生まれたときから忍だった。そうする道しか知らなかったし、少なくともわたしにそれ以外の道は存在しなかった。忍になることを嬉しいと思ったことがないように悲しいと思ったこともないし、固定された未来を喜ぶことも嘆くこともなかった。十六年しか生きていないので、この先悲しむことに、或いは嘆くことになるのかどうかはまだわからない。先のことはわからない。わたしは明日明後日にでも死んでしまう可能性を常に持っているからだ。
両親を始めわたしの周りには多くの隠の住人、忍がいた。当然ながらほぼ全員がわたしよりもずっと年上だ。舐められているし、侮られてもいる。わたしを唯一舐めも侮りもしないのは首領だった。首領の思想はわたしの理解の範疇を超えているし、反抗期の盛りであるので両親が敬愛している人間を手放しで良く思うことはとてもじゃないができなかった。しかし首領が多くの人間を魅了していることや、そうさせるものを持っていることは子供ながらに感ぜられた。それでも好きになれることはなかったし、これからもないと思う。中三のとき、社会の時間に世界大戦のビデオを見た。民衆に熱弁を振るうヒットラーの姿は自然と首領と重なった。あのときナチスドイツでヒットラーの言葉に胸躍らせた若者と、首領の思想を支持しその命ずるままに人を殺す灰狼衆のひとびとの間にそう違いはないのだろう。彼らの見ているものは等しく正しい未来だ。正しい世界だ。気分としては、一人暮らしをしているアパートの住人がわたし以外全員新興宗教にはまってしまったといった風か。彼らが間違っているとも自分が間違っているとも思わないけれど、どうにも疎外感はある。わたしはきっと首領の言葉に心動かされることはないだろうなあ、と些か悲しく思う反面、いつか首領の言葉に感銘を受けるのかもしれないと思うと、自分という人間すら予想もつけられず恐ろしい。また首領がいつか追い詰められ、自ら死を選ぶ様を考えてもどうしようもなくやり切れない気持ちになる。毎年お年玉もくれた首領はわたしにとって親戚のおじさんにも等しい。好きではないが、親しんでいるし嫌いにもなれない。とは言ってもまあ、彼は怖いくらいにしたたかなのでそうそう自殺はないだろう。そのあたりは、妄想だ。
「いて」
「どうしたの?」
「いやごめん間違えた。なんでもない」反射的に言ってしまっただけだった。冷たい水滴のあたった鼻の頭をこする。任務前に支給された靴はぺたぺたと床を叩いた。ビニール系の材質がぴたりと足に纏わりつく感覚はどうにも新しすぎて慣れず気持ち悪いけれども、普通の靴では濡れたときに困るし少々不恰好でも文句は言えまい。どうせ人に見られることはない。
わたしとりっちゃんは狭い下水道を歩いていた。幅も高さも二メートルほどである。女子中高生に下水道を歩かせる首領は頭がおかしいと素直に思うけれど、軽くとも任務を任せて貰えることは嬉しい。このあたりわたしも相当洗脳されていると思う。
りっちゃんは両親の友人の子で、わたしより二つ年下だ。それこそ生まれたときから知っている。妹みたいに。そこまで仲がいいわけでもないけど。りっちゃんの両親にどうしても同時に仕事が入ってしまって長く家を空けるなんてときに、りっちゃんはわたしの家に預けられ一緒にいさせられた。逆も然り。本人たちが死ぬほど仲よしというわけではないのだけど、都合として切れない仲というわけだ。悪いわけでもないんだけど。
彼女は今日が初めての任務で、少々興奮している。十四の彼女にはまだ早いんじゃないかとも思ったが、そう言ったらわたしは十二から軽い任務をしていたのでどうとも言えなかった。なんとなく彼女は幼いところがあるのでそう思わせられるのだ。最近忍の低年齢化が進んでいる、ような気はしなくもない。どうだか。任務の打ち合わせでちらーと見た実地遂行の人がすげえ若くてびびった。二十歳らしい。打ち合わせのあと帰ってお母さんにそのことを話したら、彼はお父さんよりも偉いんだそうだ。すげえ。お父さんよええ。両親はもうすぐ四十になる。そろそろ引退しようかと、考えているらしい。歳には勝てない。なんとなく不思議なかんじがした。両親が灰狼衆を抜けてからも、わたしは灰狼衆に属し続けるのか。属す意味は、必要はあるのか。
