召使たちに恭しく頭を下げられて玄関を出ると上流階級、もしくは裏社会ものの映画にでてきそうな真っ黒で長い車が停まっていた。後部座席にどっかりと座った彼が、いつもの(しかしわたしにはあまり見せない)歯を見せる笑いかたをしている。機嫌は悪くないようだ。
「おせーし」「ごめんなさい」
 召使がわたしのために車のドアを開けようとしたのを制して、自分で開けてそれに乗る。わたしは人にドアを開けてもらうような身分じゃない。そろそろとドアを閉めると、車は滑るように発進した。やわらかいシートが身体を包む。そのまま眠ってしまいそうだ。
「げっ、おまえ隊服のままかよ。あっりえねー女として」「三分じゃ着替えられないですよ」「それもそうか」
「ところで、どこに行くんですか」「買い物っつったじゃん」
「なにを買うんですか」「服だよ。おまえの」「わたしの?」「そろそろなくなるころだろうし。っていうか、そういうのオレに言われないでも自分でしっかりして欲しいねいい加減。なくなりそうになったら言えばいつでもカード貸すから一人で買いに行けっつってんだろ」「……買いに行ってます、たまに」「ここんとこカード貸した覚えないんですけど」「自分のお金で買ってます」「んな金どこに持ってんだよ」「お給料です、仕事の」「えっ、おまえ給料でてたのかよ。王子ぜんぜん知らなかったんだけど。なんだよじゃあ別にオレが買ってやる必要ないんじゃんありえねーやる気なくした、超ありえねー。で、いくらもらってんの」「月給千ユーロ、です」「…………やっす」「うるさいです。ふつーです」
 こうして彼と軽口を叩けるようになっただけでも成長したのかもしれない。広い道から一本外れた細い通りで車は停まった。終わったら電話するから三秒で来ねえと殺すよ、そう運転手に笑いかけて彼が扉を閉める。いってらっしゃいませと機械的に吐いた若いドライバーの笑みは引き攣っていた。流石に本気で三秒とは言っていないだろうけれど、彼の忍耐が切れるほど遅くなれば本気で殺しかねない。そして彼の忍耐は、常人のそれよりもずっとずっと短いのだ。わたしが携帯を持っていたならば用事が終わりそうとなったとき彼が呼び出すより先にそろそろだと連絡ができたのに。わたしが申し訳ないと微笑み頭を下げると彼も慣れていますよといった風に微笑んだ。わたしがするより先に彼が扉を蹴り閉めると、車は再び走り出して闇に消えた。人の買い物とか超絶たりい、と洩らしてぼきりと首の骨を鳴らすとさっさと歩いて行ってしまうのであわててわたしも着いて行く。
 彼と買い物に来たのはこれが二度目だ。一度目は、一年と少し前。彼に出会ったばかりの、日常を奪われてすぐだ。彼に連れ去られたわたしは着の身着のままで、それすら彼のナイフの餌食とされてしまった。召使の一人の私服を借りて、脅えるわたしを無理やり連れ出してこれからここで生活していくのに必要な服や諸々を買ったのだ。まだ、たったの一年。なんとも順応してしまった。彼や周りの人々が恐ろしいことは、今でも変わっていないけれど。すぐに店の並ぶ明るい通りに出た。夜でも人通りが多い。どの人も、綺麗な服に身を包んで、優雅な足取りだ。住む世界が違う。
「いつもどこで買ってんの」「えーと……こういうところには来たことないです」「ししっ、そりゃー千ユーロじゃな」言って通り過ぎるショーウィンドウの服を顎で指した。遠目にもわたしには手の出ない桁だとわかる。
「安くていいんですよ」「別に高くねーし」「どうせすぐビリビリにしちゃうじゃないですか」「ちょっとそういう変態みたいな言い方やめてくんない」「……ごめんなさい」似たようなものだと言ってやりたいけれど、ここで彼の機嫌を損ねさせるのも得策でないだろうので大人しく謝罪する。謝罪もそれはそれで気に食わないらしく、息を洩らすようにうぜえと呟くのが斜め前から聞こえた。じゃあどうすればいいのか。彼を含めて近頃関わる人たちへの対応は正解がない。どの道行き着く先はバッドエンドである。バッドの中から比較的まともそうなものを慎重に選ぶ。予想が外れることは多々ある。
