出会い編
ぽーん、と気の抜けるような電子音が頭に響いて扉が両側へ開く。耳を押さえていた手を外して息を吐くと、エレベーターを降りた。中等部はもう誰も残っていないらしく、エレベーターホールの向こうにだんまりの廊下が口を開けている。構造は同じだろうと壁を探るとすぐにスイッチはみつかった。無造作にいくつかを押せば明滅してまばらに蛍光灯が点く。廊下の電気も点け教室を見ていくと、教室の並び等は高等部となんら変わりないようだった。人気のない廊下にひたひたと自身の靴音だけが反響して薄気味悪い。六つ目の教室を覗き込んで電気を点ける。すっかり慣れた景色より一回り小さな机と椅子が並んでいた。メールで言われた通りの机を探って英語の教科書を取り出し、念のため名前を確認する。ぱらと開いてみると最初の単元は「Hello」だけで丸々一ページが消費されていてなんだかおかしかった。無事妹の教科書を鞄に入れると、すぐに教室を出て電気を消した。
再びひたひたとワックスで滑りそうな廊下を歩く。意識せず溜息が漏れた。ここ三ヶ月、正確にはこの高校に入学を決めてからは毎日のことだ。わたしは高校選びに失敗した。わたしが受けた高校の中ではここが一番レベルが高かったのだから、受かればここに行かせられると初めからわかっていたはずだ。加えて妹も同校の中等部に受かったともなれば、親としても同じ学校にいてくれたほうが安心であり楽なのだろう。そういった気持ちはわからなくもないけれど、具体的になにがどうして安心なのかと言うと、それはよくわからない。一緒に受けた友達の一人は落ち、もう一人はクラスが違うし遠いので入学してからはほとんど顔を合わせていない。そうしてわたしが巨深高校を受験し入学してしまった経緯はなにということもない正常なものだけれど、後悔している理由というのが、また、くだらないながら死活問題だ。この学校で生活していくには。
降りのボタンを押して、廊下とホールの電気を消す。ずらりと並んだエレベーターの脇のボタンがそれぞれ弱く光っていた。なるべくなにも考えないように努める。ぽーん、と間の抜けた音。いくつか向こうのエレベーターが静かに開いた。閉じてしまう前にと小走りで向かって、人影に驚く。人が乗っているとは思わなかった。しかもでかい。めちゃくちゃでかい。思わず影が見えた瞬間びくっとしてしまった。恥ずかしい。頭を下げてエレベーターに乗り込むと扉が閉まる。ガラスの外の景色がふわりと動いた。う、わ、吐きそう。しゃがむか耳を塞ぐか足踏むかをしたかったけれど人がいるので憚られる。ふとその人が顔を動かし外を見た。申し訳程度の灯りで顔が見える。「あ、かけいくん」たしかに、いくらなんでも中学生でこの身長はないと思った。
名前を呼ばれた筧くんはわたしを見て不思議そうな顔をする。どうやら彼はわたしを知らないらしい。クラスが同じだけで話したこともないのだから仕方がない。わたしだって彼が目立つし割合有名人なようだからなんとなく知っていただけで、クラス全員の名前を把握しているわけではない。エレベーターの高度はみるみる下がって浮遊感に襲われる。きもちわるさを誤魔化すためにもなにか話し続けなければならない気がした。
「クラスがいっしょ。わたし
江鈴戸」ああ、という顔をする。「わりい、顔は知ってたんだけど」「いーえ。筧くんは部活ですか」「まあ、そんなとこ。
江鈴戸は、なにしてたんだ」「友達とお喋り、とか。ていうか筧くんこっち中等部ですけど」「知ってる。そっちこそ」「わたしは妹が明日英語のテストなのに教科書忘れてきたっていうんでちょっとお邪魔してきました」「そうか」「それで、筧くんは」「……」「秘密もありですよ」無言はやめて、ほんとはきそう。きもちわるい。
「こっちのほうが、人、少ねえから」
なにが、と訊ねようとして気がついた。そっぽを向いた筧くんは耳まで真っ赤である。なんだ、なんだなんだ。
「……好きなんだ」「うえ?」
「エレベーター、好きで」
地面が近い。ようやくこの箱から解放される。けれど止まるのが怖い。かと言って動き続けるものいやだ。滑らかにスピードを落としたエレベーターが止まる。身体はまだ落ち続けているような感覚がある。一歩置いて、遠くへ行っていた気持ち悪さが再び現実のものとなって襲い掛かってきた。扉が開ききるのも待てずにエレベーターから転がり出る。ああ懐かしき地面! ごきげんよう! 膝をついてぜえはあとしていると筧くんが非常に心配そうかつ変なものを見るような目でわたしを見ていた。「大丈夫か」わけがわからないと言いたげだ。「顔色、わりいけど」意味不明なカミングアウトの直後だからか、依然少々顔が赤い。
「申し訳ないん、です、けど、」
巨深と言えば、なにより目を引くのは六十階建ての超高層校舎である。備え付けられるは高性能のエレベーター十基。高所恐怖症、それもある。しかしそれは目さえ瞑れば耐えられる。
「わたし、エレベーター、だめ、なんで」
二、三階ならともかく、わたしのクラスは四十七階だ。それを毎日。拷問としか思えない。
ちらと見上げた筧くんは心底哀れむようにわたしを見ていた。そんな目で見るな。
出会ってしまった
出会うはずのないふたり
(というほど大層なものでもない)
(08/12/01)