「ねえ」「なんすか」
「これさあ、わたしたち、いる意味あんのかなあ」
「さあね」
ナイフを出したり引っ込めたりしながら、りっちゃんはつまらなそうにしている。めんどくさいので任務の詳細な内容については省きますが、地上では実地遂行班の人が標的を殺していると思う。要するに地下から逃げるのを防ぐためにここにいる、わけだ。とは言うものの、忍が殺すんだから暗殺だ。逃げる暇なんて与えるわけがない。与えているようじゃモグリだ。へたくそだ。それにどんな切羽詰ったって、地下からは逃げないと思う。そうするくらいなら空からヘリで逃げる。だって汚いし臭い。標的はそれなりの金持ちだ。金持ちが、なにが悲しくてこんなところ通って逃げるだろうか。わたしだって任務でもなきゃ死んでも入りたくない。唯一の救いは生活廃水じゃないということだけだ。生活廃水だったら任務でも死んでもなにがなんでも入らない。まず初めも言ったけど女子中高生に入らせようとしないでほしい。それでついでに、なんといっても狭いのだ。圧迫感がつらい。暗いし。
「でも首領の命令だから頑張らなきゃね!」
「そうだね」
気のない返事をして彼女を見ると、きらきらと目を輝かせているのが空気でわかった。この子も相当きてるなと思う。そりゃそうだ、両親が首領信者で小さなときからそれを一身に浴びているわけだから、首領信仰のサラブレッドだ。わたしだってサラブレッドであるはずなのだけど。なんとなく、胡散臭いから。首領の演説に熱があるのはわかる。でも、それってほんとかよ、と、思ってしまう。それは別に、首領にだけではない。
わたしは頭上の扉を眺めた。頑丈に閉じられていて、開きそうな気配はない。やはり、わたしたちの任務は無駄だと思う。まあ、来る危険性があったらわたしとりっちゃんのような子供は回さないわけだけど。現場慣れのためということか。ぱ、と視界に淡い光が灯った。
「あ、あった」「ちょっと」なにか光をつけたらしい。
「ごめーんリップ、が」
こんな状況でばかか、と思うより先に光が消えた。が、の音の息を吐き出す量が不自然に多かった。びちゃ、と水音がしてりっちゃんの身体が崩れ落ちた。ごめん着いて行けてない。とりあえず、わたし、死んだ。かも。お父さんお母さんごめん。
がくがくしているりっちゃんの首根っこを掴んで端に座らせた。パーカーを脱いで投げるように渡す。銃声はなかった。小刀か飛び道具、暗器か。これで止血しろとか消毒しろとか言いたいけれど、わたしの息も乱れて歯も噛み合わなくてなにも言えない。だれかがいる。それだけがわかった。
りっちゃんのだした灯りを向こうは直に見たはずだ。から、目が戻るまで少し時間がかかるはず。人が来ることはないだろうって言ったくせに! しんじらんねー首領のばかうそつき! という言葉が脳を埋め思考を停止させようとするのをなんとか阻んで先手を打つべく取り出した銃を撃った。衝撃が走って腕がびりびり痺れる。ちなみに実戦経験はない。アイハブノーエクスペリエンス。ぜろを持ってるなんて言ってしまうアメリカ人のポジティブさはものすごいと思う。本当に日本人は見習うべきだ。そうすりゃ今だって、平気だわたしはここを切り抜けて生きて帰ると思えるはず。
わたしの弾は当たっていなかった。向こうは一気に間合いを詰めてきたので急いで下がった。りっちゃんが泣いてなにか言っていたけど知らん聞く余裕もない。もう一発。りっちゃんに当たるかもなんて思考もできない。そこまでノーコンではないにしても。
対象は線が細く、背もあまり高くない。歳はわからないが多分男だ。刃物の類を持っている。
下がるだけのつもりだったが半ば普通に逃げている。向こうの足はそんなに速くないが、わたしもそう自慢するほど速くはない。それに背中は向けられない。互いに深さ十センチほど残っている水に足を取られている。走りながら更に数発撃ったけれど、走りながらじゃ上手く狙いも定まらず全て外れた。こんなことならもっと鍛えておけばよかったと、切に後悔した。
