「あ、お帰りなさい」「お帰りって……」「なんですか?」「イヤ、いいけどさあ。それにしても、アンタ本当に木の上好きだね」
目と鼻の先まで上田に近づいた頃、緑の影からちらちらと手が振られるのが見えた。下に立つと遥か頭上の枝に女がしゃがんでいる。「長も結構好きじゃないですか」「否定はしないけど」隠れる必要もないのになぜか木の上にいることは多い。たいして理由はないのでただの習性のような気もする。勢いをつけて一度で女と同じ高さの枝へ飛んだ。
「甲斐はいかがでしたか」「ああ……うん、熱かった」「熱い? 冬ですが」言って女は眉を顰める。どちらかと言えばもう春だ。「見た人間にしかわかんないって、あれは」
吹き荒ぶ風が冷たく肌を刺すのに佐助は妙な安心感を覚えていた。あれは灼熱だ。これからあんなところに住むことになるのだと思うと気が重い。もうすぐ元服するとは言え、弁丸はまだ若い。影響を受けやすい多感な時期をあんな場所で数年も過ごせば恐ろしい熱血野郎が出来上がることは目に見えている。確かに漢は磨かれそうだが。
「アンタはこんなところでなにしてんの」「出るところです。各地の偵察に」
「そういや織田が本願寺と決着ついたんだって?」「そのようで」「本願寺は壊滅、他も織田に対抗していたところは弱体化ってとこか。当の織田も長期戦で消耗してるだろうし、あんま動いてくれないといいんだけど」「無理でしょうね、今動かずにいつ動くってくらいの好機ですもん。足踏みをするような人格でもなしに」「そうなんだよねえ」「真田はあまり大きくありませんし、動乱に直接巻き込まれたら潰れる可能性も高い。弁丸様を武田に預けようというのは昌幸様の親心でしょうか」「さあね。あの方の考えることはわかんないよ」「うーん。ま、考えてもしょうがないか」「そうそう。結局のところ、忍びは主人に従うしかないってね」「ですね。それじゃ、わたしは行きます」「ああ、うん。気をつけて」「はい」立ち上がり、ひらりと遠くの木へ飛び移った女に小さく手を上げた。女の動きは心なし、佐助のものよりもふわふわしている。里が違うからだろうか。それを見るのが佐助は少し好きだった。
「そうだ」
くるりと振り返り、佐助に向き直ると女は笑みを浮かべた。飛び切り得体の知れなくて胡散臭いやつ。無意識に加えて意識的に、佐助は苦い顔をする。
「少しだけ嘘を吐いていました」
まったく泥臭い忍びに厨は似合わない。なのにいつの間にか板についてしまって妙に悲しい。できた団子を皿に乗せて、佐助は主の部屋へ向かった。そろそろ糖分が切れて暴れだす頃合だ。襖の前で正座をして声をかけるが返事はない。仕方がないので断りを入れながら襖を開けると、やはり文机の上は一刻ほど前に見た状態とほとんど変わっていなかった。
「少し休んだらどうです」「ん、団子か」「どうぞ」差し出された皿を受け取ると弁丸は立ち上がり縁側へ出た。その足元の袴の裾が足首の上で揺れているのを見て留める。
「袴の裾、また下ろさないといけませんね」「んん、そうか?」首をかしげて座っていた足を伸ばすとやはり、踝より五寸も足が出ている。「つんつるてんですよ」「そうか」「いっそ元服を機に新しいのを何着か仕立てます?」「なんでもいい」気怠げな返事に反抗期だろうかと佐助はいくらか不安になる。なんであれそうしたときに実害を被るのは大概にして佐助なのだ。団子を食べている主を斜め後ろから見ながら、佐助は今感じた不安がここ暫くずっと続いていたことに気が付いた。すると主人のだるそうな顔にもなにか理由があるように思えてきて気にもかかる。
「旦那、不安ですか」思いがけず深刻そうな低い声音になってしまって、声に出してから内心少し慌てた。「なにがだ」主の調子は変わらず気にされてもいないようで安心する。「えー……と、そーですね」「元服か。それならむしろやっとだ。やっと一人前になれる」「そうじゃなく」「武田に行くことか」「まあ、それもあります」「正直嫌だし気が重い」「まあ、知らないところに行くとなりゃ普通そうですよ」「そうだな」「昌幸様の意向ですから、勉強だと思って我慢してください」
縁側で足をぶらつかせながら弁丸はぱくぱくと団子を消費していく。近頃は鍛錬にもあまり身が入っていないようだ。その原因は弁丸本人もよくわかっていなかったし、佐助にもこれかもしれないという節があり過ぎてわからなかった。元服の日は近い。夏の近い、纏わりつくような暑さを孕む湿った風が吹き込んだ。主人の手と口だけが黙々と動くのを見ながら佐助は言いづらいことを言おうとするとき特有の口の重さを感じていた。口がだるく、気管や胸のあたりをいやな空気が漂うのだ。
