彼女のことはずっと忘れていた。
 と、言っても責められる謂れはまったくない。彼女はきっとそれ以上に俺のことを忘れてる。で、思い出してもない。と言っても俺だってちょっと思い出しただけなのでそう偉そうには言えない。
 よくある関係すぎて今更説明するのも億劫なわけだけど、当たり前の話、世間一般に期待されるような展開は少女漫画でも少年漫画でもない現実じゃ、そうそう起こらない。彼女は幼稚園からの幼馴染で、昔は遊んだし一緒に登下校もしたけれど今は話もしないし目も合わせない。そもそも俺は悲しい話、ほとんど女子と話さない。彼女より低かったはずの背は悠に彼女を超えているし、あどけなかった彼女の顔にはいつからか化粧が乗っている。可愛いけれど、しなくてもいいのに、とも思う。
 思い出したきっかけは非常に単純で、彼女から弁当を受け取った、ということだった。しかし勘違いしないで頂きたい。彼女は弁当を俺に届けただけで、それを作ったわけではない。だとしてもその場面に出くわした友人は目を丸くしたし、俺も驚いた。「佐々那くん」呼ばれて見ると、彼女が立っていた。「これ」と差し出されたものを目を白黒させながら受け取ると、そのまま彼女は踵を返して去っていった。友人は俺以上に興奮して愛妻弁当だあいつが今日遅刻してきたのはこのせいかなにやらと囃し立てたが、真相としては簡単なことで、俺と彼女は同じマンションの同じ階に住んでいる。あとで携帯を見たら母からも「ちゃんにお弁当渡してって頼んでおいたよ(はーと)」とメールが来ていた。いい歳してハートはやめろハートは。しばらく周りは騒いでいたが、説明すれば鞄も包む布も弁当箱も中身の調子もいつもと同じだったので「そりゃ急に春が来るわけないよな」と納得した。まだ夏も終わったばかりなんだから当たり前の話。とは思いながらも非常に寒い。まだ残暑も残るのに。
 それで彼女の存在を思い出して、昔はよく遊んだなあなんて懐かしく感じて、なんとなく見てみると本当に可愛くなったものだと思う。時の流れを感じる。
 それからぼんやり彼女を見る癖がついた。気がつくと見ている。まずいなと思いつつも、ひたすら見ている。ぼうっと黒板を見てる横顔とか、頬杖ついて寝てる横顔とか、つっぷして寝てる背中とか、空を見てるときのうなじと耳とか。変態か。うまい感じに目は合わないようにする。初めの頃何度か合ったのだけど、それから倫理の授業で配られたプリントが、大まかに言うところの若さ故の過ちといった風な話で、その中に「たくさん彼女と目が合うと喜んでいたが要するにいつも自分が彼女を見ていただけだった」という内容もあったのでそうした勘違いはせずに済んだ。ものすごく危なかった。あのプリントがなければ俺も似たような勘違いに陥ってしまっていた、かも、しれない。倫理の先生にはほんの少し感謝している。
 現実的には、まったく彼女との接点はあれ以来なくて、巧妙に目線を外すので目の合うことすらない。一度席替えで彼女と仲のいい子と席が近くなって、休み時間の度に話を聞くことができた。盗み聞きじゃない。嫌でも聞こえる。いつも自分の席にいるわけにもいかないし、近くに女子が集まってくれば居心地も悪いし席を空けろという奇妙な圧力もかかるので友人の席に逃げることもあったが、時折寝てるふりか次の時間の小テストの勉強してるふりなんかして話を聞いた。彼氏はいないさそうな口ぶりでちょっと嬉しかった。その度に自分でなにかする気もねえのになあ、とがっくりする。たまに筧や水町あたりの話になって、きゃーとなる。世の中には女子の話題に進んで上げられるような男もいるわけだ。それできゃーなんて言われるやつもいるわけだ。意外にも大西や大平の話もされていて驚いた。大平くんっていいよねー、えーっ、よくないよ汗くさいしきもちわるーい、かっこいいじゃん熱くて! あーわたしも結構すきかも! とかいった感じだ。