我ながらなかなかに能天気な人生を送ってきたものだ。鍛練や勉強はつらかったけれど、それは隠の世で生きるならば避けては通れない道だ。誰だって経験している。わたしが隠の世で生きていくことはあの父と母から生まれたときには決まっていたことで、こんなことを言えばわたしの立場が危うくなるとわかっているから口にはしないけれど、首領のことは尊敬もなにもしていない。生まれついた国の王に従っているだけだ。ただ、成長の過程で様々な知識を付けるにつれて首領への不信感をいたずらに募らせてしまったことはいいことでなかった。断定するならば悪い。ものすごく悪い。父が灰狼衆である以上、そう易々と他の衆に鞍替えすることはできないだろう。誰にも話していないから実際のところどうなのかはわからないが、いざ相談してみたら「衆を抜けるくらいならばここで死ね」などと言われてはたまったものじゃない。何人がかりかで追われでもすれば、わたしなんてすぐに殺される。銃で一発、ずがん、だ。ああ恐ろしい。
しかし首領を慕っていない以上、彼の野望の実現にあれこれと手を貸すのも乗り気でないわけで、勢い余って上層部へ食い込んで忠誠心のなさを感づかれたり知りたくもない内部事情を知ってしまうのもよろしくない。わたしは飽くまで下っ端に甘んじることにした。そうしていれば、うっかり重要なことを知ってしまうことはないので身に危険が及ぶこともないし、難しい任務も来ない。のうのうと生きていられる。しかしそうもいかないことに気が付いた。下っ端は一体全体なにゆえに下っ端であるのか。簡単な話、使えないからだ。頭もそうよくない、身体能力がたいしてない、術が弱い、それらが下っ端の下っ端たる所以なのである。そして大概の人間がそれに当てはまる。たくさんいるってことだ。つまりは替えがきく。下っ端はティッシュや割り箸と同じなのである。おかげでわたしは死にかけた。人生で最も大きな誤算だ。考えればわかるはずのことだった。思慮が足りなかったのだ。そのときに愛する雪見せんぱーい(当時は宵風くんにも感化されていなかったのでなんか若かったしギラギラしてた。冷たかったし怖かった)と出会えたわけだからまあ悪くもないのだけれど、良くもないけれど、とにかくわたしはそのとき初めて生命の危機、生存の窮地に立たされてしまったのである。下っ端って、ろくなことがないね。それを学習できたのはよいことだ。わたしは幼少時にある程度で放り投げていた鍛練と隠の世や術についての勉強に打ち込んだ。その頃丁度、表の世では高校三年生であったから受験勉強にも打ち込んだ。電子の研究がしたかったのだが国内で設備の整っている大学は限られていた。表の話は置いておいて、無事大学にも受かりわたしはめきめき昇進した。今まで手抜いていただろ、と雪見先輩は苦い顔をした。いつか先輩も抜かしてやりますよ、などと笑いながらわたしは表の世では加速させた電子同士を衝突させてみたり適当に人間関係を築いたりして、裏では人を殺し鍛練と勉強を重ねて昇進昇進、時折減給を挟みつつも昇進と若いながらもエリートコースをのんびり通ってきたわけである。減給は若気の至りだ。わたしの人生は一度捨て駒として使われたこと以外すべて順風満帆であった。ついでに捨て駒として使われたことからいよいよ首領のことは嫌いだった。首領はわたしが死ぬような作戦を立てた。わたしは彼に一度殺されたも同然なのだ。君の力は評価するよと首領がわたしに笑って口では有難う御座いますと丁寧に返しても腹の底では気に食わなかった。彼はわたしを裏切った。いつか寝首を掻いてやるわくらいには考えていた。勿論実際にそんなことをするつもりはない。彼は虎で、わたしは狐だ。狩れるだけ彼の威を狩ってやる魂胆である。
