甚だ馬鹿げていると言っていい。死後数日経った死体があんなにも血を流すはずがない。目が覚めたとは物理的によりもそうした気持ちのほうが大きかった。あまり急がずに上田へと戻った。時折歩き、あの抱えた風呂敷に食い込む指の感触を思い出した。それでじわりと血が染み出すのが雨の中でもわかった。そこまでは辿り着かなかったはずだが、佐助の帰りを知っていたのか待っていたのか、城門で迎えた弁丸(これもなぜか八歳ほどの容貌なのだ)は無表情だった。頭三つも低い主の感情のない目が腕の中の人の残骸を眼差す。小さな手はそれのやわらかく血と雨と土で汚れ傷ついた頬を撫でた。そこには恐れも悲しみもない。佐助はその主の俯いたつむじをただ黙って見ている。そうした情景を佐助は思い出した。思い出したと言っても勿論見たはずはないので、単なる妄想かあるいは白昼夢である。しかしきっと夢の続きはそうであろうと、自然なにの疑問もなくそう思えた。いつしか雨は止み、少しすると服や髪も乾いて砂の感触ばかり佐助に残った。汗ばんでもいたので道中の川で身体を洗い、服は仕方がないのでなるべく砂を払って雨の匂いのするまま着た。洗ってもよかったが、乾くまでには上田に着く。最後数里は無心で走った。帰れば当然主は元服を控えた今にも佐助に背も追いつきそうな反抗期の可愛くない盛りのままで、誰かが降ろしたらしい袴の裾は足首を半分も見せていなかった。庭にいた弁丸は佐助を見て帰ったか、と言った。らしくもなく少しばかり感覚の鈍っていた佐助にはあまりよく聞こえていなかったが口の動きでそれはわかった。
鍛錬に励んでいたらしい。木刀を持った手で汗を拭っている。鍛錬をしているのは久しぶりに見たように佐助には感ぜられた。しばらく出ていたせいもあるが、それを抜いてもこのところの弁丸は疲れているように見えた。その理由はやはりわからない。弁丸がそうである以上に今の佐助は疲れていた。それが数日の間に日本中を駆けずり回ったせいか、もっと違うなにかのせいなのかはわからない。駈けずり回りながらも簡単な偵察は済ませてくるので佐助はいっそ悲しくなるくらい骨の髄まで真田の忍びだ。疲れと言うよりは虚脱感で、肉体よりも精神的なものだ。
「用は済んだのか」「……あー……まあ、はい」「そうか」
汗まみれの主を見て湯は浴びるのかと問おうとして、自身もそうすべきであることを思い出した。そもそもわざわざ佐助が言い出さずともこれだけ汗だくなのだ、言われずとも湯くらい浴びよう。そう考えてなにも言わずにいるとそのままでいたりするものだから困る。不用意に口を出して臍を曲げられるのはもっと困る。このところの弁丸はとかく扱いにくい。専ら佐助の悩みの種だ。悩みと言え頭をそればかりで占めている暇もない。扱いにくいだけでなくなにを考えているのかもわからないというのはいささか佐助を不安にさせた。人の心の内をわからないのは当然の話と言えばそうだが、佐助の中で弁丸はわかりやすい人間と暗黙の内に定義されていたからだ。いつしかその定義が緩み始めていることに佐助自身まだ気がついていない。
それからはいくらか慌しい日が続いたが、その最中に若いながらよく腕の立つ男が新しく雇われた。誰が言ったわけでもないが真田忍隊は十人と決まっている。その男を弁丸の前へ連れて佐助は新しい忍びだと紹介した。まるで初めて殺しを覚えたときのように口の中が渇いていた。この男が現れた意味を、弁丸は解すのか。主は男を見てそうか、とそれだけ言った。もしかするとそれからよろしくとかこれから頼むだとか、そういった言葉も告げたのかもしれない。ただ佐助の頭の中には弁丸の感情のない「そうか」だけが大きく響いた。既視感のある無表情だった。間もなく弁丸は幸村と名を改め甲斐へと発ち、少しして初陣を済ませた。
武士として人を殺めることだろう、修羅の道を歩むだろう。そう知っていながら女は弁丸がそうすることなど永遠になければいいのにと言った。そんなことは言うものでないと知っていながら。主は名を改め終に「弁丸」が人を殺すことはなかったがそんなものは詭弁に過ぎない。佐助は主に人を殺めることや修羅の道を教えるのも己だろうと暗黙の内に思っていた。己であってほしい、そうあるべきだといつしか当然のことのように思ってしまっていた。その驕りに気がつかない。まだ辛うじて弁丸だった主に新しい忍びを紹介したときの意識が自身から剥離していくような感覚が、いつまで経っても気持ちが悪くて佐助は忘れられなかった。
若いほど人は感化されやすいと言うがそれは飽くまで一般論で、結局のところ一番は当人の性格だろう。生来馬鹿正直と言っていいほど素直な幸村が見事な熱血漢となるまでそう長い日数は必要なかった。