どれほど走ったかわからない。男は後ろからばしゃばしゃと着いて来る。わたしもばしゃばしゃ逃げる。逃げるだけじゃなくなんとかしなければならなかった。弾はいつの間にか尽きていた。弾の予備はあったが走りながら変える余裕はない。変えている間に攻撃されては困る。りっちゃんに攻撃してきたとき、男とは三メートルは離れていた。なにか中距離の道具も持っているはずだ。頭の中で下水道の地図を思い返して、最初入ってきた場所に近づいてきたことに気がつく。そこを通り過ぎるわけにはいかない。それより向こうの道はまったくわからないのだ。このままでは埒があかないし、動かないと。わたしは覚悟を決めてナイフを構え振り返った。
が、わたしは己の未熟さを痛感させられて終わった。息が苦しい。がしりと首を捕まれて壁に押し付けられてる。苦しい。「ガキか」乾いた声に老いを感じた。若くはない。
「もう一人もガキだったな。流行ってんのか?」
ううううと息を洩らしながら左手で男の手を首から外そうとするがぴつたりと離れない。「あの子にも向こうで言ってやんな、リップはあの世で塗れって。へへっ」リップについては異論ないが最後の笑いには嫌悪感が駆け巡って、ナイフを握ったままの右腕をがむしゃらに振り回した。全身が痛い。はと一瞬頭の中がさっぱりして正常に作動できたので、迷わず男の背にナイフを突き立てる。男が呻いた。初めて人を刺す感触は言い様なく気持ちが悪い。それにショックを受けていると、不思議な感触が走って右足が濡れた。下水かと思った。激痛が襲ってきてああああと叫びとも溜息とも取れない妙な声をだしてしまう。ちらと見てぞっとした。涙がでる。右の膝上から太股まで、ぱっくりと縦に一直線に裂けていた。傷口が綺麗で逆に血は少ない。光の少ないことに安心した。明るければ肉のピンクまで見えて視覚的に痛すぎてショックで死んだかもしれない。痛みと負傷させられた事実がわたしを止める。わたしに刺された男の怒りが静かに伝わってきて追い詰める。だめだ、だめだ。動かなくては。死にたいのか。びしゃりと水が跳ねた。ナイフは男の背中に刺さったままだ。ナイフを探して右手を彷徨わせる。だめだこれじゃ間に合わない。右足に力が入らない。夢中で左足を蹴り上げた。下腹部に当たる。そこで閃いたのは多分わりとさいていなことだ。でも夢中だった。それしかなかった。とにかく思い切り、わたしは男の急所に向かって蹴りを繰り出したのである。左手が緩んでわたしは解放された。両足に力が入らずばしゃんと水の中に座りこんだ。傷が下水にさらされる。痛すぎる。壁を伝ってよろよろ左足だけで立ち上がった。早く体勢を立て直さないと。ナイフを取り出し男に向けると、男は崩れ落ちた。「え」唖然として、すぐに緊張が走る。男の後ろに、もうひとつ影があったのだ。大きい。百八十くらいか。
ぱ、と灯りをつけられて目が眩んだ。なにも見えないで目をつむる。
「敵はこいつだけか」「……灰狼衆のひと?」「ああ」
ぱちぱちと瞬きを繰り返すけれどよく見えない。聞いたことのある声だから味方であるのは確かで、安心して足の力が抜けた。けどまた水につかると痛いので、なんとか左足だけで立つ。でももう半分座っているみたいだ。ぱしゃぱしゃと男が近づいてくる。「ぱっくりいったな」「ああああやめて」「ま、消毒して縫えば直んじゃねえの。神経やられてなけりゃな。歩けるか」
ようやく見えてきたその人は、地上で標的を殺しているはずの、えーと、件の二十歳にしてお父さんより偉いというにーさんだった。個人的には、苦手そうなタイプだ。暗いんだん。学校にいたら、たくさん友達いそうな顔をしているくせに。怖いし。
この人に支えられて歩くのは嫌だけど、歩けそうにもない。溜息を吐かれていらっとしながらも出された腕に掴まった。なんとなく屈辱だ。
「奥にもう一人いる」
