急に腕が軽くなって視界が開けた。窓から差し込むやたらと眩しい乾いた光を反射して、その金髪が輝いている。
「…………」
 目が合っているのであろうことはわかるけれど、いかんせんこの前髪だ。思考も表情も読み取れない。一年にもなる付き合いで、いやもう出会って少しでいやというほどわかったことではあるけれど、このひとはほんとうにその場のテンションと勢いだけで動くのだ。頼るべきは直感のみ。彼は自身の直感を信じている。だから考えたところでこのひとの思考回路は理解できない。これもそう。あながち今日はオフだったのだけど目が覚めたのは昼過ぎで、それからではもう出かける気にもなれず出かけたい場所もなく出かける用もなく、暇を持て余して館内をぶらついていたところ視界すら遮られるほどの資料を抱えたわたしを見かけ、なにも考えず気紛れにそれを奪って持ってやってみた、といったところだろう。そうあたまの中では冷静に分析しつつも、どうやらわたしはわたしが思っている以上に驚嘆に満ちた表情を浮かべていたらしい。なんとも表現できない顔をした彼と驚嘆したままのわたしは咄嗟に新しい反応を作れず暫し無言で見つめあった。語弊がある。わたしは彼の前髪を見ていただけだ。その奥にほんとうに彼の目があったのかはわからない。
「……ありがとう」
 やっとのことでそれだけ言うと、石化の魔法も解けたらしく彼はそっぽを向いた。
「べつに。暇だっただけだし」
 そんなのわかってるよ。
「これ、ボスんとこでいーの」
 返事のかわりに頷くと、わたしを置いて目的地へとずんずん歩いていってしまった。よくわからないひとだ。愛想がないのか照れているだけなのか。わたしに照れる意味はわからないから恐らく前者なのだろう。しかしわたし以外のまわりのひとびとには人格や対応に問題こそあれ常に性質のわるい笑顔を保っているから、わたしにはそうして気を使う必要もないと考えているだけのことなのだろう。たぶん。
 なんとなく気落ちしてしまった。少なくともあのひとと会ってわたしのテンションはあがらない。向こうだってそれは同じはずだ。



 ボスの部屋の重い扉を開けると既にそこに彼の姿はなく、ボスの机上に新しい書類の山ができていることを除けば、部屋はわたしがここを出たときとなんら変わりなかった。書類の残りを机に乗せる。いつものことながら礼はもちろん、彼の気紛れへの反応もなしでボスはペンを滑らせている。やはりこれも一年にもなるのだけれど、身長が高く体格もいいボスが机に向かってがりがりとペンを動かしている様は似合わない。おもしろい。最初はそう思う余裕もないほどボスといい彼といい館内の人間すべてが怖かったのだけれど、いいかげん少しは慣れた。慣れとはおそろしいものだ。普通に考えたらありえないし、映画のようにおかしなことばかり。理解はいまだに追いつかない。本来ならば「なれた」だなんて、そんな一言で済ませてはいけないことなんだ。だけどそう思わなければやっていられない。完全に着の身着のままで、あの夜すべて失ってしまったわたしは諦めたふりをして生きていくほかはないのだ。
 ボスだって思っていたほどに冷たいひとではなかったけれど、かといって優しいということもまったくなかった。そんなボスでも、恋人であるミレさんには優しく接したりするのだろうか。そんなボスは面白いけれどあまり想像したくない。ミレさんはじぶんはしがない娼婦であっていつ捨てられるかもわからないと言っていたけれど、二人を見ているととてもそうは思えないのだ。きっとわたしの知らない二人の間には、夢みたいに甘い言葉を囁くボスも存在するのだろう。うん、ちょっと鳥肌たった。さてとしごとしごと。
 困ったことにわたしが使いこなせるのはドイツ語だけ。少し齧った程度に学校で習った英語、同州で使う人がちょこちょこいたためいくらか耳に馴染んだフランス語、イタリア語、は挨拶程度は読み書きできるわけだけれど、それらは精々小学生レベルと言ったところだ。おとながやりとりするような仕事の書類はわからない。なによりドイツ語だって、ドイツのものではないのでなまりがひどい。なんだか手から火をだすでっかい怖いおにいさんと金髪で王子な男の子とに詰め寄られて怖い思いを堪えながらも必死でそんなわけで無理なのですと彼らの出会ったばかりだったわたしは伝えたのだけれど、なんとかなるの一言でドイツ語の書類を押し付けられた。それから密かに行っている日々の自学の甲斐もあって、今のところはどれもある程度なんとかなっている。しかしわたしが現時点では回せる書類の種類も少なく、たいして役に立っていないのは明白である。イタリア語とフランス語と英語は伸びてきた。問題は他だ。日本語なんて、もうほんとうにどうにもならない。話すだけならともかく読み書きとなると平仮名片仮名漢字と三パターンの文字を覚えなければならないのだ。それも漢字の数がまた半端じゃない。だけどボスや幹部たちは母国語のようにすらすらと話している。普段の頭の弱そうな行動からは窺えないけれど、ヴァリアーのひとたちは皆驚くほど頭がいい。わたしも見習わなくては。ここで生存するためには彼に殺されず、またボスにも殺されないようなるべく役に立ちながら事務仕事をこなさなければならないのだ。道は険しい。
 いささか日も傾き始めたころ、ノックもなしに勢いよく扉が開いて見慣れた金髪が頭を覗かせた。あの扉、重いはずなんだけどな。珍しくボスが手を止めて顔を上げる。
「ボス、リリちょっと借りてい?」
「なんだ」
「買い物行こうと思ってさ」
「こんな時間からか」「思い立ったが吉日」例の笑顔でこたえる。ボスの言うとおり、もう四時をまわっていた。今から買い物に出かけるには少々遅い。しかしそんな一般論は彼には通用しない。だいたい買い物って、いったいなにのだ。先日珍しく連休をもらった際に荷物持ちとして適当な人間を連れて、大量に様々なものを買ってきていたじゃないか。それらの半分以上は買ってきた日そのままの状態で彼の部屋に置いてある。服も靴も家具もナイフもワイヤーも本もCDも、なにもかも有り余るくらいに買っていた。金持ちはよくわからない。それで、まださらになにを買おうと言うのか。金持ちってわからない。それになぜわたしを付き合わせるのだ。荷物も少ししか持てない。少なくともわたしならレヴィさんのほうがずっと荷物持ちには向いているはずだ。あのひともボス以外じゃ大人しく他人の荷物持ちに甘んじるような人ではないけれど。ボスはちらと視線を動かして(時計を見たのだとおもう)、またすぐに書類に戻した。
「二時間じゃこいつが捌ける量も高が知れてる。好きにしろ」「やりい」「え、でも」
「どうせ急ぎは回してねえ。明日そのまま今やってるものの続きをすればいい」
 尚も意見しようとするわたしの言葉を「三分で用意して玄関な」と彼の声が遮った。そのまま返事も聞かずに部屋を出て行く。ボスはもうすべてに興味をなくしたらしく仕事に戻っていた。机の上をある程度片付け、ついでにボスのグラスにボトルのワインを注いでおく。急がないと、時間を過ぎたら刻まれる。どうせ手持ちのものなんてなにもないのだ、早足で部屋に戻りコートを掴むとそのまま急いで玄関へ向かった。金持ちだからでも王子だからでもない、彼の考えていることがわからないのだ。




デスクワークと困
(08/03/31)