水の
掴み方
とらえどころがないんですね。水みたいで、つかめない。
仕事の話がてら専ら最近のお気に入りである宵風くんの話をすると、途端に興味がなさそうに雪見先輩はへえとだけ零した。パソコンに向かった手は休みなく働いているが相槌は返ってくるので一応聞いてはいるようだ。申し分ない。まじめに聞いていないとわかれば普段恥ずかしくて人には言えないようなことだって言える。当人にはなにも言えないけれど。
「あの細っこいところがたまりませんよ」「へえー」「そのくせ背丈はあるんですよねえ。十六の分際で」「ふううん」「まず見た目が好みです。ものすごく好みです」「それはそれは」「そして生と死との葛藤。死への恐怖。望んで気羅を体得したのかさせられたのかは知りませんが、死にたくないなら最初っから使わなけりゃあいいんです。なのに使う。死にたいのっていうくらいに使う。自棄になっているようにしか見えません。怖くないふりをして。若いですね。馬鹿ですね。愚かですね。可愛くって大好きです」「……おまえ性格悪いな」意外とちゃんと聞いていたらしい。羞恥をごまかして笑う。「そうでもなきゃ人なんて殺せてませんよ」もっともだ、と先輩も笑うのがわかった。カチャカチャとキーボードの不規則な硬い音と機械の起動音。いるべき人間の欠けた部屋はその人の雄弁無弁に関わらず妙な静寂と虚無を呼び寄せる。彼がここに来てまだそう長い時も経っていないはずなのに。
初めて宵風くんと会ったとき、わたしがあまりに彼を気に入ったものだから先輩はそれにつけこんでじゃあ夕飯も食べていけよなどと提案した。提案するものの結局のところわたしに作れということだ。宵風くんはたくさん食べると聞いたのでならばそれもいいかもしれないと大人しく夕飯を作ってやると、先輩は中の下などと偉そうなことを言う。和穂さんの料理で舌が肥えているのだ。それでもわたしなりに宵風くんに少しでも喜んで貰おうと精一杯手をかけて作ったものである。もちろん宵風くんはそう喜びを外にだすような人種でないともわかっている。予想通りに、宵風くんは先輩のこいつが作ったのだという言葉にはなにも返さず席について、黙々食べる。たくさん食べる。それが嬉しくて楽しくて、いつの間にかここに来ると決まって夕飯を作るようになっていた。今日も例外ではない。肝心の宵風くんは留守だけれども。このところふらふらと出かけることがよくあるそうで、今夜は帰ってこないかもしれないらしい。残念だ。
「おまえ、ショタ好きだったのか」「ショタいうな」「十六って犯罪」「人殺しといて今更、犯罪もなにもないと思いますけど」「隠の世には隠の世なりのルールがあるだろ」「隠の世に恋愛についてのルールなんてありますかね」「ないだろうな」「ほら。問題ありません」「大有りだろ。まず、あいつはおまえを好きにならねえよ」「そうなんですよねえ。年上は好みじゃないみたいです」「そういうイミじゃなく」
それで肝心の宵風くんがいないんじゃ、張り切りようもない。ご飯を炊いて買ってきた切り身を焼いてそれに味噌汁で終わり。なんでわたしが雪見先輩の晩御飯なんか作ってあげなきゃいけないんですかあ、とぼやくと帰ってくる可能性もなくはないと返される。なんだそれは、期待してしまうじゃないですか。道中買ったスーパーの袋にはわたしと先輩だけではどう見ても多すぎる食材たち。宵風くんがいるのならば頑張って作るつもりだった他の品々の材料はそのまま持って帰るつもりだ。「帰ってきたとき温かいご飯があったらやっぱり嬉しいですかね」「いや、帰ってこないと思う」なら期待させないでください。
真鱈となめこの味噌汁とご飯を食卓に並べて、本来宵風くんがいるべき場所にわたしが座って夕飯を食べる。卓を見るなり先輩は手抜きだ、と漏らす。当たり前です。なにが悲しくて先輩と向かい合って夕飯食べなきゃいけないんですか。はなはだ不満であるのですが。なら帰れよ、そんなことを言ったって、丁度いい新幹線がないのです。わたしだって帰りたい。宵風くんのいないこの部屋に用はない。仕事の話も済んだのだし。彼はどこへ出ているのだろう。あんな、死にかけの身体で。
不自然な空気の動きと床板の軋む音で目が覚めた。カーテンが揺れて、黒い影。手を伸ばそうとして、引っ込めた。また触れるなと怒られる。帰ってきたじゃないですか。先輩のうそつき。
「よいて、くん」
夢心地な声がでた。寝起きは強くない。いつか寝込みを襲われたらそのまま死んでしまいそうだ。影が立ち止まり頭らしき箇所が揺れる。顔が見えそうで、見えない。今夜の月は細かった。輪郭だけがぼんやりと浮かび上がって、頬の白い線が辛うじて見てとれた。黙っていると、ふいと踵を返して影は遠ざかる。引き止める口実が欲しくてけれど彼にとってのわたしにその足を止めさせるほどの価値があるとは思えない。ああ、ある。ひとつだけ。都合よく、思い至って、怠慢な口を開いて声をだす。
「ゆうはんが、あるよ」
その姿が闇に吸い込まれる寸前、ぴたりと足が止まった。まにあった。よかった。丁度具合よくカーテンとの隙間に立ったらしく、不思議そうな白い顔が照らされる。「ゆうはん」もう一度言うと今度はちゃんと聞こえたようで、ああ、とうわごとのような返事が乾いた空気を震わせた。また、耳が悪くなったみたいだ。
「ごはんと魚はチンして、みそしるは、あっためて」