それで、りっちゃんのところまで行くことにした。最初のほうはその人の腕に掴まってずるずる歩いていたのだけど、途中であまりに遅いと痺れを切らされてお姫様抱っこをされた。誰も見ていないとは言え恥ずかしすぎる。やめてほしい。でもそう思うのは理性であって、もっと現実的な話としては有り難かった。なにしろ右足の感覚がない。けんけんの移動にも左足の体力にも限界がある。もっと鍛えておけばよかった。
「先輩、任務は」「んだよ先輩って」無表情でわたしの顔も見ず進む。稀に道がわかれているので、わたしが道を言う。
「名前、知らないんで」「雪見和彦」「ゆきみせんぱい」「……」「次右です。それで任務は」「終わった」
雪見さんにお姫様抱っこをされて、じわじわと身の危険が去ったことを感じて全身の力が抜けてきた。濡れた服越しに触れる手や胸は温かくて安心した。「おい、寝んなよ」「ねません」「おまえが起きてねえと戻れないからな」それは頑張らないとと思う。でも、一回言ったんだから覚えろよ、とも思う。だって分かれ道はふたつしかないのだ。わたしはぼやけた頭で水の足音を聞いた。普通に歩けば、水はそんなに跳ねなかった。とは言ってもかなりの早歩きだ。ぼんやりこの人の心臓の音が聞こえないかと頭を胸にくっつけたけれど、数枚の服とジャケットに隔たれて聞こえないようだった。なにしてんだ恥ずかしいと人事のように思う。
「あれか」心持足が早くなった。壁際におろされる。
「待ってろ」
雪見さんは歩いていって、十メートルほど先でしゃがみこんだ。だらりとしたもの(言うまでもないがりっちゃんだ)に向かっている。右足は痛いが頭も痛い。壁に凭れたままわたしは目をつむった。本当はりっちゃんのところに行きたいが、待ってろと言われなくとも、もう一歩も動けなかった。息をしていることが奇跡のようで、調子が狂う。意識すると呼吸のタイミングがわからなくなった。ぴちゃりと水音がして目を開けると、雪見さんはわたしをまた抱えた。来た方向へまた早足で歩きだす。首を伸ばして雪見さんの後ろを見たけれど、深い闇しか見えなかった。暗闇は沈黙している。
「あの」
「死んでる」
それぎりわたしも雪見さんも黙った。なにしろ自分で確認していないから、本当だとは思えなかった。うそだうそだ。わたしは雪見さん胸に顔を押し付けたままいつのまにか眠った。正確には気を失っていた。次に目を開けたのは病院の上だった。
死んだ、と、思わなかったわけじゃない。死んだかも、と思った。りっちゃんが。葬式には出ていない。入院していたからだ。結局わたしはりっちゃんの死体を見ずに終わった。両親は気を使ってかわたしのせいじゃないと言った。りっちゃんの両親もそう言った。内心どう思っているのかは知らない。彼女が死んだのは自業自得だ。しかし罪悪感はわたしの中を渦巻いた。わたしが死んでもよかったと、思った。生きていても死んでいてもどうでもいいのだ。わたしなんて。そうして任務で死ぬなら両親も諦めるのだろうし。彼女が死ぬより、そのほうがきっとよかった。わたしが死んでもよかった。
そうしたことを、ぐるぐると考えた。四年の間でもう何度も。何度考えたって、出る結論は同じなので意味はない。あれから何十針も縫ったけれど、幸い神経は無事で日常生活に支障はない。任務のほうにも支障がないくらいに回復した。病院には時たまリハビリとして通っている。その他でも、任務で負った怪我でお世話になってる。あそこまで大きな怪我はあれ以来ない。もうごめんだ。
大学生になって、家を出た。わりと北なので、年中寒い。夏が短くて冬が長い。下手をすると、四月まで冬服を着ているのだ。有り得ない。そっちにある病院でリハビリを受ければ良いのだけど、慣れないところに新しく行くのはめんどくさい。頼めばカルテを回したりしてくれるのだろうけど、めんどくさい。リハビリのためだけにこっちへ戻ってくるのは馬鹿らしいので、任務のついでに病院へ行く。とは言え、大学の授業や試験や実験は普通どおりにあるので、任務もその合間を縫ってのことになる。非常にめんどくさいし忙しい。めんどくさいことだらけじゃないか。