大西は結論としては頭よさげで腹立つ、だった。ちなみにそれは完全に誤解である。元は悪くないようだが大平と試験前にどれだけ勉強してないかで競うのでいつも散々な結果を残しているようだ。それで筧にそんな無駄なことを競っていないで勉強しろと怒られている。ついでに筧は水町の試験の結果も怒る。追試になって部活の練習に影響が出られては困るからだ。実質部内で最も発言力のある筧は、最早お母さんのようだとよく思うけれど不憫なので言ってない。女子の筧と水町についての評価は悲しくなるので割愛。女子はわからん。意味不明だ。彼女が筧をかっこいいと言っていたのでショックだった。それから何度か、彼女が筧を見ているところを見てしまっていよいよ本格的にへこんだ。勝ち目がなさすぎる。

 そういえば一度だけ彼女と話をした。いつものように、次の時間の小テストの勉強をしているふりをしていたのだ。古典の単語テストだった。単語と漢字の読みが出るやつだ。単語集をぼんやり見ていると、「うそ、次ってテストだっけ」と知った声が言った。こうしたことはもう何度かあったけど、そのときはなんとなく声のほうを振り返ってしまった。言った彼女と目が合う。他の数人も俺を見ていた。えーうそ、と声が上がって彼女以外の何人かはすぐ単語集を取りに行くなり、少しでもなんとかするべく雀の涙みたいな休み時間だけで詰め込むべく席に戻った。あとの何人かは諦めているようで動かない。
「範囲どこだったっけ」彼女が俺の単語集を覗き込んできたので、内心かなり慌てた。なんとか平静を装う。
「十八のとこ」「十八?」「えーと、百六十七ページから」「めんどくさ。しなくていっかな」「漢字だけでも見といたら?」「どれ」「これとか。時の鳥でほととぎす」ぱらぱらと一ページずつ捲っていくと、あるところで彼女が噴き出した。真字と仮名とが並んでいる。「これ、マナカナって双子じゃん」それで二人で笑った。
 まあ学校にいると笑いの沸点が異常に下がるのでそれのなにが面白かったのか、今となって冷静に考えると不明だけどもそのときのことを思い出すと今でもにやける。それから少し自己嫌悪する。俺が筧くらいかっこよければ、と何度も思った。顔は整形するしかない分、部活の練習を頑張るが壁は花がないし俺は一流選手には程遠い。まだまだ四、五流だと思う。それで筋トレをしながらあまりムキムキになるのも、また一層もてなくなるだろうなあとがっくりする。そんなときに筧や水町を見ると、もっとがっくりする。敵わないと思う。スポーツ選手としても。
 そんなままで時間ばかりが過ぎていった。冬が来ても相変わらずハードな部活が続いた。
 朝起きてリビングに行ったら、テーブルの上に包装された箱があった。気に留めず朝食を済ましながらテレビを見ていると、デパ地下の人気チョコのランキングが流れた。そこで今日はバレンタインだと思い出す。するとこのテーブルの上の箱も、母からのものだろう。どうせなら帰ってきてから思い出したかった。学校は、さしていつもと変わりなかった。浮き足立つのは一部の人間だけだ。席替えをしたので、俺の近くに女子が集まることも今はない。友人とされるバレンタインの話はどれもしょっぱい。
「今年も母親からだけか……」ぐったり頭を抱えては見るが、通例のことなのでもうあまり気にしていない。「へっ、俺は妹から貰える」「それ嬉しいか?」「あんまり。つーか、本命にあげる前の毒味?」しょっぱすぎる。まあ、現実的にはバレンタインなんてこういうものだ。
 バレンタインだからと言って部活が休みになるわけではない。掃除を終えて教室の荷物をまとめて、すぐに部室へ向かった。当然ながら、チョコは愚か今日も一度も女子と話していない。こうしたまま高校生活が終わるのだろうか。しょっぱすぎる。
