翌日編

 基本的に登校はぎりぎり、である。よって、エレベーターもぎゅうぎゅう、である。朝からつらい。
 いやでも人とのぎゅうぎゅうで浮遊感がまぎれていいかなー……などということは少しもなく、その上ガラス張りの壁側なんかになってしまった日には東京の景色を一望できて素敵! ということもなく、ただただその高さに恐怖するばかりである。ガラスが割れやしないかとも杞憂する。
 雪崩れるようにエレベーターから降りて、涙の滲んだ目を拭いた。朝から死ぬかと思った。いい加減慣れろとも思うけれど駄目なものは駄目だ。胸をおさえて息を整えながらざわめく廊下をずるずる進む。なぜか、今年の巨深高校の一年生は背の高い人が多い。例年に比べても平均身長は十センチ以上高いそうだ。男子の身長は百八十台が基本である。そう言われてみれば、たしかに教室や朝会、ラッシュ時のエレベーターの圧迫感は尋常でない。電車のほうが人口密度は高いはずなのに、落ちる影の深さの所為かエレベーターのほうがずっと苦しく感じる。体感人口密度がぜんぜんちがう。背の低い人間はこの学年じゃ生き残れない、なる友人ロッソの名言もあるほどだ。そんな彼女の身長は百五十前後。正に高身長の荒波(巨深ウェーブ)に揉まれてきた被害者の一人と言えよう。一方のわたしは彼女の身長に丁度二十を足したくらいで、ちゃっかり学校の平均身長を上げている人間の一人であったりする。コンプレックスであった身長は、ここへ入ってから気にならなくなった。わたしより大きい女子がごまんといたのだ。半ばカルチャーショックですらあった。背の高い人なんて世の中腐るほどいるのだと思い知らされた。むしろわたしくらいの身長で背が高いなんて驕りも甚だしい。
 と、前方に長身巨深生の代表選手とも言うべき姿が生徒の波の間から見えた。筧駿選手である。話したのは昨日が初めてで、彼もわたしも人付き合いの良さはなにとも言えぬラインなので挨拶すべきかの判断に困る。挨拶しようかとも考えたけれど、面倒なのでやめた。が、他意はないだろう、ふと彼の顔がこちらを向きその焦点がわたしと出会う。視線の接触は音すらしそうだ。あ、と互いに口を開く。まるで今あなたに気がつきましたというような顔をした自分にいくらか恥ずかしくなった。
「おはよ」「おう」
 条件反射にも近い挨拶を交わしてそこで至る驚愕の事実。なんでもアメフト部? ラグビー部? らしい彼は、朝練を終えて教室へ向かうところなのだろう。事実を確認すると、彼が今でてきたのは階段で、わたしたちの教室は四十七階だ。彼が汗ひとつかいていないことを差し引いても、結論は“階段を上ってきた”としかならない。いやいやそんなまさか。まず階段を使ってる人自体初めて見たからね。何者だこの人。しかもエレベーター好きなのにわざわざ階段登校という、矛盾。好きなら乗れよ。いや、朝に乗らないから、怪しくもああして放課後人のいない中等部の西校舎でわざわざエレベーターに乗っていたのだろうか。ちなみに高等部のエレベーターは放課後はカップルに占領される。エレベーターでデートをする巨深生は十分理解しかねるが、彼の行動もなかなかに意味不明である。ちなみに、階段登校というのはその名の通りエレベーターを使わず階段を使って登校するという伝説の登校手段である。学年が上がるにつれて階が下がるので三年でする人は珍しくもないようだけど、一年でやっている人は今まで噂で聞いた一人しか知らない。息も完全に正常なのが恐ろしすぎる。なんなのこのクールガイ。
「昨日、大丈夫だったか」昨日は妙なカミングアウトに妙に一人でテンパっていたみたいだけれど、今日は普段の調子のようだ。「まあ、いつものことなんで」いい加減慣れたいものだけど。 「そっか、大変だな。今も顔、青いし」「まじですか」「まじだ」
「わたしは階段登校しようかな」「やめとけ、死ぬって」
 言って小さく笑う。仏頂面しか印象にないからちょっとレアかも。階段登校がアブノーマルな自覚はあるみたいだ。