わたしを含めた隠の世が急激に変わっていったのは言うまでもなく、森羅万象の出現がきっかけである。できればわたしの生きている間には出てきて欲しくなかった、などと素晴らしく不謹慎なことを考えながらわたしは変わらず首領の命に従って任務をこなし立ちはだかる人を殺した。森羅万象の出現を知る前か後か、弟のように可愛がっていた雷光くんに付いたらしい金魚の糞について人から聞いたのでわざわざ見物に出向いた。釣り目の彼はわたしと雷光くんの仲の宜しいのが気に食わなかったのか、なにかにと騒ぎたてた。こどもはあまり好きじゃない。きちんとわたしのこともデータとして知っていたから、金魚の糞と言うには彼は些か有能すぎるだろう。俄雨くんはわたしに「信念がない」と言った。やめなさいと雷光くんが乱暴に嗜めても聞かなかった。彼もなかなかに強情な子だ。そしてまたしてもわたしが気後れするようなほど凄惨な過去の持ち主だった。気後れした。畳み掛けるように発せられた言葉のすべては記憶していない。そんなものは書類上の経歴から推測した彼の妄想に過ぎない。わたしが本当に心から首領を崇拝している可能性だって十二分に有り得たのだ。妄想を断定として口にすることほど愚かなことはない。そう知っていたけれどわたしはなにも言えなかった。わたしに信念がないのも、いざ本当に命の危機に陥ったらすべて投げて逃げ出すであろうことも確かだった。見抜かれた、と思った。わたしは彼が苦手だ。
宵風くんが雪見先輩の元に置かれたのも同じ頃だった。そのときはまだ小さかったらしい。わたしが彼を見たのは今の身長になってからだから、是非ともその小さい姿も見たかった。きっと今と同じく無愛想で可愛らしかったのだろう。見たかった。雪見先輩は目に見えて甘くなっていった。それはそれで十分に可愛かったしわたしは前の先輩よりも今の先輩のほうがずっと好きだ。むしろ前の先輩は嫌いだ。先輩はずっとわたしを「こいつはすぐに死ぬだろう」といった目で見ていたけれど、いつの間にかそれはなくなった。わたしが昇進していったことも理由にあるだろうけれど、明らかにそれだけではない。柔らかくなった。冷たい人は取っ付きにくくて好きじゃない。宵風くんくらい徹底しているなら別だ。先輩が自分でも気の付けない内にどんどん甘くなってゆくのをわたしはにやにやしながら傍観した。良い傾向だと思っていた。なにかの折に一季さんが「隠の世に表のような甘ったるさを求めたらあきませんよ」と言った。宵風くんは最初よりも話すようになったし先輩は優しくなった。それのどこがいけないのだ。彼女の言葉を脳の裏で噛み締めながら、わたしは雪見先輩の変わってゆくのを見ていた。尤もそう頻繁に会っていたわけでもないのだが。多くて週一、少なくて月一だ。とは言うものの他の人に比べれば十分すぎるほどに多い。夏の初めには一緒に食事もした。デートってやつだ。人って変わるものですねえ、となにげなく言ったら少しいやな顔をしてから「そりゃ会ってもう長いしな」と返された。そういう長いスパンでの話ではないのだけれど、あれは多分なんとなくの自覚があってはぐらかした。そのあとのことは皆の知る通りだ。壬晴くんの出現により宵風くんまでも甘くなり始めて、先輩の甘化にも拍車がかかりいよいよすべては誰にも止められなくなった。時間の流れは誰の手でも止められない。首領にさえも。人生の砂時計は大きすぎて、砂の量の減っているのは肉眼で遠くから見ているだけじゃわからない。宵風くんの衰弱していく様は彼を囲む人々にとっての時計だった。宵風くんの砂は目に見えて減っていく。誰も彼に砂を注ぎ足してやることはできなかった。森羅万象になら、できるのかもしれない。できるのだろう。壬晴くんが望むのなら。結局のところ森羅万象が「なに」であり、どんなことができるのか、わたしはよくわかっていない。