 部室へ行くと、まだ開いていなかった。基本的に部室を開けるのはマネージャーの仕事なのだが、一日おきにしか学校に来ない渋谷にはまったく期待してない。仕事もたいしてしないので、毎日いるのかいないのかよくわからない。鍵を取りに職員室へ向かうと、途中で筧に会った。紙袋を持って、疲れた顔をしている。紙袋の中身については予測ながら言わずもがなだ。
「お、佐々那」「よう。大変そうだな」「まあ……」曖昧に言って少しばつが悪そうな顔をする。内心のところどうかは知らないが、筧はあまり自分がもてることをよく思っていない。
「部室行くのか?」「ああ。開いてなくて」「ちょっ待て、今持ってる」ごそごそとブレザーやズボンのポケットをまさぐりだす。部長は部室の鍵を持っているのだ。というわけで、小判鮫先輩が引退したあと、結局筧が部長になった。自分は一年だしと筧は死ぬほど遠慮したが、一番アメフトを愛しているのもアメフトに詳しいのも技術があるのも筧だし、部員全員異存はなかった。そう反対する気もないくせに最後までずるいずるいと言っていた水町が「筧がやんねーんなら俺がやる!」と言い出したので、やっと筧も了承したのだ。
「わりいな。荷物置いたらすぐ行く」「おう」
 そこで筧と別れて、また来た道を戻った。部室にはもう他のやつが来ているかもしれない。筧の持っていた紙袋を思い出して、一体いくつ貰ったんだと思う。そこで彼女とすれ違った。あれ、と思い振り返る。その向こうにまだ筧の背中が見えた。どきん、と心臓が跳ねる。もう一度振り返ろうとして、なぜかやめた。息が苦しくなって思わず駆け出した。筧を見ていた彼女を何度も思い出しては振り払った。

「おっまえさー、一体いくつ貰ったんだよ!」飛び掛ってきた水町を振り払って筧は鬱陶しそうにしている。脇では大西と大平がチョコを貰った数で争っていた。本命も義理もこいつらの前では同じ一個として数えられるんだから不憫だ。もし自分がもててもこいつらと同じことをしないとは言い切れないのが情けないが。廊下で貰った飴ひとつはカウントするか否かが問題になっているらしい。それに向かって筧がものを食べながら話すなと叱る。だからお母さんみたいだって。
 渋谷が部員全員にチョコをくれたのだ。「どうよ、マネージャーっぽいっしょ。泣いて喜べ」と言ってきたのでいまいち喜びづらかったが、素直に嬉しい。なにしろ悲しいことに生まれてこのかた母親からしかバレンタインに貰ったことがない。人数が多いからそれぞれ一人分は雀の涙のようなものだが、部活を終えて皆でそれを部室で食べていた。
「水町くんだって結構貰ったんだろ」「数えてねえもん」結局答えが出なかったらしい大西に訊ねられて、あっけらかんと笑って答える。つまるところぱっと数えられないくらいには貰ったということだ。次元が違う。
「で、どーなの筧」
「知らねえ。なるべく断れるやつは断ってる」
「ひっど! ってか摩季ちゃんから貰ってんじゃん!」
「だってこれは明らかに義理だろ」
「わっかった! 筧、好きな人いんだろ!」
 四人のやり取りをぼんやり眺めていたが、その言葉に僅かに反応した。すぐに彼女を思い出す。
「は」「ええええええそんな、マジですか筧先生!」「筧先生、好きな人いるんですか!」
「い、いねえよ!」力強く否定するがその声は裏返っていた。センセーも人間だね、と誰かが笑う。
「まだ付き合ってもねえのに誠実ってうける!」
「そうですよ、貰ったって損はないですよ」
「そそそれで、先生はその好きな子からは貰えたんですか!」
 水町に腹を抱えられ、二人には詰め寄られ筧は相当思考が鈍っているようだった。そんなに顔を赤くしていたらいないなんて誰が信じるか。今更過ぎて誰も四人のわたわたを止めようとはしないし、渋谷から貰ったものも食べ終えてそれぞれ帰る支度を始めている。当の渋谷は配るだけ配ってもう帰ったみたいだ。部活終わりまで居ただけでも珍しいかもしれない。三人は筧に詰め寄って答えを待っている。アホみたいに神妙だ。