帰りの新幹線までまだまだ時間があったので、病院の中庭でぼうっとした。戻ったらまたあっちは寒いんだろうなあと思う。それから実験のことについて考える。新幹線の中でレポートを書かなければ提出に間に合わないので、今のうちに書くことをまとめておこう。隣のベンチに人が来て、がさがさとしだした。横を見ると、ぷしゅと小気味良い音を立てて缶を開けビールを飲みだした。昼間だぞ。それから顔を見たら知っている人だった。雪見さんだ。
「まっぴるまからビールですか」声をかけるとこちらを見た。「わりいかよ」「いえ。先輩が先輩の肝臓をどうしたってわたしは知りませんから」「だろうよ」ごくごくとビールを飲みくだす雪見さんの隣に移動する。隙間は三十センチくらいあけて。四年の間に何度も一緒に任務をしたけれど、やっぱりあまり好きになれない。嫌いにもならない。実際雪見さんとの距離は出会ったときから一歩も変わっていないようだ。わたしは四年で色々変わったり学習したりしているけれど、雪見さんは相変わらず会ったときと同じ無感動な顔だ。それは嘘だと思う。無感動はきっと嘘だ。彼は無感動の仮面を被っている。一緒に仕事をして、その仕事っぷりを見て、そりゃあ無感動にもなるわなと思った。わたしも四年でけっこうつかれた。けっこう殺した。
罪悪感がたまってなにも感じないように考えないようにしようとした。だけど無駄で、逆にわたしは殺した人の顔や名前や声なんかを頑張って覚えようとしてみた。忘れてはいけないような気がしたけれど、ある程度は忘れなければ生きていけなかった。貰った標的の資料を見て、経歴を見て、そのひとを殺すのだと、ちゃんと考えなければならないと思った。でもそんなことをして耐えられる精神も持っていないこともわかっていた。わかっていながらしようとするわたしを見て、最後にコンビを組んでいたちょっと腹立つやろーはばかだばかだと言った。やめろとも言った。そのやろうはわたしと同い年で、わたしもそいつももうけっこう疲れていた。「んなこと続けてたらいつかマジで壊れっぞ」と何度も言われた。それでもいいと思った。そうなれば楽な気もした。結局わたしは楽になれる道を選ぶ。そうは言っても、実際壊れるまでするというのもなかなか至難だった。そうそう人間が壊れてたまるか。少なくともわたしはそれなりにタフだった。そいつは何度ももういやだと言って、何度も衆を抜けようとわたしに言った。しかし結局それを実行する前に次の任務が来て、としている内に、任務で死んだ。銃で撃たれてあっさり死んでしまった。死んでから、わたしは多分こいつがちょっと好きだったなと思った。それでもう恋はやめようと思った。それだけではないけど、それが一番わかりやすいきっかけだ。無理かもしれないけど、やめることにした。とりあえず後輩の雷光くんがとにかく可愛いので、それで埋めた。宗教みたいだ、と自分で思った。利用しているようで雷光くんにはちょっと悪い。変わりにたまに高校の勉強を教えてあげている。彼はサドの気があるらしく、わたしに教えられるのは不服らしい。それがまた可愛い。
「おまえ、会ったときより疲れたな」「そうですか」
そりゃあそうだ、疲れないわけがない。どれだけ人を殺したか。
「先輩は、会ったときからずっと疲れてますね」「……そうか。そうだな」
喉仏が上下する。あのとき、先輩に抱えられたとき、この人は見えるほど冷たい人ではないと思った。本当は優しい人なのではないかとすら思った。現金にも。ちょっと優しくされてすぐそう思うなんて少し即物的すぎないか。でもそう思ってしまったんだから仕方がない。それからの付き合いでも、けして悪い人ではないのだと思った。むしろ元来優しい人なのだろうという印象を与えられた。しかしやはり、距離は変わらず好きにも嫌いにもなれない。本当は四年の地味な付き合いの中でもっと距離を近づけるのが正しかったのだろう、しかし雪見さんはなにものも近づかせず無感動に振舞うし、いつしかわたしも似たような術を身につけていた。そんなわけで、人を近づかせようとしないもの同士では反発しかしないのだった。
