刻々とその瞬間は近づいている。ゆっくりと、でも確かに。
時計の秒針の音を聴いているだけで幸せになれるのだから、わたしはこの世で一番幸せな女なのでしょう。
この嘘みたいな幸せが、どうかいつまでも絶え間なく在り続けますように。
些細なようで、とても難しいお願いをわたしは毎日神にする。今どうしようもなく幸せだからこそ、いつすべて弾けて消えるのか、考えるだけで恐ろしかった。
朝陽が昇る頃、彼は出かける。ネクタイをしっかり締めて、スーツをしっかり着込んで、職場へ出かける。寝ぐせが酷いらしく、なにをしても結局直らなかった黒い髪が四方八方にはねている。だけどそれもいつもの貴方で、寝ぐせと言ってもそんなに変なはね方ではない。黒い髪が朝日を透かして輝く。とてもきれいだ。
わたしは朝がとても弱いから貴方と同じ時間に起きるのはとても辛いのだけど、かと言って貴方の顔も見ずに一日を始めるのはもっと辛いから毎日頑張って早起きをしている。
「行ってらっしゃい」
出かける彼にそう言って、微笑みながら「行ってきます」と応える彼を見送ることでわたしの一日は始まる。貴方はいつも「こんな早起き、いつまで続けられるかな」なんて意地悪に笑うけど、貴方が今の仕事を退職するまでずっとこの時間に起きるつもり。わたしだって頑張るんだから。
わたしは彼が仕事へ行っている間に、家事の凡そをこなす。日によってすることは様々だけど、大抵ほとんど同じような内容の気もする。それでもわたしはとても幸せだったし、全てが希望で満ち溢れていた。この子が生まれれば、もっと幸せになれる。将来のことにまったく不安がないと言ったら嘘だけれど、彼とならなんだって上手くやっていける自信があった。わたしたちはもっと幸せになる。
彼は大きな研究所で働いていた。わたしと彼は高校の同級生で、わたしは高校生活で落ちぶれてしまい三流大学しか行けなかったけれど、彼は一流の理系大学に進学した。その大学の教授に、今の研究所で働くことを進められたらしい。やはり何か大発見や大発明でもしなければ儲かる職業ではないが、生活には困っていない。いざとなったらわたしが働くこともできるし、生活に問題はまったくなかった。全て企業秘密で彼が何の研究をしているのかなどわたしは知らなかったけど、そんなことは特に大きな問題では無かった。
ある日、夜の九時を過ぎても彼が帰ってこなかった。いつもは大抵七時から八時の間に帰ってくるし、遅くなる場合はかならず電話がある。飲みにでも行っているのかとも思ったけれど、夜中の二時を過ぎても帰ってこなかった。
事故にでも巻き込まれたのだろうかと思い翌朝警察に電話して問うてみたけれど、昨夜は研究所や家の近辺や交通機関での事故はなにひとつとしてなかったそうだ。とすると、研究所絡みなのだろうか。翌日の夜になっても何の音沙汰もなかったので、わたしは研究所に電話をして問い質した。しかし「しばらく経てば研究も一段落して帰れるだろう」といった曖昧なことを言うだけで、はっきりとした答えは貰えなかった。その上、心配なので声だけでも聴かせてくれと頼んだが「今はとても忙しいから」と一蹴されてしまった。
酷いと思ったが、社会とはそのようなものなのかもしれない。仕事とはそういうものなんだ。そう自分に言い聞かせて、忘れることはできないが極力心配はせぬようにした。何故って心配しても辛くなるだけだし、わたしは彼の仕事先を信用していた。『彼が信用して勤めているところだから』だなんてとても馬鹿らしい理由だろうけど、それくらいわたしの世界は彼中心に回っていた。それに、居場所がはっきりしているだけで少しは安心することはできた。
しかし、結局二ヶ月が経っても、まったく音沙汰はなかった。
何度も電話をかけたのだが、その都度適当に理由を付けて流された。時間が空いたときにでも彼から折り返し電話をかけるよう頼んでくれないかとも何度も言ったのだけれど、いやいや承諾はしてくれるものの彼からの電話は一度たりとも来なかった。対応の人も次第に「またあなたですか」と面倒くさそうな声になる。わたしだって、好きで何度も電話しているわけじゃない。