「…………も、貰ってねえ」
「ええええええええマジかよ!」「そ、そんな! 筧先生にあげない女子がいるなんて!」「筧先生の魅力がわからん女子なんていないっス! 諦めないでください!」「あ、ああ……」
「なーなー告白してんの?」
「し、てない」
「しなきゃだめだって筧!」
 彼女は大丈夫だろうか、と思う。なにが大丈夫だかよくわからないが、彼女は筧に受け取って貰えたのか。もし、好きな人にチョコをあげようと、して、断られたら、どれだけショックだろう。そもそも彼女は筧にチョコをあげたのか。まず、彼女は筧が好きなのか。真相は知らない。
 部誌を書き終えたものの四人がうにゃうにゃしていて言いづらい。勝手に帰るのも気がひける。せめて一言筧に声をかけたいが、かけづらい。見ていると筧と目が合った。助けてという意を汲み取る。
「部誌書いた」「お、お疲れ」
 丁度話も区切りが良かったようで、三人もそれぞれぶつぶつ洩らしながら筧から離れて荷物を持って上着を着た。やれやれと言ったように筧が立ち上がる。部室に鍵を閉めて、「マジで早めに告白しろよ!」「筧先生なら大丈夫です!」「君のアドバイスは具体性に欠け過ぎだね。先生、僕にできることならなんでもお役に立ちますので!」と残して三人は帰って行った。
 なんとなく筧と並んで校舎に歩く。筧は部活前に荷物を置きに行くと言っていたから、それを取りに教室に戻るんだろう(鞄は今持っているから荷物というのは恐らくチョコだ)。俺は部誌を職員室まで持って行かなければならない。歩きながら、アメフトの話をした。本当はバレンタインの話を、彼女のことを確認したかったが言い出せないまま別れた。顧問の机に部誌を置いて職員室を出る。
 彼女のことを考えた。筧くん、かっこいいよね、と話した彼女の声を思い出した。そもそも彼女が筧にチョコを渡したかどうかもわからないくせに、なぜか絶対そうだという気がしてならなかった。
 なにもないと分かっていながら、教室へ行こう、と思った。予感ではないが、胸のあたりがざわざわした。エレベーターを待っていると、エレベーターから筧が降りてきた。あ、となる。
「教室行くのか?」
「あーちょっと忘れ物」
「それ、絶対行かないと駄目か?」基本的に常に筧の目はマジだがいつにも増してマジだ。その有無を言わせない雰囲気に気圧される。そういう点でも筧は強いと思う。
「なんかしたのか?」反射的に別にいいんだと答えるのを抑えて、なにげないふりを装って訊ねてみた。
「言っていいのか……、微妙なんだが」「なに」ずいぶん歯切れが悪い。
「教室、百瀬いて」どきりとする。顔が強張るのを止められなかったが、薄暗いので見えてない、はず。
「行かないほういいかも」「そっか……英語の教科書持って帰りたかったんだが」「それは困るな」嘘ではない。英語の教科書は教室に忘れていた。そのことには今気づいた。明日単元テストがある。持って帰ったほうがいいことにはいい。明日学校に来てからしても、なんとかなる、ことにはなる。微妙なラインだ、という風を装う。
「やめた方いいかな」「多分」「諦めっか、しゃーない」「悪いな」
 謝ったのがなんとなくか、そうでないのか、気になる。思わずやめると言ってしまったけれど、いよいよどうしようもなく気になっていた。昇降口に向かいながら、どうするどうすると考える。このまま帰れば、筧とは駅まで一緒だ。学校には戻れない。昇降口が近づいてくる。どうするどうする。はたと思いついた。
「筧」立ち止まった筧が振り返った。廊下とエレベーターホールの電気は全て消えていた。予鈴も鳴って、そろそろ完全下校時間だ。昇降口の光が筧の顔をぼんやり照らして、ちくしょう本当にかっこいいな、と思った。
「わり、俺トイレ寄ってくわ」「ん、ああ」「じゃあ」「またな」