「いつか先輩の疲れを取ってくれる人が現れますよ」「そうかい」
ぷしゅ、と二缶目を開けた。おいおい。面倒なのでつっこまない。
「おまえはどうなのよ」「なんですか」「大学だろ。それなりにあんだろ」文脈を取ると、先輩は疲れを取る人をイコール恋人と取っているのかもしれない。まあなんでもいいけど。
「ないですよ。大学とこっちの往復で暇もないし」「大変だなそりゃ。若いのに」「先輩はどうなんですか」「さーね。彼女はいるけど」「恋人いるのにそんな顔してんですか」「ああ、なんか、そっちもビミョーだ。そろそろ無理かも」「大変ですね」
「そういや、今度おまえ、オレか雷光と組まされるぞ。多分」「いやです」「どっちになるかはオレの決めることじゃねえから知らん。拒否はできねえよ」「いやです」「なんでそう我儘……。おまえ雷光好きなんだろ、いいじゃん」「好きじゃないです。好きですけど」「どっちだよ。年下か……まあ雷光は歳の割にゃー落ち着いてるが」「好きじゃないですって。好きですけど」「だからどっちだって」これだからこどもは、みたいな顔で雪見さんはわたしを見る。雪見さんは子供が苦手らしく、それでわたしを子供だと思って腫れ物のように扱う。それは好きじゃない。
「好きだけど、恋愛的な好きではないです」「ふーん」
「わたしはもうだれも好きにならないって決めたんです」
雪見さんの顔は見なかった。なぜってわたしが人にそんなことを言われたら、世迷いごとをと笑い飛ばすだろうからだ。もちろん本人の前じゃないにせよ。実際世迷いごとだと思う。こんなの今自分がそうしたいだけであって、好きになってしまうときにはなるだろう。己のなりたいなりたくないに関わらず。だけど、愛だの恋だの、必要ないと言ってしまえばそれまでだ。しなくても生きてはいける。だからそれでいい。とも、思っている。どうなるかはわからないけれど、そうやって生きていくつもりでいる。今は。雷光くんでもたせている。
「やめとけ。それはつれえ」
茶化されると思っていたので、肩透かしをくらう。真面目に言い返されるとそれはそれで少しいらついた。「好きになったってつらいじゃないですか」「いいこともある」「先輩はそんな顔してるくせに」「オレを手本にすんな」「しませんよ。なりたくない大人ナンバーなんぼかです」「うるせえ」こつんと拳がやわらかく側頭部にあたる。
「諦めるのがらくだとおもって」
「なにを」「ぜんぶ」先輩は口をつぐんだ。なにか言いたげにしているのを視界の隅で見る。
「うまく諦められなくても、たとえばわたしがだれからも好かれなくても、それはわたしはいっぱい人を殺しているからだって、思えば、諦められるでじゃないですか」「人間性の問題だろ」「うっさいです」「それで諦められんのか」
わたしは雪見さんの顔を見た。目が合った。わたしは雪見さんに、なにかが負けていると思った。すべて、わたしの中に存在するすべての絶望を見透かされたような気がした。諦められるはずがない。
「きづきたくないです」「諦めんなよ。若いんだから」「きづきたくない」俯くと髪で視界が隠れた。「泣くなよ」「泣いてません」本当に泣いたと思っているのか、雪見さんがわたしの頭をぽんぽんと撫でた。今度こそなみだがでた。ちょっとだけ。
「諦めないで、どうするんですか」「あー……がんばる?」
「諦めないで、どうやって人を殺すんですか」「……」
答えのない話だった。あって、いいわけがないのだ。殺さなければいいという話なのである。わたしはわたしが殺した人や見殺しにしてしまった人々をわたしの中に積もらせる。増えることはあっても、減ることはない。ひとりだって消えることはないのだ。いつかそれらに押しつぶされて死んでしまえばいいんだ。そうは思う。わたしが死んでいれば。そう、思いはするけれど。思うくせに、死ぬのがこわい。
「考えとく。じゃ」
そう言ってスーパーの袋を持つと、ひらひらと手を振って雪見さんは去って行った。せんぱーい。わたしはちょっとだけわたしの疲れを取ってくれる人が先輩だったらいいのになあ、と考えてやめた。
免罪符を探している