ここ数日身体が重い。だるい。息苦しさや吐き気も感じる。この子が出たがっているのだろうか。しかし予定日はまだずっと先だ。今生まれてしまったら、未熟児となってしまう。命も危ない。この子を死なせるわけにはいかない。それも彼の居ぬ間に。猛烈な吐き気に襲われて、口を押さえてその場に座り込んだ。苦しい。いけない。救急車を呼ばなければ。今ここにわたしを助けてくれる人は居ないのだから。
ちゃんとしっかり説明できるだろうか。少し呼吸を落ち着ける。ほんの少し症状が落ち着き、大丈夫かもしれないと思い始めた瞬間、目の前の電話のディスプレイが光った。電話番号が表示される。何度も何度も押した番号。吐き気や具合の悪さも忘れて急いで受話器を取った。
「っはい!」
「すみません。ご主人の研究所の者ですが……」
電話の相手が彼ではなかったことに落胆したが、ようやく連絡が来たことに少し安堵した。しかし電話越しの相手の様子がおかしいことに気がついて、すぐに不安が頭を支配する。言葉が纏まらないらしく、相手はえらくまごついている。早く用件をと催促しようと口を開いた瞬間、相手も口を開いた。
「ええとですね、奥さん。とりあえず、落ち着いてください」
「あなたが落ち着いてください。用件はなんですか。何かあったのですか」
「実はですね、少し大変なことになってしまって……」
どうしたのだろう。まさか彼の身に何かあったのだろうか。
『博士! 間に合いません!!』
電話の向こうではなにか大きな騒ぎが起きているようだ。
間に合わない? 一体何が起こっているのだろうか。
「悪いが今は状況を説明する時間が無い! とにかく逃げろ!!」
「だから何が……」
耳を劈くような音がした。振り返ると窓硝子が粉々に割れている。
窓枠に人が立っている。逆光で顔は見えない。
『……遅かったか』
電話の向こうから声がしたけれど、なにを言ったのかは耳に入らなかった。
「……………………ジャック?」
顔が見えなくても多少の姿かたちなんかが変わっても、わたしは彼を見抜く自信があった。戯言かもしれないけれど、本当に本当に、どうにかなってしまいそうなくらいわたしは彼を愛してた。
「……まいったなあ……」
盛大に溜め息を吐く。規則的に機械音を吐く受話器を片手に、すっかり冷めてしまったコーヒーを飲んだ。上部に無理を言って買わせた高い機材がメチャメチャだ。
すぐ後ろではだいぶ減った部下たちが既に人ではない人たちと赤い液体と散乱した硝子を片付けている。人手も減ってしまった。機材も減った。とても困る。
「“彼”もとても優秀な子だったけどね……」
あの状態となっては、研究員として使うことは出来ないか。実験には使えるけれど、まさか脳が使い物にならなくなるとは。彼を使ったのは大きなミスだった。もっと使えない、頭のわるい研究員を使うべきだったな。
「博士」
「なに」
「死者は二十七人。負傷者は軽傷も含め五十人以上に上ります」
「……そいつは凄いね。まったく、散々暴れてくれて」
もう一度コーヒーをすする。不味い。やはりコーヒーは淹れたてが一番だ。人手はどうにでもなる。それより死を揉み消すのが面倒だ。金と時間と労力がかかるくせに、まったく利益が生まれない。非常に無駄で面倒な行為だ。例えば、そう、掃除と同じ。
「あそこまで動物的になってしまうとは予想外だったよ」
「彼を追わないんのですか」
「追うよ。僕の人生はすべてこの為に使ってきたんだからね」
制御装置を埋め込む必要があった。改良の余地は十分にある。身体的能力を取れば完璧だ。今まで思い描いた、いや、それ以上の出来である。
「彼は……奥さんの下へ向かったのですね」
「ああ。記憶があるのかは分からないけどね。さっき電話をしたけど、窓が割れるような音がして切れた。今頃奥さんは殺されただろうね。ま、科学に犠牲は付き物だよ」
彼に埋め込んだ発信機は一箇所で止まっている。彼の家だ。帰らぬ旦那を待ち続けるなら、こうやって最後に一目変わり果てた彼を見て死ぬ方が楽かもね。なんとなく可笑しくて笑いが込み上げてきた。持ったままだった受話器を置く。
「現代版切り裂きジャック、っていうのも見物じゃない?」
そうやって僕が笑っても、他人に僕の趣味など通じないだろうけど。
「……ジャック、ジャックでしょう?」