先輩の部屋の俄雨くんがしたらしい片付けの片付けに付き合わされた。妙な響きだが、概して人にされた片付けとは不便なものだ。再び散らかってしまわない程度に物をわかる位置に戻していく。仕事で近くに来ているなんて教えなければ良かった。なんだ、誕生会って。今日日小学生だってしない。
「夜中に悪いな、明日から忙しくなりそうだから」
「別にいいんですけど。任務はもう終わりましたし。
でも片付けを手伝わせるなら会にも呼ぶのが礼儀です。ふつう」
「悪い悪い。任務中かと思って」
先輩は俄雨くんによって剥がされたメモを元の位置へ貼り直していた。ついでに不要なものを捨てていく。机の脇の小さなゴミ箱は付箋とメモ用紙で埋まった。几帳面なのだか不精なのだかわからない。部屋には幾つか人の気配が残っていた。座布団を重ねながらこんなものは茶番だと呟いた。そう言い聞かせて思い込まなければいけなかった。人を信じるな、頭のどこかで疑え、昔の先輩がよくわたしに言ったことだ。人の醜い部分や汚らしい、よくない部分は知っている。人を疑ってもいる。わたしは人をそう簡単に信じたりはしない。しかし、根底では信じていた。それを先輩は見抜いていた。他の人は、逆だった。人を信じたような顔をするけれど、根底では誰も信じていない。それでも信じたいと苦しんでいた。そうして雷光くんが見つけたのは俄雨くんで、宵風くんが見つけたのは壬晴くんだ。「宵風くんは、壬晴くんとどこかに行っちゃったんですか」ふと思い出したので訊いてみた。「おまえはいっつも宵風宵風だな」呆れた顔で溜息を吐いた先輩が、冷蔵庫からケーキを取り出してテーブルの上に置いた。綺麗にデコレーションされたショートケーキだ。元は丸かったのだろうけれど、切り口は綺麗で初めからこの形で売られていたもののようだった。俄雨くんのA型っぷりはすばらしい。「宵風は雷光たちと雲平帷の捜索、壬晴は首領んとこだ」そうですか、と答えもそこそこにフォークを突き刺す。本当は二人の行方を知っていた。どうやら、まだ、先輩は二人のことを知らないらしい。今日はそれを確認したかった。そうでもなきゃホテルで寝ようとしていたところに連絡が来てわざわざ行くはずがない。いや、行ったかもしれない。内外でのあれこれへの思案も他所に口は「洗いものをする前に出してくださいよ」などと憎まれ口を叩く。先輩と向かい合ってテーブルに座った。テレビのニュースでは丁度首領の参院選出馬の噂についての報道がされていた。殺人事件に比べれば短いニュースである。真っ白なクリームをフォークで掬って口へ運んだ。俄雨くんのケーキはクリームが甘さ控えめで美味しい。相変わらず彼は苦手だったけれど、それを除けば好きだった。ニュースが天気予報になってアナウンサーが今夜は雨だと話すと、先輩は無言で窓の外を見た。宵風くんたちのことを心配しているのだろう。いつから、彼らの保護者になったんだあなたは。そうだ、先輩がわたしに人を疑えと教授しなくなったのも、宵風くんが現れてからだ。
「宵風に連絡がつかねえ。壬晴もだ」
「連絡って、手段はあるんですか」
「携帯を持たせた」
「太っ腹ですねえ」
「ちゃかすな」
わずかに苛立った声をだす。なにを焦っているのだ。
いい感じはしなかった。この頃の空気はすべて不穏だった。俄雨くんが目覚めて雷光くんは復活、消えた雲平帷、首領に歯向かって消えた二人、不明瞭な先輩。どこにとってもどこから見ても、カードの並びはよろしくない。不穏だ。
「ケーキ、食ったら帰れ」
「泊まっちゃだめなんですか」
「宵風なら多分、帰ってこねえよ」
「前にそう言って帰ってきたじゃないですか」
「……」