寝起きのわりには努めてはっきりと声にする。帽子のつばの作る顔を隠す陰が深くなった。向きを変えてダイニングへと細い足が向かった。陶器や硝子の擦れる音とラップを裂く音、耳障りな電子レンジの扉を開閉する音のあとに時間設定の電子音、低周波、宵風くんの動きを描きながらそれらの音を聞いていたら自然と目蓋が重くなってきた。いやだ、まだ、寝たくはない。久しぶりに会えたのだ。次は、いつになるかもわからない。次などないかもわからない。
「よいてくん」
ちゃんと、聞こえるようにとはっきり口を開いたら、眠気のせいかうまくコントロールができず思っていたよりずっと大きな声がでた。一寸おいて、なに、と細い声が返ってくる。話したいこと、言いたいことはたくさんある。先輩だって、訊きはしないけれどたくさん気になっているんだ。わたしはだめだ。先輩もだめだ。忍としてだめだ。でも人間としては悪いことではないはずだ。どうして、優しくされることを拒むのか。彼の過去をわたしは知らない。けれど、恐れていてはだめだ。優しくされることも関わることも好かれることも。社会には人間しかいないのだから。若いから、わからなくても仕方がない。大人になれば、わかるはずだ。わかるはずだった。わかる前に死んでしまう。気羅のばか。秘術なんて、存在しなければよかった。そうすれば、わたしと宵風くんが会うこともなかっただろうけれど、宵風くんは普通に大人となってこんな馬鹿な死に方をしなくても済んだのだ、きっと。馬鹿な考えを起こしたとしても、いつかは、あの頃は馬鹿だったなと笑えたのに。
「宵風くん」
もう、彼は応えなかった。代わりに電子レンジの調子外れに軽快なアラームが鳴った。ぼこ、と水音を聞いて内心いくらか慌てる。味噌汁は沸騰させちゃだめだ。すぐにかちんと火が止められて安心する。もう遅いかもしれないけれど。
目蓋を閉じると沈むような眠気に包まれた。彼は、この暗闇のなか食事をするつもりだろうか。確かに、彼に明かりは似合わない。眠ってしまいそうだ。精一杯の抵抗として、手を伸ばす。触れるなと怒られても構わない。
「つらいときは言ってね」
一瞬間の静寂の後に破裂音。ああ、お皿が。明日先輩が怒るだろうな。夢か現実か、うん、と、そう、応える声を聞いた気がした。うそつき。
ソファの跡がつかないようにと腕でかばっていたら服の布の跡がついてしまっていた頬をさする。さすったところでなにも効果はないけれど、きぶんだ。
「せんぱい駅でおみやげ買ってください」
「駅前で降ろすんだから買えねえよ。お土産ったってどうせ自分で食うんだろ。それと足下ろせ行儀悪い」「つまんない男ですね」「黙れ」やれやれと足を下ろして靴を履く。先輩の車は古めかしくて小さくて狭くて妙に揺れる。先輩は朝から床に散らばった白い陶器の破片を片付けさせられてたいそう機嫌が悪かった。
「隣に宵風くんでもいれば楽しいんですけどねえ」
「ああそうかよ」
「カーブで身体が傾いてぶつかってきゃっすいません! 大丈夫かい、なーんてな」「有り得ないとよくわかっているようで何よりだ」「そんな宵風くん気持ち悪いです」「オレもそう思う」窓を開けると髪が風にさらわれた。景色が遠くへ過ぎ去っていく。起きたら彼はいなかった。夕飯は綺麗さっぱりなくなっていた。元気はなくても食べ物は食べられるらしい。よくないけれど、いいことだ。食べなければ本当に死んでしまう。
「前の話だけど」さき、と急に言われてわたしはすっかり忘れていた仕事のことを思い出す。「はい」先輩はこれでも一応すごい人なのだ。今は宵風くんに翻弄されてへたれているけれども。
「凍らせればいいんじゃねえの」「はあ?」
なにを言い出した。凍死ですか。凍らせて殺す気ですか。意味不明です。
「はあっておまえが言ったんだろうが」「そんな伏線なかったですよ! 凍死とかありえません!」「ちげえ」仕事の話ではないらしい。すると、宵風くん?
「おまえがあいつを水みたいって言ったんだろ」
みず、水。そうだ、確かに言った。水みたいで、つかめない。
「凍らせりゃいい。そうすれば、掴める」
隣の車を運転している先輩の横顔を盗み見ると、まじめとも無表情ともつかない顔だ。この男は、こうして思い出したようにくさいことを言う。嫌いではない。
「はは、それは、いいですねえ」「だろ」いたずらっぽく笑って、ちょっとだけ見交わす。一緒にいる時間の長さはまったく違うけれど、宵風くんに関してわたしたちはおよそ同じだ。きっと、宵風くんと一定以上関わった人はだれでもこんな気持ちになるに違いない。少しでも彼を好きになってしまえば、こんな思いをさせられる。大人になれたら、きっと周りも見えたのに。優しさも好意も素直に受け取れるようになれただろうに。
「冷凍庫って、どこにありますか」「台所」「知ってます」
もう、彼のことを考えていたくない。救えたら。そんなことは出来るはずがないし、本気であるならば命さえ投げうつ覚悟で彼を救うべく行動しているはずだとわかってはいるのだけれど、わたしにはそれができない。それでもそう、思わずにはいられないのだ。わたしに彼が救えたら。
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追憶の苑
企画参加(タイトル同題)「
隠の世に集え!」
(08/07/20)