君に逢えない夏季休業なんていらない

 もうすぐ夏休みとのことで、定期試験も終わり学校は浮き足立っていた。もちろん試験の結果には落胆させられるのだけど。さして荒れているでもないごくごく一般的な学校だ。「彼」に支配されているという点を除けば、平凡も平凡。至極平和だ。校則さえ破らなければ。そして彼の前で群れなければ。
 八時二十九分三十六秒に教室の扉をがらがらと開けると、クラスメイトが前方黒板の前にわらわらと集まっていた。
「おはよう。ね、これなにごと?」「ちゃん」わたしの声に振り返ったともだちたちは大層まっさおな顔をしておられた。ともだちたちだなんておかしな日本語、などとくだらないことを思いながらもわけがわからず首を傾げると、ともだちの一人であるりーちゃんが黒板を指差した。正しくは黒板の真ん中に貼り付けられたしろい紙を。クラスメイトの隙間を縫って紙の正面へとたどりつく。
「『夏期講習実施のおしらせ』」気取った明朝体のうつくしい字が並んでいた。
「補習みたいなもんよ」「ふええ」万年ど真ん中のわたしには関係のない話である。「それも全員強制参加」「うええ!」それは関係のある話である。しんじらんないでしょ、とひょっとこが肩をすくめた。ちなみにひょっとこというのはあのひょっとこのことではなくわたしのともだちのあだ名である。まのぬけたあだ名とは裏腹にベリークールな美人さんなのである。当然ながら人間である。残念ながらわたしにひょっとこのともだちはいない。学校と町をひとつ支配しているこわいこわいともだちであればいるけども。
「いやだあ」「いやよね!」「そうでしょう」掴みかかるように同意されてはなはだ困惑。二人の意図が掴めません。鐘が鳴って先生が教室に入ってくるけれどざわめきは止まらない。みんな夏休みだいすきだものね。二人にがくがくと揺さぶられながら、人だかりで教卓に立てない先生に少しばかり同情する。調子の狂った音が響いて、校内放送のノイズ音がざらざらと教室を満たした。そこになにもないとわかっているのに生徒も先生も顔を上げてスピーカーを見る。
『生徒のみなさんおはようございます』教頭先生の声だ。
『夏期講習のことについて、不満のある生徒も多いでしょう』当然のはなしである。『しかしもう決まったことなのです。近年のゆとり教育による学力低下は顕著なものでして、』うんぬんかんぬん。そんな理論にはだれも興味は持っていない。もうだれも放送を聞いていなかった。「ヒバリだ」誰かがそう呟いた。「そうだ、ヒバリだ」「ヒバリが」ひばりひばりと教室の中は一気にその単語に侵される。でた、またあのひとか。かんべんしてくれ。ほんとうに。
『しかしですね、我々だって本当はこんなことはしたくないのです。我々を恨まないでください。すべては――』ぶちん。決定的だった。放送はそこで途切れて、放送終了のチャイムはついに鳴らなかった。教室が、学校中が、奇妙な静寂に包まれる。都合の悪いことを言われぬよう放送を切ったのは、言うまでもなく「彼」に他ならなかった。おそろしい。やはりこの学校は平和じゃなかった。そりゃあ、おかしいはずだ。風紀委員に支配されているなんて。
!」
 肩に置かれた手に一層力がこめられて、ひょっとこがわたしの名を叫んだ。りーちゃんもわたしを見る。こんなにも意志のつよい二人の目を見るのは初めてのことだ。どうにも反応に困ってわたしは無様な引きつった笑みをうかべた。教室にいる全員がわたしを見ていた。すがるような目で。さながらわたしは圧政に苦しむ村民たちに魔王討伐を依頼された貧相な勇者だ。

