わざわざ普通列車でそれも各駅停車に乗ったことに意味はなかった。駅を経る毎に乗客が減っては増えて、減っていく。人生のようだ。僕はなにかの小説で主人公の言っていた「人はなにでも人生に例えたがる」という台詞を思い出して少し恥ずかしくなる。
 学生時代というのは当人の是非を問わず回りに人がいる。友達が少なくとも多くともクラスの人数は滅多なことでは変わらないし、どんなに気配を消したところで学校の人々は僕の存在を知っていた。どんなに必死で気配を消しても、話す人間はいないでもなかった。大人になっても、やはり回りに人はいる。しかし付き合いの総数は減っていく。そしてその悉くが学生時代以上に軽薄で義務的なものだった。僕は機械的な返事を覚えそれに申し訳程度のアレンジを加えて口にする。仕事に関しても、まあ、そんな感じだ。僕に卓越した能力はない。しかしなにに関しても平均的ということは時に平凡な人よりも勝っていることとなる。僕が平凡でないという意ではない。人には突き出た部分があると同時に落ち窪んだ部分もあるということだ。僕にそれがまったくないということでもないが、仕事や事務的な人間関係の上では支障がない、というだけだ。平均的な速度で平均的な仕事をして平均的な付き合いをする。休日はだらだらしているか音楽を聴くか映画を観るか本を読む。素晴らしい社会人の模範だ。素晴らしい。型にでもはめたような「大人」だ。
 幸か不幸か、考え方は数年前とあまり変わっていなかった。当時出会った音楽や映画、小説を見返しても同じように感じたし、好き嫌いもあまり変わらない。強いて言うならば茄子を食べられるようになった。けれど未だに酒を美味しいとは感じられなかった。それはそれで金がかからずに済むのだから悪くない。CDは数千円、文庫本は五百円前後で買えるし映画はセールのときしか借りないのでたったの百円。安い趣味だ。実に安い生活だ。相応であるようにも思う。ここ数年で理解したことと言えばやはり僕は平凡で安い人間であったのだということくらいか。
 文庫本の開いていたページに指を挟んで膝の上に置いた。息を吐いて時計を確認すると、終点に到着するまで優に二時間はあった。もう一冊くらい買ってくればよかったと後悔の念がぼんやりと腹に浮かんだが、音楽プレーヤーの充電は残っているからのんびり好きな音楽を聴いて過ごせばいい。乗客はすっかり減ってこの車両には十人も乗っていなかった。二列ずつのシートであれば食べようと買ってきたとろろ蕎麦の入ったコンビニ袋が電車の揺れる度に寂しげな音を立てた。向かい側に人はいないのだし食べても大丈夫かもしれないとも思ったが、なぜだかそうする気にはなれなかった。夏下がり、穏やかな平日の昼間だ。人もいなくて当然だった。
 入社して数年間、真面目に休まず働いていたわけだが今朝は目が覚めて身体を起こすとなんだか無性に身体が重くて仕方がなかった。原因は病的なものではないのだから実際に身体が重いことはなにもなかったのだけれど、心因的なだるさが身体へと伝わってめざましテレビを視界に入れながら朝食も取らず、出社の準備もせずにぼうとした。占いは最下位だった。黙っていれば朝食が出てくるような気がした。何年前の感覚か。僕は会社に電話をしてわざとらしく咳き込みながら熱が高く動くのがつらいので休みますと伝えた。このところ気温の高低も激しいし季節の変わり目だから疲れがでたのだろうとお決まりのフレーズと共に、安静にするように挨拶されて電話は切れた。迷わず再び布団に潜り込んで惰眠を貪ることとしたが、昔からあまりだらだらと眠り続けることの得意な身体ではなかった。十時も過ぎた頃に目が覚めて、鞄に簡単な荷物を詰めた。お金を下ろして駅へ向かいながら携帯電話で時間を確かめ電車に乗った。普通列車の各駅。こんな突発的に動いたのは随分久しぶりのことかもしれない。我慢していたのでなく、そういった衝動を起こさなかったからだ。つまるところ、これが大人になるということなのかもしれない。