「あの、朝にお皿が割れてた、」「ああ」
んなこともあったなあ、と先輩は笑った。近頃の先輩は宵風くんにまつわることのすべてがメランコリックなスイッチを弾く。宵風くんに会いたいから泊まりたいというわけではない。そこのところは先輩だって少しはわかっているはずだ。それで帰れと言うのだから、大人しくそうするべきなのだろう。「せんぱい」二人が消えたことを、話すべきなのだろうか。それを聞いたら、この人はどうするのか。じつと向かいの先輩を見る。この人がわたしの思っていた以上に二人を気にかけていたなら、何故そのことを教えずに、こんなのんびりしているのだとなじられるかもしれない。それはいやだ。或いはそんな不条理なことはないにしても、よくない結果を招くことになるかもしれない。なに、首領は二人を捕らえるとしても殺しはしないだろう。宵風くんは危ういが、わざわざここで手を下さなくとも彼の先が短いことは首領だって十分わかっていることだ。目を合わせて、先輩はだんまりのわたしに首を傾げた。普段あまり人と目を合わせることはない。ふと先輩は視線を逸らして、きまりが悪そうに頭を掻いた。
「あれだ、おまえ。しばらくここには来ねえほうがいい」
「なんでです」
どん、とフォークを持ったままテーブルを叩いた。先輩は目を逸らしたままだ。先輩の横に立って、襟ぐりを掴んだ。わたし自身本気ではないし、先輩は背も体重もあるのでびくともしない。「いったい、なにを、する、つもり、なんですか」「なにもしねえよ」ぱしんと払う手がわたしの腕をたたいた。それくらいでは離さない。先輩が目を上げて、わたしを見た。先刻よりも眉間に皺が寄っている。襟を掴む腕を捕まれて少し怯む。先に言っておくけれどけして捕まれたことに怯んだのではない。存外子供体温であったことに驚いただけだ。ふとその体温が離れて腕が延びてきたので今度こそ本当にわたしはたじろいだ。逃げたくても襟を掴んでいるから離れられない。なんて諸刃。忍としては実に間の抜けた対処だと頭の隅で思いつつわたしはきつく目を瞑った。いつものように、先輩がわたしに手をかけるはずがないと信じきっていた。そもそもそんなことは有り得ないと思われていたので頭の中には存在しなかった。甘い、わたしは甘いのだ。しかし昔の先輩であればそんな風には思わなかった。変わった彼だから信じられるのだ。忍としてはよくないことだ、でも人間としては、悪くない。わたしの期待を裏切らずに、先輩の手はわたしの髪を撫でた。大きな手だ。それだけで無性に恥ずかしくて、わたしはひどく赤面した。前髪で隠すように俯いたけれど立っているわたしの前で先輩は座っているから意味がない。指先が髪から頬へ滑った。わたしの顔を見て眉間の皺の消えた先輩が小さく笑う。なんだか悔しい気もした。こんなに、人間らしくなってしまって。襟を握る手が震えている。
「宵風の過去を調べている」
ひやりと、身体の芯が冷えた。何故そんなことを口にするのか。それもわたしに。屈託なく笑って、いたずらに頬を撫でていた指がわたしの頬を掴んで引いた。いたい。倒れた先はもちろん先輩の胸の中だ。不可解はたくさんある。先輩は宵風くんの過去を調べるべきではない。ないけれど、一体なにがだめなのか、なぜだめなのか。わからないけれど、首領には都合の悪いことだ。「人を疑えとわたしに言ったのは、先輩ですよ」「そうだなあ」わたしの腰に腕をまわしながら、先輩は森羅万象の諸々大変なことなんてなにもないかのような能天気な声を上げた。「そう言われるのは、疑ってないからだ。だろ」たしかに、違ってはいない。なるほど、それならば雪見先輩にとってのわたしが、雷光くんにとっての俄雨くんや、宵風くんにとっての壬晴くんのようになれたらいい。