 「彼」はたしかにわたしのともだちであるが、他のともだちとはいささか具合が違う。どのように違うのかと言うとまたいかんとも説明し難いのだが、簡単に言ってしまうと淡白だ。わざわざ外で会う約束をしたことはないし、さして内容はないはずなのだけどなぜだか妙に楽しいおしゃべりに長い時間を割くこともない。思い出したように彼から仕事を手伝ってよ、と声をかけられてどうせ帰宅部であるしそう勉強熱心な人間でもないからと暇つぶし程度に事務仕事を手伝う。すると草壁さんがお茶菓子や日によって様々な種類のお茶を淹れてくれるので、それを食べて飲む。それくらいの関係だ。応接室のふかふかのソファで食べるお茶菓子もお茶もおいしいけれど、これもわたしの両親のだした税金で買われているのだと思うとふくざつだ。わたしのであればまだいい。これがりーちゃんやひょっとこの両親がだした税金であったらもっともっと申し訳がたたない。いけない子でごめんなさい。でも一番悪いのはわたしではなくあのひとです。雲雀さんであるのです。
「なにか用」
 ひどく不機嫌そうな声だ。扉の向こうにつっ立っているわたしを見て雲雀さんは目を細めた。わたしがなにも言えずにいると、ふわ、と大きく欠伸をしてやわらかな椅子の上で伸びをする。不機嫌なのは寝起きだからか。わたしのせいではないらしい。しつれいします、断って返事も聞かずに応接室へと足を踏み入れた。魔王の城は豪華なものと相場が決まっている。
「今日は特に手伝って欲しい仕事もないよ」「見ればわかります。寝る余裕があるくらいですから」「僕は自分の寝たいときに寝る」仕事の量なんて関係ないね、そう言って彼の猫のような目が怪しく光った。
 今回のことが彼のせいであることは明白も明白だ。他にありえないし考えられない。教師たちはなるべく楽をしたいのだ。そういう素振りは見せずともわかる。少なくとも自らの夏休みを潰してまで生徒たちに貢献しようなどというボランティア精神に富んだ教師はいない。それで絶対にめざましい結果が出るというのならばともかく。この学校はごくごくありふれた平凡な学校なのである。学力だってそうだ。
「君がなぜここに来たのかはわかっているよ」
「それは話が早くてよいですね」
「君はお人よしだからね」「そうですか」「馬鹿とも言う」「その等式は聞いたことがないです」「初めて言ったからね」「そういうことじゃなく……。なんですか」「なにがだい」先刻の不機嫌さはどこへやら、楽しそうに彼は笑う。笑っているのはいつものことだが機嫌のいいことは滅多にない。その上機嫌がおそろしい。いやに楽しそうだ。今は草壁さんも室内にいないのでなにかあっても助けてくれる人はいない。もっとも余程なにかあるとき草壁さんはわたしではなく雲雀さんの味方をするのだろうけれど。
「夏期講習についてだね」「です」「存外、君もなかなか屈強だ」「そうですか」「頼まれたと言え、僕に意見しようとする人間なんてこの学校にいないよ」「わたしがいます」「君だけだ」ヒバリファンクラブの会員たちは彼にこんな言葉を言われてこんな笑顔を浮かべられたら間違いなく卒倒しただろう。しかし生憎わたしはファンクラブ会員ではないし彼の気まぐれには人より耐性がある。臆すことなどない、やはりこの並盛でもっとも魔王討伐に適しているのはわたしです。沢田くんにもあの赤ちゃんにも負けません。会話の一連をイメージトレーニングしてから口を開く。なぜこんなことを、学校を愛しているからだよ、いっそがっこうといっしょにしね! よし、かんぺき。
「雲雀さん」「なんだい」
「どうしてこんなことを」「知りたいかい」「ぜひとも」彼の機嫌を損ねぬよう努めてわたしはにこにこ笑う。彼もいつもの薄笑い。目の笑っていないそれだ。努めてわたしはにこにこ笑う。はっとした。彼は眉間にうつくしい皺を刻んで眉尻をさげる。その細められた目の数ミリも目と眉の距離も唇の開き加減から髪の一本一本の体相まですべてが計算されているようだ。
「君に逢えない夏季休業なんていらない」
 想定外にもほどがある。



 村民からの依頼は無事に達成されわたしはひとまず無事に帰還した。クラスも学年も男女も生徒も教師も問わずわたしに礼を言いに来た。ありがとうありがとうと村民たちが繰り返し、それをわたしは曖昧な笑顔で受け流す。彼の告白まがいの台詞はとうとうりーちゃんにもひょっとこにも言えなかった。あれは告白だったのだろうかと二人に言えば、そうに決まっていると返ってくるに違いなかったからだ。
 魔王はわたしの出した夏休み中の平日(土日祝日お盆を除く)九時に登校し、十二時まで応接室で勉強することを交換条件にと提案すると二つ返事で受け入れた。あながち最初からこうなるようにするつもりだったに違いない。はめられた。大きな、大きすぎる犠牲の上になりたった村民の自由である。この犠牲はあまりにも大きすぎた。わたし。それはわたしにとって唯一の絶対の一番の存在である。勇者は魔王から人民を救った。わたしは勇者。勇者という名の生贄。


企画参加(タイトル同題)「一角獣ハート(携帯向)」
(08/07/15)