 緑が増えてきたようだ。終点は市街であるから、それに近づけばまた乗客も増えるだろう。この頃は雨が多かったけれど今日はいい日和であった。目を閉じるとイヤフォン越しにも電車の走る音が聞こえた。それに合わせて身体が揺れる。ざ、と辺りが暗くなった。一瞬遅れてごおと電車の走る風の音が響いて苦しくなる。耳を塞いで、唾を飲み込んだ。目を閉じる。





 夏の終わる頃だった。八月だというのに例年に比べて平均気温が数度も低く、人々は阿呆のように異常気象だと騒ぎ立てた。なにかあればすぐにこれだ。中世のほうが現代よりも平均気温が高かったことも知らずに人々は地球温暖化などと宜っているのだろうか。ふざけてる。その日の空は雲と半々と言ったところか、どちらにせよ、定義としては十分晴れと呼べるだろう天候だった。肌寒いが早朝という時間を考えれば普通だろう。薄いタオルケットを剥いで起き上がると隣には彼女が寝ていた。服は着ていたが行為が終わってから着たというだけで、することはしていた。起きたときに二人とも全裸という態は間抜けすぎるし、いわゆるピロートークのようなものも恥ずかしかった。恥ずかしいというより気持ちが悪かった。重くなったゴムを縛って捨ててから彼女に腕枕をしてよかっただの好きだよだとか愛してるだなんて、もう考えるだけで叫びだしたくなる。そうしたわけでセックスをしたあとの僕は平素以上に冷たかった。冷たいというより素っ気がなかった。女の子からすれば僕は恥ずかしくてもそうしてべたべたでれでれとしていたほうが嬉しいし幸せだったのだろうから、彼女に悪いことをしているとは思う。だとしてもそうして甘い言葉を囁いている布団の中では全裸、だなんて間が抜けていて気分が悪い。気持ちが悪い。性欲はあるし彼女とのセックスは確かに僕に充足を感じさせたが、必ず達したあとは自慰と同じ倦怠感やどうしようもない虚無感を覚えたし、そういった行為への嫌悪感も変わらなかった。少なくとも、セックスよりはただ黙って彼女を抱きしめたり触れるだけのキスをしたり、一見恋愛とはなんの関係もなさそうなことについていつも考えていることを話しているほうがずっと高尚で素晴らしいことのように感じた。とにかくセックスが嫌いだった。そのくせしたいときは何度だってした。本能と理性の均整が自分でも取れていなかった。二段ベッドを一段ずつ解体したところに煎餅布団をひいた僕の寝床は固く、柵があるので落ちる心配もないが二人で眠るには狭すぎた。面倒なので親には言っていないが、実のところ身体を真っ直ぐに伸ばして寝転がると足の先が端に付くのだ。
 僕は中途半端に身体を起こしたままぼうとカーテンの向こうを見た。水色のカーテンが薄い光を透かしている。朝は絶望に他ならない。明日を待ち望んだことなど僕は一度としてないのだ。今日も生きて朝日を迎えてしまった、と、習慣的にその文面を頭の中に浮かべてがりがりと頭を掻く。目を下げると、暢気な顔の彼女が寝息をたてていた。既製であるのか手作りなのか、シンプルなデザインのワンピースが捲れてかけ布団からむき出しの足が覗いていた。ぐらりと理性があらぬ方向へ頭をもたげるのを感じたが、頭を振って追いやった。よろしくない。なにか腹が立ったのでぺしんと能天気な頬を軽くはたいた。年を通して暁を覚えない彼女はこのくらいのことでは目覚めない。彼女を跨いでベッドを降りて、部屋を出た。どこか遠くへ行きたかった。





 当時、僕の頭の中には違う人間が住んでいた。名前もないし、顔もなく、身体がないので外見はない。過去も今も未来もない。ただその瞬間に思考を持っているだけのひとだ。そのひとはしばしば、僕の中で勝手気ままに囁いた。そのひとには僕しか話相手がいなかった。「その珈琲を買うな」「うるさい、だまれ、勝手にさせろ」そのひとは僕に話しかけてくるものの身体がないので動けない。しかも話しかけてくると言ったところで実のあることもひとつとして言わないのだ。なにを言われたところで気にはなるものの害もないので真面目にも取り合わず、そのひとは僕の頭の中で飼い殺されていた。尤も、好きで飼っていたわけでもない。奴が勝手に僕の脳に住み着いたのだ。