 彼が歩先を変えて入って行ったのに続く。入り口で店員を捕まえてわたしを指差し「こいつに合うの。十着くらい」。それで一気に慌しくなる。フィッティングルームに入れられてたくさん着替える。店員はわたしたちを恋人同士だと思ったらしく着替える度に彼に見せるがその度に「あーまあいんじゃない」と気のない返事だ。出された全てをお買い上げ。カードで一括。隊服は紙袋に入れて、最初の店で最後に試着した服をそのまま着ることにした。フレアスカートにブラウス。でもってコートとハイヒールの値段が恐怖。いくつかの店で同じことを繰り返すとあっという間にわたしの腕の中は荷物でいっぱいになった。
「ベルさん」「なに」「もう持てません」「持たねーよ」「知ってます」「さっきの運転手、連れてくりゃよかった」広場に出て、彼がベンチに座ったのでわたしのそれに習う。距離の取り方がわからない。たぶん、近くても遠くても彼は気分を悪くする。やはりそこに正しい答えはなくて、無難そうな選択をする。なにごとにも難癖つけなきゃ気の済まないところは、呆れるくらい子どもだ。わたしは彼に呆れている。呆れているから、もう怒るつもりはない。わたしのこの生活がいつまで続くのかはわからなくて、少なくとも彼が変わらない限り良くも悪くもなることは有り得ないのだった。
「ジェラート食べたい」「冬ですよ」「関係ねーよ、王子が食べたいときが食べどきだし」「そうですか」言うが早く店じまいを始めようとしている店員に声をかけてジェラートを買う。ひとつ。「オレが食べてる間に下着買ってこい」「え」「カード」わたしの手元にカードを押し付けて、自分はさっさと元のベンチに戻ってしまった。これは食べ終えるまでに戻らないと怒られるな、と察してぐると見渡して手近な下着屋に入る。やはり値段に驚愕したけれど怯んではいけない。今日だけでも耐性はちょっぴりついた、と、思う。とは言ってもその中ではまだ値段の張らないものを選んでいく。どれくらい買えばいいんだろう。よく見て、気に入ったものを選んだって、すぐに使えなくなるかもしれないと考えるとどうしようもなくせつない。傷が治るのがわたしだけじゃなくて、服もならよかったのに。わたしに買われる服はかわいそうだ、と、思う。手に取ったブラジャーを見下ろして、口の中だけでごめんねと呟いた。躊躇っている時間はない。
 レジに持っていって値段はあまり見ないようにして、カードを出す。彼がしていたように一括で、サインと言われて困りながらベルフェゴールと書いておく。いいのかなこれで。本名ではないはずだ。会計をしながら、結局彼に下着も見られるんだよなあ、と考えてうむむとうなる。品物を渡されて、ベンチに向かって急ぎ足。下着を見られると言ったって、ビリビリになったあとのだけど、と思ってまた下着が不憫だなあと思う。それから自分も不憫だと思う。色々大きなことはさておいて、ずっと気にしていたことだけど、彼にバラバラにされて戻ったわたしはなにも着ていない。裸だ。これがもう、困る。ものすごく困る。意識がないのが救いかもしれない。まだ処女なのに、と思うと本当にがっくりする。いやだ。それでなんか悔しいのは、ほとんど歳も変わらないだろう彼がまったく平気らしいことだ。悔しいというか、腑に落ちないというか、釈然としない、似たようなものか。もちろん欲情されても困るので、いいと言えばいいのだけれど。