思春期特有の捻くれや倦怠感の取れて真っ直ぐに熱くなっていく主を見ながら佐助も相応に落ち着いた。元々歳の割には落ち着いていたほうだが、よりそうなることで忍びとしての能力も格段に高くなった。落ち着いたというのは若者特有の逡巡についての話であって、態度や口は相変わらずと言うよりむしろ随分軽く滑らかになった。雇い主の主人である信玄にまで軽口を叩くのは如何かと佐助自身思っていないでもないが。
年を経る中で忍隊の面子はよく変わった。織田が大きく出てきてからは戦も増えたので尚更だ。今更特別に女のことを思い出すようなこともない。それでも名前を思い出せなくなったことは些かかなしかった。初めから知らなかったのではないかとすら思う。
実はあのあと、一度ぎり女から文があった。かもしれない。かもなどと情けなく覚束ない話だが、本当に夢か現か今となっては判別がつかないのだ。しかしあれだけしっかり覚えているのだから、現実であったと思って問題のないようにも思う。それでもそう断定できないのは、現実であればいいと思う反面、だからこそそれは佐助にとって単にそうあって欲しいだけの都合のいい妄想のようにも思えたからだ。文を持ってきたのは知らぬ忍びだった。恐らく女と同じ里の者だろうことは動きと持っていた道具や武器の類でわかった。怪しいやつととっ捕まえたのだが文以外の用は本当になかったらしい。裏を身体に訊ねるべきか迷った末、大人しく帰して後をつけてみたがどこかに仕えている風でもなかった。そもそも文を持ってきただけで他の忍びに見つかったり、尾行されて振り切ることもできない辺り相当に未熟だ。死んだら不運なお使い程度に出されたのだろうか。その忍びの向かった先は忍びの里だった。他の忍びに尾行されたまま自分の里へ帰るなんてとんだ間抜けだ。そのときの感触も夢のようで気持ちがわるいのだ。忍びは十と少しという程度の少年であったがその尾行を気にせず進む素振りはまるで佐助に着いて来いとでも言うかのようだった。それでもまさか少年が尾行に気づいていながら気づいていない振りをしていたとも思えない。木々が深くなると少年の進む速さこそ変わらないが時折葉と枝ががさりと鳴った。それを追って佐助は音もなく進む。黄と緑と茶に囲まれる中を進みながら佐助は奇妙な気持ちになった。眠りの中で見る世界であったり、あるいは非現実の世界に紛れ込んでしまう人間のそれに近いだろう。それからその気持ちが生まれて初めて里を出たときによく似ていたことに気がついて苦笑する。人里離れた森深くの知らぬ忍びの里は、立地こそ佐助の故郷にも似ていたが規模も空気も異なっていた。住居の数からして数十人ほどしか暮らしていないようだが、実際の気配はそれより更に少なかった。それらの中に女のものがないことを確認し、静かにその里から離れる。そこに女がいたとしてどうするつもりだったのかは佐助自身考えていなかった。あまりの人気のなさに、実は佐助の来訪は気づかれていて集団で待ち伏せをされていたり気を抜いたところを狙い撃たれたりするのではと神経を研ぎ澄ませながら帰路を急いだことはよく覚えている。忍びの里の在り処は高価な情報だが、佐助にとってはさして意味のないものだった。武田の領地に入って落ち着いてから改めて文を開く。筆跡は女のものではなかった。中には生きていること、負傷していること、里に戻り治療を受けていること、手が使えないので代筆を頼んでいること、真田の繁栄、弁丸の武功を祈っていること、負傷により忍びを続けられないこと、以上が淡白な文面で綴られていた。当たり障りのない文面だった。筆跡の違いと相まって、ひたすららしくないとばかり佐助には感じられた。こんな女だったろうか。その手紙の文末には女の名前が記されていた。だからやはり女は名乗っていたし佐助は確かにそれを知っていた。花押はなくそもそも女の花押を佐助は知らない。手紙は燃やした。それが通例であるからだ。今になってあれは燃やす必要のない手紙だったのではと思う。機密のない文というものを、佐助は貰ったことがなかった。とにかくそうして物質的証拠を失ってしまったことで、あれが現実であったのか確かめる術もなくなってしまった。里への道もまったく覚えていない、不思議なことに。やはり夢であったと思うのだ。よそ者へ所在地の割れるようなへまを忍びの里がするはずがない。
上田には佐助が足を運ぶことは度々あるが、幸村はあれから一度も帰っていない。本人としては武功を土産にせねば気が済まないのだろう。その気持ちもわからないではない。昌幸とも二度戦場を共にしたが、そのときも顔は合わせなかったようだ。一方の佐助が頻繁に上田へ行く理由と言えば簡単で、主には昌幸への近況報告だ。そのついでに幸村と仲のよかった男に会い、幸村からの文を渡したり近況を教えあったりする。前者はともかく後者はいっそ甲斐に住んで貰えばいいとも思うのだが、そういうわけにもいかぬらしい。初めの話では幸村が上田を出るとき共に来るはずだった。どういう話の流れかは知らないが、ともかく現時点でその男は上田に残り昌幸に仕えている。男は昔弁丸に小姓として仕えていて佐助も知らぬ仲ではないが、上田に残る理由は特にないように見えたので不思議だった。
