コントローラーを持てば手に残った感触もすぐに忘れられるような気がする
徹夜でレポート、終わったのは午前六時。雀の声が聞こえたのはもう何時間前のことか。太陽は昇りきってじりじりしている。電気代も惜しいので窓を開けて、パソコンの時計を見る。一限はむりだ。捨てよう。ゆるせ片倉さん。四時間寝られる。ベッドに寝たら起きられないので、昨年度末に奮発して買った中古のソファに倒れこむ。もう、このまま永遠の眠りにつきたい。いや、それじゃレポートが。目を閉じるとパソコンのファンの音が耳の奥で鳴っていた。頭の中がどろどろする。
「わっ」
ぐらりと意識が浮上して、ぱちんと目を開けるとなによりまず跳ね起きた。壁の時計を見やると二時をまわって、って、ええそんな。慌てたところで壁の時計は先日電池が切れてから止まったままだと思い出す。携帯を開くと十時を幾らか過ぎたところ。こ、れは、ぎりぎり。間に合わないことはない。全力で走れば。「ああっもう!」財布と携帯をジーンズの右と左ポッケに突っ込んで、窓を閉めて、鍵を持つ。ちょっと落ち着いて、靴を履きながら玄関の鍵を閉める。戸締りをして、右脇にレポート、財布と携帯、持ち物は大丈夫。大学の構内には走れば十分、研究室まで十八分、携帯を開いて時間の計算をしながらアパートの階段を降りる。よし、間に合う。空腹には気がつかないふりで駆け出した。日差しが暑い。
「ご、ゴール……!」
乱暴に研究室のドアを開けると、奥の机に座る男はちらりとわたしを目視してから視線を落とした。室内に入るとひやりとした空気が纏わりついてくる。「ふむ、二分前か」顎を撫でながらいかにも惜しいと言った声音で教授が呟く。性根が悪い。「セーフですね」してやったりとこちらも思わず笑みが零れる。なにしろこれを落とせば単位はない。おおよそ留年は確実である。「いいや」顎を撫でる手をぴたりと止めて、下げていた視線を再びこちらへ向けると白髪交じりの男はにたりと笑みを浮かべた。
「ここに入れたらゴールだ」
指差すは机上の百均トレイ。教授の机まで三メートル。その道程、両脇は物が山積みされた机と精密機器、足元には配線多数。思わずぽかん。
「一分。いや、五十秒」「教授ほど意地の悪い大人は見たことがないです!」「なんとでも言いたまえ。私は一秒たりとも負けはせんよ」嘲笑混じりに言われて尚更暑さにやられた頭がかあとする。ちくしょう。真ん中に向かい合わせで机が並べられているので教授までの道は右と左に分かれているが、右奥の机には元親が座っているので必然的に左を選ぶしかない。左の一番手前である慶次の机の上は地獄だ。プリントと漫画類の山が今にも崩れそう。その頂点で笑っているゲームセンターで取ったらしい水着の美少女のフィギュアが今はにくい。それらを崩さぬよう、床の配線に引っかからぬよう、そろそろと進む。「三十秒」「ゆとり、貸せ」ハンダ鏝(ごて)を置いて立ち上がった元親に手を差し出され、半ば条件反射的にレポートをその手に乗せる。そのまま元親が机上のトレイにスルーイン。ナイスアシスト。シュートから見ればアシストはわたしなんだけど。
「連携プレーはなしだなんて法はねえよな」にやと笑って元親は席に着く。やっぱり教授は不満顔だ。「なしだな。だが、今回は受け取るとしよう」学生をいびることに生きがいを見出している教授はたまにいる。松永教授もそうしたことを楽しむいやな大人の一人だけれど、趣味であれそんなつまらないことを生き甲斐にするほどつまらない大人でもないので存外あっさりと退いてくれる。かと言って退いてくれるだろうと高を括っていると退いてくれないこともあるので注意が必要だ。
「ありがと元親」「いいってことよ。それよりアンタもこんなぎりぎりに出すのはどうかと思うぜ」「同感だ」「以後気をつけマス」「よろしい。私とて、さして役にも立たん学生を何年も手元に置きたくはないのだよ」「すげえいやみ。わたし使えないって」「否定できるのかね」「そういう人だろ。おら汗拭け」「あい」投げられたタオルで額を拭う。研究室は冷房ががんがん効いているのでそろそろ身体が冷えてきた。「ねえこのタオル、ハンダついたりしてないよね」「ついてねえよ。まだ」「ふーん。タオル、今返すべき?」「流しで洗ってな」「はいはい」「ついでに珈琲を淹れてくれ」「自分で淹れてください」「ならばレポートの受理はなしだな」「喜んで淹れます」
すっかり身体が冷えて、外に出る頃にはくしゃみが出た。外はやっぱりじりじりと太陽が照っている。にくい。太陽がにくい。冷房病になりそうだ。恐らくもうなってる。実のところ冷房病がなんたるかを未だによくわかっていない。