人の力は弱いから、わたしに宵風くんは救えない。では先輩ならどうか。やはり、救うことは難しい。それでも助けくらいにはなるはずだ。わたしは落ち着きなく先輩の足の上で身じろぎした。純情なんて成長過程のどこかで落としてきたつもりだった。わたしは人を疑えない、忍としては甘ちゃんであるけれど、隠の世に恋愛のような概念は相応しくないし面倒事の要因になることが多いとわかっていた。だから捨てた。不思議とその気にならなければ恋なんてしなくても生きられた。宵風くんや雷光くんを格好いい可愛いと見ていれば恋愛の欲求は手軽に解消できる。向こうだって応えないからどれだけ好こうとわたしの勝手だ。先輩は、完全に盲点だった。服越しに手のひらの熱が伝わってくるだけでどきどきした。息が苦しい。先輩のもう片方の手はわたしの後頭部を撫で指先は髪を絡めて梳いた。可愛げなくきまりの悪い顔をしていると自分でわかった。あまりに続く沈黙が苦痛で、野暮と知って口を開いた。善くない感じがするのは今に始まったことじゃない。しかし口にすべき言葉を見つけるより先にわたしは己の唇が乾いていたことを知らされる。キスされたことに驚いたんじゃない、先輩の全身子供体温っぷりに夏は鬱陶しいだろうと先を見越して嫌になっただけだ。そう言い訳したかったけれど、残念なことに先輩の唇は冷たかった。相対的な話だ。
離して欲しくもないくせに肩を押すけれど先輩の指が髪に絡まっているのがわかったので強い抵抗もできなかった。優しさは身勝手で、人はそれぞれ自分のことしか考えていないものだから先輩が唇を離さなかったのはわたしが強がっているだけと知っていたからか自分が離したくなかったからかはわたしの知るところではない。唇が一瞬解放されここぞとばかりに空気を求めるとすぐにまた塞がれた。考えると頭は状況を言葉にして説明してしまうので考えるな考えるなと繰り返すけれど思考はそうそう止まらない。先輩の慣れた風な舌の動きに憤った。歯列をなぞられて背筋に寒気のようなものが走る。頭があつくて痛い。
やっと解放されるとわたしは出来る限りの恨めしい顔で先輩を見上げた。「……軟派すぎです」はは、と先輩がわたしの頭をくしゃりと撫でる。大きな手が頬を覆って、指先は耳で遊んでいる。所在なく漂った視線がでも、と先輩の声で元の位置に戻された。「でも」再び近づいてきた顔に思わず、ぎゅ、と目を瞑ってしまう。
「嫌じゃねえだろ」
反則だ。その声音、体温。ぞわりと身体がふるえ、ううと先輩の肩に顔を埋めた。はんそくだ。
わたしは暢気すぎたのだと思う。なにも考えていなかったのかもしれない。でも、あのときは先輩だってなにも考えていなかったのじゃなかろうか。宵風くんがもうすぐ死んでしまうどうとか森羅万象ほにゃららなんて、忘れていたのじゃなかろうか。少なくともわたしはそうだった。目の前のこと、イコール先輩のことしか頭にありませんでした眼中にもありませんでした世界のほかのすべてのことを忘れていました悪いですか良くはないですよねそれはわかっていますああ恥ずかしい。しばらくは顔も合わせられないかもしれない。溜息を吐くと携帯が震えた。己の溜息の桃色ぷりに青い溜息を吐きながら通話ボタンを押す。電話口の空気から相手はすぐにわかった。「せっつくようで悪いんやけど、」おしごとの催促か。息を吐く。白い蒸気が立ち上った。もうそんな季節になったのか。