「武功は常々聞いていますよ」「日本一の兵ってやつ?」「ええ。信幸様も兄として鼻が高いと仰っている」「へえ、あの旦那が。でも、本人としてはぜんっぜん足りないみたい」「幸村殿らしい。向上心があってよいではないですか」「その向上心とやらに振り回される俺様の身にもなって欲しいよ……」「佐助殿も頑張っておられる」「そりゃどーも。働くのは給料分だけにしたいんだけどねえ」
そんなことを言って、と笑っているのが件の男だ。あれとは違い温厚で物腰の柔らかな性質をしている。それが昔のだるるとした弁丸にも熱血漢となった幸村にもなんとも言えず合うらしい。人のよすぎるところがあるが、戦場では鬼神の如き眼差しになるところは幸村と似ている。
幸村の甲斐での働きは上田にも、もっと言えば日本中に響いているようだった。武田の真田幸村と言えば大抵の者が知っている。今は辛うじて平和にしているが、きっと直にこうして近況報告などと上田へ来ている暇もなくなるに違いない。
「ま、どの道まだ昌幸様には見せらんないって。見たらきっと、あの猪突猛進を直せって言われちまう」「言いそうですねえ。いいところでもあるんですけど」
熱くなったのはいいが冷静さにもいささか欠けているのが困る。直したいところであるが幸村はとうに佐助の手を離れているので今更佐助一人がそうしたいと思ったところでどうにもならない。更なる乱世の訪れは誰もが感じていたので無理になる前に一度また幸村に会いたいのだがとの話を聞いて男と別れた。それで下世話は承知しながらなぜ上田を離れないのか気になった。ただの思いつきだ。
知人の後をつけるのは他人にそうするよりも罪悪感が深い。必要とあらば躊躇いもないがこうも私情では尚更だ。とは言え佐助と別れてから男はひたすら鍛錬をし始めたので尾行の必要はなかった。そもそも野次馬根性でたいした興味があるわけでもなし。長年気になっていたから少しばかり知りたいな、という程度だ。佐助も暇なわけではない、むしろ忙しいのは確かなのでこれは興味にかこつけた休息だ。このところ働き詰めで疲れていたのもある。小一時間ほど休んだら甲斐へ戻るつもりだった。
鍛錬など始めたら何刻だって続けるような人種だ。それをぼんやり見ている必要もなしと判断してあたりの散歩に出る。日ごろ佐助は歩くより走っている時間のほうが長い。そして奇妙な話であるが、一日の半分近く、下手したらそれ以上の時間地面や床の上にいない。こうして地面に足をつけて目的なくゆっくり歩くというのは珍しいことだった。甲斐に帰ればまた激務が待っている。それらすべてを頭から追いやってぐうと伸びをした。かすがにも長らく会っていないことを思い出す。彼女も忙しくなる前に暇を縫って顔を見に行きたい。戦となれば殺し合わねばならぬのだ。それを取り立てて悲しいことだとは思わない。ただ仕方がないなと、その一言で片付けられてしまう。しかしそれが幸村であればどうだ。その仮定自体、無意味であるとしか彼には断じることができない。仕事のことが頭から抜けると、己の中はそればかりが占めているのだと改めて佐助には感ぜられた。武田のこと、真田のこと、結局はなにもかもが幸村のことに収束される。近頃にはそれが心地よくすらある。失うなど考えられない。そんなことはありえないし、あってはいけないのだ。だから幸村は強く在らねばならないし、佐助もそうだ。何者も退けられるよう。何者にも幸村の邪魔はさせぬよう。
上田城の塀の外を伝い歩いていたが、南は千曲川に面しているので一周はできない。散歩にも飽きてきてそろそろ甲斐へ帰ろうかと考えたときだった。木々の間にちらりと花の色が見えた。予感があったわけではない。数歩近づいて、それがなにであるかわかった。更に数歩進んではっとした。まさかと思いながらもその考えが頭を過ぎると足が速まり心臓が鳴った。それからそんなはずがないと予防線を張る。それでも佐助の胸はいやになるほど早鐘を打って予想は根拠のない確信を帯び始める。それは歪な手作りの墓だった。川原から拾ってきたのか滑らかな丸みを帯びた石がどさりと置かれ、表面はがりがりと不器用に削られている。その前には真新しい白と黄の菊が二本置かれていた。川に腰まで浸かって石を探す様、両手で石を持ちゆっくりと歩みを進める様、小さな手が刃物を取って石に傷をつける様、それを眼差す真剣な目、どれも間近で見たように思い描けた。添えられた手が石をつるりと撫でるとそれは女の生白い頬と重なった。人であった女を見つめる弁丸の目の色が佐助は怖い。それは佐助の知らない弁丸だった。ああ、とそこで初めて佐助はそれを理解した。まったくお節介もすぎれば毒だとつくづく思う。このときほど佐助も女と同じ気持ちだったのだと思い知らされたことは後にも先にもなかった。
弁丸様のおはようからおやすみまでを見守るの会・上
(11/01/28)