駆け寄りたかったけれど腰が抜けて立てなかった。彼は家を出たときのようなスーツ姿ではなかった。奇妙な出で立ちだ。真っ赤な布に黒字で「極」と書かれたTシャツに、裾の破れたズボン。包帯が巻かれている裸の足は、真っ赤だ。頬にも赤いペイントが施されている。何度も何度も見た顔。けれどあの日この家を出たときの面影は殆ど無い。漆黒の髪は光を透かす銀の髪になり、眼は赤く血走っている。優しい微笑を浮かべていた表情は、無表情ながら狂気を放っていた。
ああ、研究所で一体何があったの。
まともな人間なら、硝子を割って窓から部屋に入ったりなんてしない。ここがアパートの三階なら尚更だ。
どうしたの、何があったの、貴方は本当にジャックなの、
もう一度名前を呼ぼうとしたけれど、喉が震えて声が出なかった。
神様、これがわたしたちの幸せの終わりなのでしょうか。
今までは泡沫と消えてしまうのでしょうか。
きっと彼が帰らなくなったあの日が終末の予兆だったのでしょう。
わたしの願いはやはり届かないのですね。
永遠なんて、やはりある筈も無いのだ、と。
頭が割れる。吐き気を催す血の臭い。纏わり付く、赤。全てが消える。世界が歪む。
「彼は記念すべき第一号だね。名前はそのまま、ジャックでいいんじゃない? “ジャック”はこの国で言うところの“名無しの権兵衛”みたいなものだし、ぴったりだ」
硝子の向こうで一人の男が笑う。
胎内のよう な、生暖かい液体の中。ぼんやりと揺れる意識の中に、ずっと俺は居た。過去形。今はもう、冷気に晒される世界へと出ている。いつから俺はあの水の中にいたのだろう。最初から? 出てきた瞬間、吸った空気があまりに肺に冷たくて、死んでしまうかと思った。動いたことなど一度も無いのに全ては脳髄と身体が知っていた。
脊髄が命令する。 “殺せ”。
『誰を?』なんて俺の疑問は無視して身体は動いた。ナイフは血で塗れる、俺の腕がなにかの首をへし折る。ばたばた倒れてゆく人間たちと狂気と叫びと流れる赤。ああ、俺はおかしくなってしまったんだな。冷静に嘆くいつかの俺。皴の無いスーツを着込んだ、黒髪の温和な顔のしがない一研究員。
「素晴らしい。最高だよ!」
高笑いと感嘆の声が聞こえる。きっと水槽の前で話していた奴だ。衝動的に目の前に見えた人間を倒して、俺は建物の窓を突き破って外へと出た。初めて見る太陽は眩しくて、暖かくて、熱かった。
空っぽだった。俺はなんだ。俺は誰だ。
脊髄が命令する。 何も考える必要など無い。目に映る生命全てを途絶えさせればいい。居ても立ってもいられない。黙ってその場に立っていたら、きっと捕まる。もっと狂う。どこへ向かうのかは知らない。何も考えずに走った。
屋根や塀の上を伝って、どこかへ走った。俺はどこへ向かっているのだろう。
その身で研究所を出たときのように窓硝子を割った。身体中が痛いが、もうさして気にならない。目の前に唖然とする一人の女。誰だ? 知らない……
名前を呼ばれた。どうして俺の名を知っている。
「……おかえりなさい」
言って、女は困惑を滲ませながらもにこりと笑った。
「……………………“おかえり”?」
おかしい。俺はここに住んでいた覚えなど無い。俺が住んでいたのはあの狭くて暗い、水槽だ。
なのに、どうして。何故。
少しずつ彼女の下へ近づいた。見知らぬものへの恐怖はあった。
「ジャック」
「…………」
研究所でのような、ふつふつと沸き起こる殺意はなかった。脊髄も命令を止めている。ふと、彼女の腹へと目をやった。細身の身体に不釣合いなそれ。
「覚えている? ここには、あなたとわたしの子どもがいるのよ」
俺の視線に気付いたらしく、彼女は腹を撫でながら言った。
「子ど も…………?」
「そう。わたしたち二人の子よ。あと三月もせずに産まれるの」
俺が見たことのない色をした目を伏せる。それから彼女は俺を見て、再び微笑んだ。研究所での奴らの視線とは圧倒的に、根本的に違う、それ。恐怖にも安堵にも似た感情が背すじを這い上がる。俺に恐怖を持たない。まったく臆さない。なんておそろしい。
「ジャック。研究所で何があったのかは知らないけれど、あなたがあなたである限りわたしたちは上手くやっていけると思うの。覚えていなくてもいいのよ。これから思い出すかもしれないし、思い出せなかったらまた思い出を作ればいい」
「…………」