「死にはしないけど、遅刻はしそう」
「だめだろ」「だめだね」
 わたしよりまた二十センチ近く高い彼が同じ速度で横を歩く。彼のファンは学年問わずいるそうだけど、確かにこれはモテるのもわかる気がしなくもない。パーフェクトボーイですかあなたは。しかしかし、わたしはエレベーターオタクはノーサンキューなのであった。
「な、あ、に」
「う?」「げ、」
 わ、と視界に海を思わせる鮮やかな青と太陽の金――端的に言ってしまうならば(To be frank with)、青迷彩のタンクトップに金髪、補足筧くん並にでかい、が、筧君に飛びかかってきた。
「女の子と話してんだよ筧センセー!」
 伸びてきた腕が肩に届く瞬間、筧くんの目が本気になった。怖いです。素早く片足を引き腕を大きく前に突き出す。筧くんの掌が男の胸を的確に捕らえた、かに見えた。「水泳(スイム)!」最小限の身体の捻りで筧くんの掌を軸から流すと、柔らかく揃えられた男の指さきは宙高く弧を描く。飛び込んできた彼の顔は楽しくてたまらないといった風だ。一連の動きはコマ撮りのようなスローモーションで見えた。ぱちぱちと目をしばたたかせる。
「まだまだだな」
 筧くんの突き出した手が服を掴み、もう片方の腕は振り下ろされた手を支えていた。「ちえー」口は悔しそうだけれど笑顔のまま、金髪が離れる。よくわからないけど筧くんが勝ったみたいだ。廊下でなに格闘技を展開させているのだろう。男子の行動が意味不明なのは今に始まったことじゃないのでまあ気にしないことにする。
「廊下だからだよ! 廊下じゃなかったらもっと思いっきりいけたし」
「そうかよ、続きは昼休みな」ぽかーんとしているわたしに気づいて筧くんは金髪を指さした。
「こいつ水町。水町健悟」
「階段登校の!」「え、俺有名人?」「うん」「そっかあ、知っててくれてサンキュー! 健悟でいーよ」手を差し出されて反射的に握ったらぶんぶん振られた。
「名前、なんつーの?」「江鈴戸」「したした」「いなえ」「いなえちゃんね。よろしくよろしく」更にぶんぶん振られてから、やっと手を解放された。腕がつかれた。
「初対面でいきなりそういうのやめろって。困ってんだろ」「えーいいじゃん、初対面でしか握手なんてしないっしょ。親愛のジョーだよ」
 両方から同意を求めるような目を向けられたので笑って誤魔化した。「んじゃ筧、昼休み行くかんな! ばいばーい」最後はわたしに向かって手を振って、人の合間を縫って水町くんは自分の教室に去ってった。あ、健悟だ。成り行き上、筧くんと教室まで並んで歩くことになってしまって気まずい。ちなみに昨日はエレベーターから転がり出て四つん這ったのち、そのまま走ってトイレに行った。後ろから筧くんが呼び止めるのが聞こえたけど無視した、というより余裕がなかったし早く立ち去りたかった。気持ち悪くてトイレに行ったわけだけど、今まで乗り物で酔ったりエレベーターで気持ち悪くなったりして吐いたことはないので、昨日も大丈夫だった。居た堪れなかっただけだ。変だったのはお互い様か。
 話すことがなかったので、今日あるテストの話をした。古典とリーディングの単語テスト、オーラルコミュニケーションと数学の小テスト、とテスト祭りなのである。単語テストや小テストはなんだかんだで毎日に近くある。エレベーターの話はしなかった。しなくていいけども。なんとなく、筧くんはエレベーターが大好きなことを隠している、隠しているつもりはないのかもしれないけど、少なくとも水町くん、じゃなくって健悟はそのことを知らないんだろうなあと思った。それからエレベーターのなにが好きなのか、どのへんが好きなのか、少し聞いてみたいと思ったけれど教室に着いたので、それとなく「じゃあ」となって別れてしまった。アドレスでも聞けばよかったと少し後悔した。なんとなく、筧くんと話す機会はそうそうできない予感がしたのだ。


少し、仲良くなりたい

ような気もした
(わたしの予感はわりと外れる)


(09/03/27)