはわからない。気が着くと箱は放物線を描いて飛んで、応接室の床にガチャンと喧しい音を立てて落ちた。視界に入った机には、ざっと十個前後のチョコレートらしきものが転がっている。やっぱりたくさん同じことを考えた女がいたらしい。
「まったく、いつも僕が校則や秩序と言っているのに君たちは本当に学習していないんだね。それに、その辺の群れているような男にあげるならまだいいよ。見つけたら咬み殺すけど。どうしてわざわざ、咬み殺されるとわかって僕にこんなことをするんだい。馬鹿としか思えないね」
 どうやら続くチョコレート攻撃に苛立っているらしい。ゆっくり、けれど一気に言って、雲雀さんはふうと溜息を吐いた。あきれる、とも漏らした。一方わたしは少々ひしゃげてしまった白い箱から目が離せなかった。手は所在なさげに箱を奪われたときのまま。驚いていて、まだショックは伝わりきっていなくて、悲しくはなかったけれど涙は出そうで出なかった。
 涙目のわたしを見て、なんだよ僕が悪いみたいじゃないかと雲雀さんは更に顔を顰めた。いえ、確かにあなたの性格を正しく理解せずこうしたわたしも悪いですがあなたも悪いです。目頭が熱くなって頭が少しぼんやりする。こんなこと、しなければよかった。
「……ご、ごめんなさい。持って帰ります」
 雲雀さんとドアの間をすり抜けて箱へと向かう。ちょっと。制止の声の通りに止まった。しまった、勝手に入るなと怒られる。また間違ってしまった。続いて飛んでくるであろう辛辣な言葉に身構えたが、痛いものはなにもわたしに投げかけられなかった。
「それは、なに」
 それの指すものが判らずに、わたしは首を傾げ雲雀さんを見た。少し考えて、行動を振り返って大きな粗相のないことを確かめて、やっとそれがわたしの持ってきた箱を指していることを理解する。
「チョコレート?」問いながら雲雀さんは応接室の扉を閉めた。えっ、ちょっと待って二人きりって。帰りづらいし気まずいしどきどきするからやめて欲しい。動揺をなるべく隠して答える。
「で、す」
「ミルク? ビター?」
「どちらかと言うとビターめなかんじで……」
「お酒は入ってるの」
「は、はい。リキュールが少し」
「未成年の飲酒はだめだよ」
「なっ、お酒のない洋菓子なんて腑抜けです!」
「さっき、ガチャンって言ったけど」(無視された……!)
「あの、陶器にですね、入っていたのです。なんと言うか、チョコプリンとムースの中間のような……」
「ふうん」
 興味なさそうに言うと、組んでいた腕を解いて扉の前から離れた。ひしゃげた箱を広い、机に付随した地味ながらシックで柔らかそうな椅子に深く腰掛ける。机に散乱している箱や袋を右腕でのけた。真っ黒な机に生える書類の紙が顔をだす。うわ、万年筆使ってるよこの人格好いい。雲雀さんの長い指が、白い箱に掛かっていた薄紫のリボンをするりと解く。歪んだ箱を開けると、雲雀さんはまじまじと中を見た。
「……割れてる」
「あ、あの結構すごい音したし、仕方ないですよね」
 努めて明るく言ったけれど、内心わりと泣きそうだった。この苦労の丈は、当人にしかわからない。しばらく箱の中を見ていた雲雀さんは顔を上げ、じ、とわたしと見た。数多の人間を咬み殺してきただなんて嘘みたいに澄んだ目は感情がまったく窺えない。永遠に続くのではないかと思われた沈黙が破られ、白い箱は机の上に置かれた。ギシリ、椅子が鳴る。
「僕は低血圧なんだよ」
 急になんの話だろう。受け答えのしようがなくて、曖昧な返事になる。伝わっていないことに苛立ったように僅かに目が細められた。
「君の足音で目が覚めた」
「えっ、ごめんなさい!」
「謝らなくていいよ。このくらいの時間に起きるつもりだったし」
 怒っている、わけでもなさそうだ。少し話が見えてきた、かも、しれない。苛立っているというより拗ねているようにも見える。この人、実はものすごく可愛いんじゃなかろうか。
「これ、貰ってあげるよ」
「え、でも」
「お腹が空いてるんだ」
「それならほかにも」
「これはいらない。こんなに食べない。あげる。持って行きなよ」
 ほら、とわたしの腕の中にぞんざいに落としていった。入りきらず床に転がり落ちた幾つかを拾って上に乗せる。あ、ちょっとまって、思い出したようにそう言うと、わたしの腕の中から無雑作に二つ三つ引き抜いてゴミ箱へ放り込んだ。「えっ、なんで」「あれは食べないほうがいい。嫌な感じがする」なんて野性的な嗅覚をしていらっしゃるのですか。
 どうするべきか悩んだ挙句、一旦しゃがんで手に持っていたものを降ろし、背中の鞄にチョコたちを入れていった。ごめんなさい、みなさん。恋する乙女は残酷なのです。あの人の口に入ってしまうくらいなら、わたしが美味しくいただきます。「でも、どうしてわたしに」「草壁にあげるつもりだったんだけど、今日はもう帰らせてしまったし、去年あげたらすごく悲しそうな目をされたから。それに君、すごくお菓子が好きそうな顔をしてる」「はあ……」確かに好きだけれども。
「ねえ、スプーン持ってるかい」
「あ、はい。昼食に使ったやつなら」
「貸してよ。食べられない」
「ええと少し待ってください。洗ってきます」
「あっち。給湯室」
 心臓がもたない。なんて気紛れな人なのだろう。冷たい水で、ごしごし洗う。か、関節ちゅー……。
 戻ると雲雀さんは既に仕事を始めていた。机の上にはわたしの作ったチョコがいささか残念な姿になって存在していた。しかし箱がクッションになってくれたのか、割れたのは一部分だけだったらしい。器としての役割はまだ果たしていた。書類から目を離す様子がないので、その器に添えるようにスプーンを置く。スプーンはよく弁当に付いている、持ち手の太いファンシーなキャラクターの書いてあるものだ。この人がこんなスプーンを使うなんて、可愛いにもほどがある。
「スプーンは明日教室に返しに行くよ。もし僕が来なかったら、放課後ここにおいで」
「はい」
「今度はすぐにノックしてね。怪しいから」
「ば、ばれてましたか……」
「擦りガラスだからね」
「えと、気をつけます。あの、食べるとき破片、気をつけてくださいね」
「大丈夫だよ」
 ふ、と小さく雲雀さんは笑った。小さく頭を下げ、幾分重くなった鞄を持って廊下に出る。もう一度会う約束までしてしまった。まだ信じられない。なにせあの、あの雲雀さんだ。あの雲雀さんと話して、睨まれて、溜息を吐かれて、だけどちょっぴり笑ってくれて、チョコを受け取ってくれた。なんて夢みたいな話だろう。
 日はすっかり傾いて廊下は赤く染まっていた。まだ心臓がどきどきしている。端整な顔が目蓋の裏から離れない。整然と続く窓の向こうの薄橙の空にはオレンジピールのような雲が棚引いていた。おいしそう。





チョコレート闘争 戦線離脱


乙女モード全開'08バレンタインフリー夢。テキスト、タグ、好きな形でご自由にどうぞ。
(08/02/11)