俺の血塗れの手を彼女が握った。血のようにしつこく纏わり着くようなものとは違ったそれ。動悸が激しくなる。
「また一緒に暮らしましょう」
姿は変わってしまったけれど、人間が根本的に変わることなど無いのだから。彼女は言う。俺、は、
「!」
鈍い痛みが走った。
ああ、まただ。 まず い。
「……ジャック?」
心配そうに彼女が俺を窺う。頭と顔を手で覆う。髪をやみくもに引っ張っても、痛みは全然紛れない。分かっている。所詮は全部夢だ。俺は 誰かと一緒になんていられない。
断片的な記憶の欠片が無言で俺を責め続ける。きっと俺には水槽に入る“前”が沢山あったんだ。知っていた。あいつだ。悲しそうに俺を見つめる皺の無いスーツを着た、黒い髪の温和な顔の男。
「逃、げろ……!」
頭が割れるような痛みと、恐怖。ぞわぞわと身体中を蝕む意識。
駄目だ。殺したくない 壊したくない。 俺、は――
「逃げる? どうし……」
血塗れの腕が彼女の首を絞め上げた。 脊髄が命令する。“ 殺せ ”。
俺は誰も殺したくなんか無いのに。意志に反して手の力は強くなり、ぎりぎりと彼女の細い首が軋む。殺したくないと叫び臆する気持ちと反比例してどんどん胸と頭の中が冷たくなる。
『また一緒に暮らしましょう』 。戸惑った。驚いた。どうして。
昔の俺を俺は知らない。だとしても、俺はこんなになってしまったのに。血に染まったこの手を見ろ。こんな痛みは今まで知らなかったのに。細い息がひゅうと彼女の口から漏れて、彼女は首を絞める俺の腕に力なく触れた。右手を離し腰に付けていたナイフを鞘から抜き取る。左手ひとつでも彼女の首は容易に絞められた。
細くて弱い身体。この中に、俺と彼女の、子が。どんな産声を上げるのだろうか。最初に覚える言葉はなんだろうか。いつ頃立ち、歩き始めるのだろうか。
思考する俺を余所に、脳髄はどんどん冷えていく。常温よりもずっと低く、冷たく。
手にしたナイフが彼女の胸を裂いた。乾きかけていた黒い液体が、また真っ赤な液体となって噴き出して俺を汚す。
「ジャ……」
彼女は口を開いて何か言おうとしたが、ごほりと噎せ返った血で口を塞がれて何も言えなかった。左手を離すと、彼女の身体は床にがくりと倒れた。冷たい頭はそれを当然のことだと言う。俺は人を殺す為だけに作られた、哀れな殺人ロボット。
赤い光が壊れた窓から差し込んだ。ああ、もう夕暮れか。見たことなど無いのに俺は大抵の名前や言葉を知っている。きっと以前の俺は博識だったんだな。それとも、人間はみなこれ程の知識を溜めているものなのだろうか。
消えそうな太陽。オレンジ色に輝いている。似たような景色を見た。あの日、この家で、確かに。
外から喧騒が聞こえた。どうやら研究所からの追っ手が来たらしい。逃げなければ。此処で捕まるわけにはいかない。彼女を一瞥する。まだ辛うじて息があるらしく、呼吸に合わせて胸が上下している。
どの道、そう、長くはないだろう。冷静に俺の脳は分析する。
殺したくなんか無かった。できるのならば、一緒に生きたかった。だけど無理だ。俺は目に映る命すべてを壊してしまう。幸せになんて永久になれない。最後の希望はこの手で消した。じきに消える。
窓枠に手をかけて、下の様子を窺った。どうやら逃げられないほどの人数ではなさそうだ。そのまま窓枠に立って、外を見やる。日が暮れれば逃げやすくなる。問題は血塗れの服や身体か。
もう一度だけ、彼女を見た。俺を愛してくれた人。いや、俺ではなく“以前の俺”か。
さよなら、以前の俺が愛した人。
「………ジャッ、ク……」
驚いて、振り返る。まだ話す余力があったとは。
勿論俺は窓枠の上に立ったままで、駆け寄るなんてことはしない、が。
「行って、らっしゃい」
幸せの終わりの日。最後に彼女に貰った言葉。いってらっしゃい、口の中でくりかえす。朝焼けの中で彼女が言った。今よりずっと小さなお腹で。
「行ってきます」
あの日のように微笑んで、あの日とは変わって夕焼けの中で彼女に言った。
きっとまたいつか会いたい。無理かな。あなたは天国へ行くけれど、俺は地獄へ行ってしまうだろうから。
幸せと平穏を置き去りに、俺は住み慣れた家を後にした。
詩的な30のお題 26.断片的な記憶の欠片が無言で俺を責め続ける
(07/05/27)リメイク
(06/03/22)