「ちゃんとやっていますよ」「余裕ができ次第もう一人くらい送りますわ」「今は忙しいし人手もぎりぎりでしょう。わたしとしても気楽でいいですし、一人で構いませんよ」「そう遠慮せんでも」「遠慮なんて」「そういえば今はどこにおられるんです」「ああ、今は、まだホテルです」「あらそう」「ところで雲平帷についてなんですけど」「ええ」「見つかりそうですか」一人のほうが気楽だというのも、今現在ホテルにいるというのも本当のことだった。「手がかりは得たようですわ」「雪見さんが?」「彼はよう働いてくれはります」「へー……」それから少々他愛無い話をして、電話は切れた。前に講演会で行ったところのお菓子が美味しかったので家の住所に送っておくとまで言われた。どこかに違和感があった。
先輩は、宵風くんの過去を調べていると言った。宵風くんが灰狼衆に拾われた時期に首領が行った先を訪ねているとも言っていた。そんなことをしているときに、雲平帷についての情報を得ることなんてできるだろうか。言っちゃ悪いが、先輩は運が悪い。偶然立ち寄った萬天で偶然雲平帷に関する重大情報をゲット! なんて展開は、ない。絶対ない。どうにも根拠のない理屈だけれど、不思議とすんなり信じられた。生まれついた星というのはなかなか大きい。運命とでも言うべきか。
雲平帷捜索は、現在分刀の二人と宵風くんが行っているはずだ。宵風くんは壬晴くんと脱走したそうだから、現在ちゃんと動いているのは二人だけか。しかし森羅万象が灰狼衆の手を離れたというこの状況で、二人が大人しく雲平帷捜索を進めているとも考えにくい。逃げた二人の追跡に頼まれる可能性もある。しかしそれでも二人が雲平帷についての情報を得る可能性が先輩よか大きいのは確かだ。それで二人が情報を得たのだとしたら、わざわざ先輩の功績だと嘘を吐く意味がない。そもそも雲平帷についての情報なんて得ていないんじゃ? それも有り得る。先輩が働いているのだとわたしに思わせたかった? 有り得る。そうだとすると、現実はその逆。彼は恐らく雲平帷捜索から離れている、それだけではない可能性すらある。はと立ち上がると膝の上に乗せていた旅行鞄が落ち畳んでいた服がぐしゃぐしゃに散らばった。ホテルの重いドアを開けエレベーターが来るのも待てずに階段を駆け下りた。一階の自動ドアに額をぶつけかけて外へ出ると、空は暗く雨が降っている。右を見て左を見て、わたしはなにをしているのか一瞬わからなくなった。しかしすぐに走り始める。わたしと先輩にさして関わりがないだろうと踏んだのが一季さんのミスだ。
ぼたぼたと垂れた水が白いコンクリートに黒い模様を作った。ペースを考えなかったせいで息が上がっている。手すりにもたれかかってだらだらとマンションの階段をあがった。なにをしているんだ、わたしは。ずるずると進んで、鉄の扉を数える。いちまいにまい、それで頭をがんと打ち付けた。ごんと鈍い音が廊下に反響したけれど雨の音に掻き消される。髪の生え際あたりが痛い。
額を扉につけたまま、取っ手を捻る。いつもなら重いながら滑らかに開く扉が動かない。引けばがちりと数ミリだけで阻まれる。がん、と軽く左こぶしで叩いてみるけれど、思った以上に気のない音がでた。あたりまえだ、いるわけがない。今ごろ、変わらず宵風くんの過去を調べて奔走しているか、あるいは。あるいはわたしには想像の及ばない状況になっている。みたいだ。
宵風くんと壬晴くんは灰狼衆を裏切った。先輩は、それを知ったかもしれない。それを知ったら、どうするだろう。わたしは先輩に宵風くんのことを伝えなかった。そうすることで先輩が起こす行動の、最悪のシナリオを予想していたからだ。
「先輩のばかやろう」
がん、と拳を扉に打ち付けた。冷たい鉄に額を預けて何度もがちゃがちゃ扉を引いたり取っ手を上げたり下げたりする。インターフォンは無人の部屋につめたく響いただけだった。そうわかってしつこく何度も押してやる。空しくなってやめた。なにとなく、裏切られた気分になったことは先輩には絶対の秘密だ。今までわたしを裏切ったのは首領だけだったのに。
(08/11/02)