 あまり本気でもないけれど、おとぎ話よろしく白馬の王子様然とした人が助けてくれはしないかと考えることもある。そりゃあ彼は強いし力もあるけれど、もっと強い人も、もっと力のある人も世の中にはたくさんいるはずだ。この生活が変わる可能性はいくらでも、ごろごろと転がっている。それがわかっているから、わたしはなんとかこの生活を続けられるのだ。じゃなきゃとっくに頭がおかしくなっている。そうしたわたしを助けてくれるかもしれない人のことを考えるとき、とりあえず真っ先に出てくるのはスクアーロさんだ。変な人だし乱暴だし距離を置かれているようだし、なによりあんな優雅さの欠片もない王子はちょっとどうかとも思うけれど、なんだかんだぶっきらぼうながら稀に親切にしてくれることもあるし、あの銀糸の髪がとても美しいので、なんとなく反射的に思い出される。それからやっぱりないなあと思って、次に出てくるのはキャバッローネのボスらしい人だ。あの人はすごく王子然としている。かっこいい。でもボスだと言うのに、いつも浮浪者のような格好をしているのでわたしは密かにあの人は影武者じゃなかろうかと疑っている。あんなに若いのにボスというのも怪しい。とにかく格好いいので王子にはうってつけだけれど、わたしは彼に存在を認知されていないし、あの人と結ばれて彼の元から逃れるという未来なんておとぎ話も笑ってしまうほど夢のまた夢のそのまた夢みたいな話であって、現実はなあと溜息を吐いて、わたしはベルさんの元に戻る。ジェラートは食べ終えていた。ベンチと足元には紙袋や箱が積み重なっている。立ち上がる様子がないのを見て、座面に乗っていた箱のひとつを持ち上げてわたしもベンチに座った。機嫌を損ねてはいないようだ。
「ルッスーリアがさ」「はい」「オレらのこと、恋人同士と勘違いしててすげえうぜえ」「今度わたしからも違うって言っときます」「オレが言っても全然聞かねーんだよ。『もうう、ベルちゃんたら照れちゃって!』とか言ってマジうっぜえええ」「ああー……言いそうですね……」ルッスーリアさんの話し方の真似うまいな、と思ったけれど言わないでおく。ルッスーリアさんとはわたしも一度だけ話したことがあって、彼女(彼?)がヴァリアーに戻ってきたばかりのときに、やっぱり「あらあ、あなたがベルちゃんの」と話しかけられた。そこでわたしは否定しておくべきだったのだろうけど、わりと田舎な街で生まれ育ってきたわたしに彼女の服装や髪型は新しすぎて、圧倒されて、うっかり否定し損ねた。オカマは他にも見たことはあったけれど、彼女は今まで見たどんなオカマよりも鮮やかだったのだ(そう偉そうに言えるほど何人もオカマを見てきたわけでもないのだけど)。驚きこそすれ、ちょっと素敵だなんて思っている間に、今度お茶しましょとウィンクを投げた彼女は足取りも華麗に去って行ってしまった。カルチャーショックと言うべきか。
 そのときのことを思い出しているとふと左の頬に視線を感じてそちらを見た。ぱっと顔を背けられる。追求すべきか躊躇われた。
 彼女もまたあの暗殺部隊の一員であり更に幹部であることは間違いないのだが、その恐ろしさの質は他の誰とも異なった。彼女が帰ってきてから彼は苛立っていることが増えた。でもそれはずいぶん子ども染みていて可愛いとさえ呼べそうなものなのだ。そうしたときの彼は正しく歳相応に見える。わたしは自分でもなぜだかわからないけれど、ヴァリアーがわたしの知らない本来あるべき状態に近づいたことをどこかで察し嬉しく感じているらしかった。
「おまえ」「はい」
 もう一度こちらを振り返るとさらりと前髪が揺れる。もう少しでその向こうにある目が見えそうな気がした。やはり暗殺部隊七不思議のひとつであるベルさんの目というのは気になるので思わず凝視する。続きを言う気配はない。ふと彼の視線が違う方を向いたので思わずわたしもそちらを見ると、黒塗りの車がこちらに向かっていた。戻れば温かいご飯が待っているだろう。幹部と平のメニューは違うけれどボンゴレ直属の一流シェフが作るイタリア料理は格別美味しい。
「帰るか」
 なんとなく同意を求められているような気がして頷いた。風がつめたい。




ショッピングと追
(09/05/22)