次の講義は昼過ぎなので、一旦帰って昼食にするとする。ついでにゲームかパソコンをするとしよう。とにかくお金がないので、テレビゲームとインターネットは低費用でできる娯楽だ。これも全て家を出るときにプレイステーション2を姉から勝ち取れたおかげである。ゲームはとにかく低価格で購入して、遊べるだけ遊び倒す。レベル1で大武闘会百連勝とか、99999Hitを出してみるとか。
すっかり行きの疾走で疲れてしまったので、帰りはたらたらと歩く。研究室を出る前に、元親に年頃の娘がすっぴんで出歩くなんて有り得ないとなじられどうせ塗ってないのだろうと強引に日焼け止めを塗らされたのだけど、もう十数分で家につくのであまり意味がない。あるのだろうけど、たいしてない。でも元親のそういうところは嫌いじゃないのでよしとする。わたしだって日焼けをまったく気にしていないわけではない。構内は大学生が多いけれど、講義中なのでまばらだ。三年経っても広すぎるので自分の使わない建物はまったくわからない。そうした建物の一つである壁が鏡張りになった建物の前でダンスサークルの人たちが踊っていた。その中にまだレポートを出していないらしい慶次を見かけたけれど、話しかけづらいので見なかったことにする。ここでわたしがレポートだせって教授が言ってたよと伝えようが伝えまいが、慶次の留年はほぼ確定だ。慶次は自業自得だけど可哀相に。慶次の両親が。そんなことを考えているとたたと目の前を猫が横切った。なにが植わっているのかもよくわからない畑らしいところに立ち止まってこちらを振り返ると、みゃあと鳴いた。なかなかがたいのいいトラで、構内に住み着いている一匹だ。以前名前も聞いたような気がするけれど忘れてしまった。こっちも小声で鳴き返して差し出した指をちちと揺らすが、興味がないらしくそのまま去っていってしまった。根は人懐こいやつなのだけれど、わたしは別段好かれてもいないらしい。去った先を見やってから視線を戻すと先のベンチのひとつに人が座っているのが見えた。珍しくもなにともない。しかしこの真夏に長袖長ズボンというのはなかなか異様だった。目深に帽子を被り鍔(つば)が影を落としていることもあって顔は隠れている。そんな出で立ちが少々目についていたので、来たときとまったくその様子が変わっていなかったことが気にかかった。日射病になりやしないか。むしろもうなっているのではないか。そう思うと心配になってきて、でもそんなことで話しかけて怒られでもしたらどうしよう。馬鹿にされるかもしれない。と、言うよりなにより、ベンチに腰掛けた体躯がいくらか脱力しているというのか、リラックスしているだけかもしれないけれど、ぐったりしているように見えなくも、だめだ気になる。話しかけるかかけないか。しかしこれでわたしが話しかけず、誰も気がつかないままもし彼が熱射病で死んでしまったらどうするのか。絶対に後悔する。ちょっと話しかけて、気をつけてくださいねと言おう。訝しまれたら、なにかを見せてこれ落としませんでしたかと尋ねればいい。ちょっと苦しいけど。帰り際に元親に前髪を止められたファンシーなピンを使おうと決めてピンを外してポケットに仕込む。でも男がこれを落としたかと訊かれるのは嫌かもしれない。元親ならともかく。まあいいか。ええいままよ。たすたすと地面を踏み鳴らすのと同じくらいの大きさで心臓がばくばくと揺れた。数メートルと近づき斜め前にわたしが立っても、男の人は顔を上げなかった。
「あの」「……」「すいません」
とんと軽く肩を叩く。と、ぐらりと華奢な肩が傾いた。肩だけに。そんなつまらないことを言っている場合ではない。ないのだ。慌てて倒れかけた肩を掴む。慌てたのでいささか乱暴にがしり。それから内心もっと慌てて手の力を緩める。がくりと頭が垂れて帽子が落ちた。ししし死んでる!? 更に慌てたけれど掴んだ肩が軽く上下したのでちゃんと生きてる。落ち着けわたし。
「え、あの、えと、大丈夫ですか? しっかりしてください」「う……」その人の左手が緩慢に上がって眉間のあたりをおさえた。意識はある、みたいだ。どうしよう。
「どうしたの、病人?」
