雲が切れ、太陽が姿を見せると暖かな陽光が大地に、海に、元就にわけ隔てなく優しく注いだ。丸いそれを見上げて元就は目を細める。あまりの眩しさに薄い雲がかかっていないと本当に丸いのかもよくわからない。足を止め見つめていたがすぐに太陽は再び雲の裏へと隠れてしまう。視線を前方へ戻すと、先ほど視界に太陽のあった箇所にぼんやりと薄暗い影が浮かんでいる。目を閉じて頭を振って、何度か瞬きをするとそれは消えた。ざばりと波が足元を撫でる。海はあまり好きではない。昔船から落ちて溺れたことがあるからだ。どうやって克服したのかは思い出せないが金づちではない。しかしやはり、きらいだ。
ここへは傍にいた部下を全て振り払って出てきた。ただの散歩だ。すぐに戻るつもりであったし、万が一の護身用に小刀は持っている。ここがどこであるのか、頭の中の地図で辿りながら海岸沿いに砂浜を歩いていた。ここは毛利の領土で自身のものなのだと思うと、どうとも表現し難い感情が元就の中を浮遊した。喜怒哀楽、どれともつかない。広大な領土は元就のものだ。そこに住む人も、そこにある物も、畜生から米の一粒虫一匹まですべてが元就のものだ。その事実は嬉しくも恐ろしくもない。ただこれだけ領土を持っていれば余程下手を打たない限り、元就の次の代やその次の代になっても毛利は安泰だろうと思える点に関してだけは、元就をひどく安心させた。毛利の末永き繁栄だけを願って走り続けてきたのは、もしかしたらいつだって少しでも安心したかったからなのかもしれなかった。
押し寄せては引いてゆくのを飽きもせず延々と繰り返す波がずっと続いている先に、なにかが落ちていた。あまりに遠くて元就の目ではそれがなにだか判別できない。そのまま同じゆったりとした速度で歩き続けて(その間三度太陽が姿を見せたのでその度に元就は立ち止まり太陽との短き邂逅を楽しんだ)、やっとあれは人間かもしれないと思い至った。それでもまだごみや海草の類かもしれないという念も拭いきれていなかったのだが。様々な可能性を考慮するのは戦や政において非常に大切なことである。そもそもそれが死体だろうが海草だろうが元就にはなんら関係のないことだ。
それももっと近づけば、やはりあれは人間だと結論づけることができた。水を吸い海草のように乱れた長い髪を身体に纏い、投げ出された生白い手足は細く、やはり水を存分に吸っている着物は薄汚れ帯は乱れている。うつ伏せた女だ。死体は見慣れているので別段取り乱しも恐れも悲しみもしなかった。元就は死んだ人間に対して感情を持ったことがない。その両親や兄においてはまた別のところだが、だとしても他に見るように必要以上に取り乱したり悲しみに打ちひしがれるようなことはなかった。死体となっても再び生まれ育った大地へ触れることが出来たのは幸か、或いは不幸か、そんなことを考えながら元就はやはり変わらぬ速度で波打ち際を歩いた。死体は元就の歩く先に落ちていたが、やはり見慣れたものであるのでわざわざ避けるような真似もしなかった。それが間違いだった。あるいは少し歩調を速め、さっさと通り過ぎてしまうべきだった。
元就の興味は死体になく、一度確認した後は視界にも入れずしかし意図して入れぬでもなく、空や海、木々などを眺めた。城からは馬で来たが砂浜はいささか不便なので置いてきてしまった。盗まれたかもしれないがそのときは歩いて帰ろうというくらいに考えていた。帰れない距離ではない。しかし来た方向を見ると城は愚か月山さえ見えないので、やはり盗まれていなければいいと少しばかり祈った。そこで元就は足元の影に気がついた。女の死体だ。一歩ひいて見ると、女は細い腕で身体を支えて身体を起こしていた。それに表情には出さないが少し驚いて、もう二歩ほど退いた。生きていたようだ。女はゆっくりと元就のほうを見た。
視線が噛みあって、元就は露骨にいやな顔をする。どちらかと言えば綺麗好きな性質であるので単純に女の成りが不快だった。しかしそうしたことで視線を逸らす機会を逃してしまった。女は乱れた髪から垣間見える目でじつと元就を見上げている。その視線は真摯というより起き抜けで呆けていると言うに近い。ぎょろりとし、海底に沈んだような目だった。女はなにも言わない。元就もなにも言うことはなかった。生きているならばどこへなりともその足で歩いて行ってしまえばいいだけのことで、その先のたれ死んだところで元就にはなんの関係もなく、そんなことで心の痛むようなこともない。しかしふと女が流れてきたらしい人間であることを思い出し口を開いた。実際は沈黙と見上げてくる目が煩わしかっただけなのだが。
「どこの者か」女は黙っている。「どこから流れてきた」あ、とその形に口を開いて、女の口はまた閉じる。「なにか言わんか」はくはくと口を動かして息を繰り返すが声にはならないはない。「言えと申すに」苛だちがにわかに語気が荒くなる。そこでようやく気が付いた。元来察しの良い部類に入る人間だ。
「唖(おし)か。不吉な」
元就は自国の平穏を脅かし得るものを許さない。たとえそれが迷信であっても。懐から小刀を取り出しすらと抜く(ここで丁度顔を出した太陽によって、その刀身は過去に浴びた血を思うようにぬらりと光った)と躊躇なく女を切りつけた。女の喉奥からひゅうと引きつった音がもれる。肩から腰にかけて走った傷から鮮血が流れ黒い髪と混じりあう。がくがくと震え荒い息を吐きながら這いつくばった女は逃げる。どこへ逃げようというのか。その姿の無様さが元就の嗜虐心を煽り知らず口端を吊り上げさせた。わざとじらすようにじりじりと詰め寄り女の恐怖心を煽ってやる。飽きてきたところでとどめと手を振り上げ、ざくりと首を切り裂く。ごぼごぼと溢れる血液は砂に染み込まれ波の寄せる毎に海に流される。びくびくと痙攣していた身体を見下ろしてこれで死んだろうと満足した元就はまた砂浜を歩きだす。
数歩進んだところで太陽を見つめていると、背後でとぷんと重い水の音がした。徐に振り返ると死体が消えている。砂浜には女の伏した跡と流れた血だけが残っていた。
その年の暮れ、長曾我部との海戦で元就は海に消えた。安芸の浜に流れ着いた元就の身体には黒い海草がびっしりと巻きついていたと言う。
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(11/07/27)