 おざなりに手を振って踵を返すと廊下に入った。エレベーターホールは昇降口のすぐ前だが、トイレは校舎の奥のほうにある。待ってると言われなくて良かった。一階だけ階段を上って、エレベーターに乗った。もう帰っているかもしれない。筧も来たことだし。いなかったらいなかったで、まあいいと思う。人生も青春もそんなものだよな、と、思う。
 すぐに四十七階についた。エレベーターホールは、やはり真っ暗だ。誰かが入れ違いでエレベーターに乗っていった。彼女ではない。いつも遅くまで残って騒いでいる人がいるが、それももう帰ったらしい。教室から廊下に漏れる光もない。やっぱりもう、帰ったよな。溜息を吐く。そもそも、いたとして、なにがしたかったのかわからない。どうせ話しかけないし、話しかけられもしない。彼女に鬱陶しく思われるだけだ。
 まあどうせだし英語の教科書は持って帰ろうと廊下を進む。静かだった。教室に入って手探りでスイッチを探す。ぱちん、と音がして窓際の一列の電気が点いた。コートを着て荷物を持った彼女が硬直したように立っていた。びっくりした顔と目が合う。俺も多分、同じような顔をしていた。口を開いて名前を呼びかけたところで、鐘が鳴った。きーいん、こーおん、といやに間延びした音で。名前は結局最後まで呼んだが鐘の音でかき消された。良かったと思う。よく遊んだ頃は、ちゃんと呼んでいたがそれは、もう、ないなと思う。実際、彼女もこの前俺を佐々那くんと呼んだ気がする。鐘が鳴り終わるまで、時間が止まったみたいに固まったままだった。鐘の音はなんだか不思議だ。話しているときに鳴られると、困る。話してもなにを言っているかわからないし、鳴り終わってから「でさ、」というのもなんだかおかしい気がする。なんでか。互いにびっくりした顔のまま、見つめあった。
「ちはる」
 スイッチから手を下ろした。びっくりにびっくりが重なって、逆に落ち着いた。というのも顔だけで、内心やっぱりどきどきしたままだった。古典の単語帳を覗き込まれたときみたいに。ちはるは俺のあだなである。さざな、みちはる、から、さざなみ、ちはる、というわけだ。そう呼ぶ人はあまりいない。昔、彼女からそう呼ばれていた。彼女もさっさと立ち去ればいいのに、動く気配はなかった。目が赤い。化粧をしていなかった。泣いたから落としたというのが妥当か。昼はしていたはずだから、たぶんそう。スッピンを見て、やっぱり化粧しなくてもいいのにな、と思った。
「忘れ物?」「うん、英語の」「ふーん」
 昔のように、普通に話しかけられて辟易しながらも、答える。「予習でもすんの? まーじめ」「明日、単元テストだろ」「えっうそ、そうだっけ」「そうだよ」「じゃわたしも持ってかーえろっと。とか言っていつもやんないけどねー」「持って帰んないよりはましだろ」まーねとこたえて彼女は廊下に出ていった。机の中から、英語の教科書を探して鞄に入れる。ばたんとロッカーを開ける音がした。
 教室の電気を消すと、また真っ暗になった。窓の外はぼんやりと明るいが、慣れるまで時間がかかりそうだ。なんとなく一緒に歩いて、同じエレベーターに乗る。気になることはたくさんあったが、なにも訊けなかった。電車は混んでいて、不可抗力ながら少し密着してしまった。汗くさいだろうと心配で、とにかくどうでもいいことを考えて過ごした。自分も彼女もなにを考えているのかわからなかった。
 会話はなかった。予測の域は出ないながら一人で泣いていたくらいだし、話す気がないならそれでもいい。気になるけど。
「バス?」「当たり前じゃん」「そう」「バス以外になにで……まさか歩き? 歩いてんの?」「歩きというか、走りだけど」「うわー人間じゃない」「そんな時間かかんないよ」「どんくらい?」「歩いても二、三十分。とか」「ふーん」