はたと振ってきた声に顔を上げると、お兄さんが立っていた。ほとんど橙と言っていいほど明るい茶に染め上げた髪をヘアバンドで上げている。Tシャツに迷彩のカーゴパンツ。見知らぬお兄さんを見上げるわたしは今にも泣きそうな顔をしていたと思う。お兄さんはすっとしゃがんで俯くその人を覗き込むと軽い熱中症だねと呟いた。「大丈夫か?」橙のお兄さんの数歩後ろにいた赤いタンクトップのお兄さんも近づいてくる。「旦那、どっか日陰に運んでやって。あ、あっちのほう」「ああ」言われると、赤いお兄さんはぐったりした男の人に近づいてきて勢いよく抱えあげた。「病人なんだから静かにね」「わかっている」「ああの、わたし飲み物買ってきます」「うん。お願い」丁度すぐ近くに食堂や売店のある棟があったので、そこでポカリスエットを買う。戻るとぐったりした人は渡り廊下の横の壁に背中を凭れて座らせられていた。橙のお兄さんはわたしが買いに行っている間に絞ったらしいタオルでぐったりさんの汗を拭い、赤いお兄さんはぱたぱたと団扇で風を送っていた。先刻落ちた帽子はぐったりさんの膝の上に置かれている。わたしも横にしゃがんで食堂から拝借したコップにポカリスエットを注いで差し出した。「飲めますか?」ぐったりさんの眉間には具合が悪いのか愛想がないのか機嫌が悪いのか、深い皺が刻まれている。コップを持とうとした手にあまり力が入っていなかったので、手を離すに離せない。指先はあまり熱くなかったのと喉が上下に動くのを見て少なからず安心した。それは橙のお兄さんも同じのようで、はあと小さく息を吐く。
「救急車とか、呼んだほうがいいんでしょうか」「いらないいらない。意識もあるし、ちょっと休んで水分取れば大丈夫だって」ひらひらと手を振ってこともなげに言うけれど、そういうものなのかよくわからないので心配だ。橙のお兄さんがぐったりさんの頬をぺちぺちと打つとじろりと彼は手の元を睨む。やっぱり機嫌のいいようには見えない。「おにーさん、外にいるならちゃんと水分摂らなきゃ駄目だよ。死ぬこともあるんだから」俯いた顔が小さく動いたのを確認すると、橙のお兄さんも納得したように頷いて立ち上がった。「じゃ、俺はもう行くよ。腹へりがいるしね」扇ぐ速度の落ちている赤いお兄さんを指して肩を竦めると、橙のお兄さんは立ち上がった。「ほら旦那、行くよ」立ち上がろうと中腰になった赤いお兄さんが手の中の団扇を見て、ぐったりさんとわたしを交互に見た。「どうぞ」ぐったりさんは俯いたままだったからかわたしに向けて差し出されたそれを思わず受け取ると、二人は食堂のほうへと歩いていってしまった。団扇はゲームセンターのらしかった。
「……」「……もっと飲みます?」ぼうっとしているのか機嫌が悪いのか細められた目がこちらに向いていたのでコップを上げる。「いっぱい飲んだほうがいいですよ」コップを受け取る手が先ほどよりしっかりしていたので今度はわたしも手を離した。とりあえず貰った団扇で風を送ってみる。ぐったりがいくらか治ったぐったりさんはコップを持ったままそれを見下ろしている。橙のお兄さんの言った通り、そんなに大事ではなさそうだ。退散すべきかもしれない。
「わたしもそろそろ行きます。あの、コップ」「食堂のだろう」「あ、はい。戻しておくようお願いします」やっと口を開いたぐったりさんの声は低く掠れていた。やはりまだ少しぐったりしているらしい。「あとこれ、飲んでください」半分ほどになったポカリスエットを差し出す。手元に残っても困る。なにしろわたしはどちらかと言えばアクエリアス派なのだ。手はコップで埋まっていたのでぐったりさんの隣りに置いた。
「……団扇いります?」「いらん」「じゃあ、これは貰っていきます」「好きにしろ」
愛想のない人だ。都会人なのかもしれない。というのは偏見か。でも大学で地方を出てから、そういう人が多いように感じる。失礼な人だといささか思いながらも、価値観の違いだろうから仕方ない、大事にならずよかった、と思うことにする。団扇も手に入った。扇いでもぬるい風しか来ないけれど。講義の終わりの鐘が鳴った。昼休みらしい。
「それじゃあ、お大事に」
「世話をかけた」
立ち上がりかけたところでぽつりと聞こえて、ああいえそんなと返しながらもしかしたらこの人はあの赤いお兄さんに担がれたのが恥ずかしかったのかもしれないとぼんやり思った。「気をつけてくださいね」ああ、と小さく聞こえたので踵を返して正門のほうへ歩きだす。日向に出れば太陽はやはりじりじりとしていた。もう午後の講義も出たくない。ぱたぱたと団扇を動かしてなまぬるい風を感じながらしばらく歩いて、一度だけ振り返るともうその人はそこにいなかった。そうだ。帰ったら昼食にして、モンハンをしよう。
(09/11/20)