「旦那」「なんだ」「ちょっとの間、俺は出ます。用は隊の誰かに言いつけてください」「偵察か」「……いえ」「必要な働きに支障が出ないなら好きにしろ。おまえはいつもよく働いている」「有難う御座います」慇懃に頭を下げるが主は縁側でぼうと庭の松を見つめている。ああ言ってはいるが、生まれ育った地を離れることにせつなさを感じているのかもしれないとも佐助には思えた。自身が里を出たときのことを思い返してみる。しかしぼんやりとしか思い出せない。清々してもいたのは確かだ。会いたい人が、いないわけではない。気が向けば帰ろうとは思う。なににせよ、己と主人のそれを重ねるのは不可能だし馬鹿げていると結論付けて、里について考えるのはやめた。
空になった皿を受け取り部屋を辞した。今一度才蔵に出ている間のことを頼み、屋敷を出る。さて、と改まったはいいが当てはない。ぬるんだ空気の中で、雨が来ることを予感する。よくない。何故こんなことをしているのかは、あまり考えたくなかった。
雨でも進めるが少々休むこととした。尾張は行った。奥州も行った。近江も加賀も京も行った。もっと南かもしれない。南はもっと暑いだろうな。葉の下で休み頭の中だけがぐるぐると堂々巡りを続ける中、雨とも汗ともつかぬ液体が佐助の額や頬を滑り落ちた。
雨はだらだらと血を薄めて流し土に吸い込まれてゆく。女の手足は折れ、胴からは腸が飛び出し頭は抉れ陥没し、見るも無残な有様だった。それを見れば悲しくもなるかと思っていたが、期待(と言うといささか不謹慎だ)ははずれて、いっそ素晴らしいくらいになにも感じはしなかった。近寄ると、まだあまり腐臭はない。蝿は集っているが、まだ蛆が湧いていなかったのは思いがけぬ幸運だ。そう考えて、なにが幸運なものかと喉を鳴らした。懐からすっかりしめってしまった風呂敷を取り出し広げ、どうしたものかと考える。頭はよく回るようで、実のところまったく回っていなかった。回っていたならばそもそもこんなところに居るはずがないのだ。この死体はただ土の上で腐り果て、虫や獣に食らい尽くされ養分となるはずだったのだ。
風呂敷を地面に置いて、ぐらぐらふにゃふにゃとしている胴を乗せた。手足も膝と肘を折ってなるべくその上に乗せる。片目は行方がわからないが、もう片目は薄く開いて暗く濁っていた。頭がやられているので眼球にも血が伝っている。どこ見てんの。雨音にも負けるほどの小さな声で口に出してみてから佐助は少し恥ずかしくなった。風呂敷を包みながら、無理だと判断して千切れかけていた左腕と左足はあきらめた。木の根の上に置いておく。もう一枚風呂敷を重ねて縛れば手で抱えられるほどの大きさとなった。残念ながら包みきれなかった土に汚れた蒼白い細く締まった(今はやわらかい)右足が膝から下だけはみ出てしまっているのだが。これが途中で折れているらしく、佐助が動くのに合わせてぶらぶらとぐらつく。上田に帰るまでに、腐らなければいいのだが。この足が、折れているところから千切れなければいいのだが。そう考えながら、死体を包んだ風呂敷を抱えて走った。少し力を入れると指先はぬるりと布に食い込んだ。血はあっという間に風呂敷全体に滲み、雨水とも混じってぽたぽたと落ちた。これを見せよう、これを旦那に見せなければとそれだけを考えていた。見せてなにになるのか、そこまでは回らない。ただとにかく見せなければならないと義務にも近い思いが佐助の中を渦巻いた。これを見たらあの人はどんな顔をするだろう。恐れるか、悲しむか、それともどちらでもないか。とても予想のつかないことだ。上田へ向かって走る足元が奇妙にふわふわとする。女の動きのように。地を蹴る感触が薄い。いつもはもっと、足首や踵にばねを感じるくらいに強く蹴りだしているのに。いつの間にか雨は上がり空はうっすらと晴れていた。なのに佐助は身体中ぬるぬると湿っている。上田が近い。血は風呂敷から落ちるよりも佐助の服によく染み込まれていた。風呂敷を持つ手も抱えた胸も、それが伝って腹や足元まで雨水と泥と血だらけだった。上田城まで。弁丸の元まで。はやくはやくと急かす自身の鼓動と珍しく上がった息の音を聞きながら、ひたすらに佐助は走り続けた。城が見えた。夕暮れて空が赤くなる少し前。城の向こうに虹がかかっていた。腕の中の女はこれを綺麗に思うだろうかと考える。そこで目が覚めた。しとしとと雨で葉が揺れている。
弁丸様のおはようからおやすみまでを見守るの会・中
(09/08/29)