 てっきりバス停で別れるかと思っていたのに、過ぎてもついてくる。白い息を吐いては数歩毎に寒いともらした。ならバスで帰ればいいのに。会話はぽつぽつだ(「あ、オリオン座」「どれ?」「あの……三つ並んでるやつ」「へー」)。俺は構わないけれど彼女がつまらなかったり居心地悪かったりしないかが気になる。町並みは住宅が増えてきて、星がちらちらと瞬いていた。いつも走って通る道だから、たまにゆっくり歩いてみると新鮮だ。走っていると景色にまで意識が向かない。向けられるような人間だったら、校舎周り百周は飽きて死ぬと思う。あの校舎の周りをもう何万周しただろう。気の遠くなるような数字だ。
 筧を見ていた彼女を思い出した。その表情の下にどういった感情があったのかは俺にはわからない。他人のことを察する能力は低いほうだ、と思う。
「あんたさー」「うん?」
「アメフト部なんだね」「ああ、うん」
「あんま体育会系ってイメージなかったから、ちょっとびっくりした」「俺もびっくりした」「なんで?」「俺でもアメフトできんだーっていう」「あはは」
 そこからはずっと無言だった。光の漏れるマンションに入って、エレベーターに乗る。七階。小さいころ、エレベーターの扉の一部がガラスになっているのが怖かった。なんとなく。昔はマンションの建物すべてを使って、彼女と、他のこのマンションに住んでるやつと近所のやつ一緒になって、よく鬼ごっこをした。階段に隠れて、いつ鬼が来るかとどきどきする。ああいうどきどきって、こう大きくなるとあんまりない。
 エレベーターを降りて一歩出たところで、彼女が隣にいないことに気がついて振り返る。彼女は手荷物の中を覗き込んでいた。扉が閉まりかけて、慌ててボタンを押す。再び扉が開いたところで鞄をまさぐりながらゆっくり降りてきた。俯いていて顔は見えない。
「あげる」鞄の中から取り出したものを差し出された。透明に薄いピンクで模様の描かれたビニールの袋がリボンで丁寧に閉じられている。中にはトリュフとカップケーキが入っているようだった。どうすればいいのか逡巡しながら、断りもできず差し出されるままに受け取った。そうするのが一番いいように思ったし、彼女の作ったものを貰えるという事実だけで嬉しかった。成り行きはいざ知らず。
「いらないんだって」受け取ったものをまじまじと見ていると、投げやりに彼女が言った。足元に小石でもあれば蹴り飛ばしそうな声音だ。「ひどいね」長いこと女子たちの会話を聞いて最も無難そうな言葉を選んだ。「うん」当たっていたかはわからない。
「それじゃ」エレベーターを降りて彼女の部屋は左で、俺のは右なのでそこで別れた。
 お礼を、と思って振り返る。なんと呼べばいいのか分からなかった。二択。「ちゃん!」背中がくるりと振り返る。安っぽい蛍光灯の下で、彼女の顔は教室にいたときよりは心なしかさっぱりしたように見えた。「ちゃんってあんた……」「あ、ごめん」確かにこの歳でちゃん付けはない。わかっちゃいたけど。羞恥で顔が火照る。
「これ、……えーと、ありがとう」素直に喜ぶのもおかしい気がして、微妙な表情になって彼女から貰ったものを持ち上げて示すと、義理だもん! と叫んで彼女は部屋に消えた。そんな大声で言わんでも。
 女の子ってちょっと腹立つなーと思いつつ、でもやっぱ可愛いなーとも考えつつ、俺も部屋に入って、待ちきれない気持ちをなんとか抑えて夕飯と風呂を済ませてから、英語の教科書を開いて貰ったチョコを食べた。教科書を開いたのはポーズだけであんまり見てない。カップケーキが心なしか生焼けで、これは本命に渡らなくて逆に良かったんじゃないのかと一人でちょっとだけ笑った。失恋したときってチャンスとか言うけど、それって本当なんだろうか。現金だなあ、俺、と思いながらも生焼けのカップケーキを食べながら多分今までで一番幸せだった。





流れもあへぬ

  青春なりけり




(09/04/13)四月一日なのにバレンタイン夢。いらんと知りつつのフリー