「あの女はおまえが好きだ」新しいゲームの感想をクラスメイトが僕へ向かって、僕が聞いているのかも確かめずにべらべらと話しているときだった。あの女ってだれだ。と、声には出さずそのひとに伝える気も持たずに思って、適当な返事ををクラスメイトに返す。クラスメイトはCGの幽霊について熱く語っていた。難しい敵の急所について、なにが感動的なのかよくわからないストーリーについてのことも。ゲームになにも興味はなかったが主題歌を歌っているアーティストは好きだった。僕はクラスメイトの話と頭の中の人、二人の話を聞き流して、へえ、と必要最低限の愛想を含む引き攣った笑いを浮かべた。教室の端の女子の一人と目が合った。すぐにどちらともなく逸らした。人と目を合わせるのが嫌いだった。何年も経った今でも好きではない。しかし彼女とは何度でも合わせた。飽かず人体のひとつとは思えない不思議なつやつやとした眼球というものを延々と覗き込んで、ふと見詰め合っているというその状態に気づいたどちらかがどちらともなく笑った。見つめあうことは理由もなく笑いを誘う。目が合ってはふふふと笑った。なにがおかしかったのかはよくわからない。彼女も人と目を合わせることは好きではなかった。そのくせ僕のことは穴が空くほどにじろじろと見た。上から下まで舐めるように見ては気に入った箇所を何度も見て、ここがどうだと感想を述べた。時には散発後の髪を、彼女以外誰も気にしないであろう些細な箇所について何分もああだこうだと言い連ねた。僕がうんざりすると、でも髪は伸びるのだからいいわよね、と自分で言い出したくせに悪びれもせずに言いのけた。僕が爪を切ったあとも同じようなやり取りがなされた。やすりをかけないので切ったばかりの僕の爪はざりざりしている。文句を言ったところで彼女がやすりをかけてくれるわけでもなかった。バカップルのようで嫌だからしなくてよかったけれど。とにかく彼女は、適当で不器用で大雑把なくせに僕についてのことだけはいやに細かかった。それで僕も躍起になって彼女をじろじろと見て観察して気の付いたことを上げ連ねた。しかしとても連ねると言えるほど見つからなかったので彼女の僕に対する観察眼はある種才能と言ってもよかった。一度それで躊躇ったものの考えた末に素直に鼻毛が出ていると伝えたら鼻に拳骨を当てられた挙句逃げられた。あれは間違いなく僕も頭が悪かった。彼女の勉学についての頭はいいか悪いかと言えば悪かった。僕は普通だった。やれば出来るしやらなければやらないだけ赤点も取った。学校で一緒にいることはあまりなかった。主に彼女を僕の家へ呼んで好きなだけ一緒にいた。会話をすることはあまりなく、どちらかが一方的に好きなことや話したいこと身の回りのことを話すかそれぞれしたいことをするか時間も問わず恋人然としたことに励んでいた。若かったのだ。
「きみは」一度だけ、ピロートークのようなものに興じたことがある。「なかなかに、大胆だね」言うまでもなくそれまでの行為のことを指していた。色々な液体でふやけた指がぱちんと僕の頬をはじいた。相槌として、いて、と口から漏らす。行為のあとであるのに僕がなんだか珍しく優しいのに目ざとく気が付いたらしい彼女は、僕の神経を少しでも逆撫でせぬよう気をつけながらいそいそと近づいてきて僕の胸に擦り寄った。僕は半ばぼんやりとしていたのでなにも考えずに腕を回す。宙に浮いた僕の頭はそのひとへ行き当たった。頭の中のそのひとだ。「きみのあんな姿を他のやつには見せたくないな」「見せないよ」失礼ね、咎めるような声が剥き出しの胸に当たって篭った。不服げに尖らせられた口が見える。「見られているかも」「だ、だれに」声に焦りが含まれたことに気がついて、僕は少しだけ頭を起こして彼女を見た。流行の女優ほど長くはないが短くもない睫毛で、石田衣良の小説にでてくる女の子のようにアーモンド形と表せるほど大きくはないけれどけして細くもない目が僕を見ていた。例外なく女の子の上目遣いは可愛い、と誰かが言っていたのを思い出した。女の子に上目遣いで見られたことは彼女以外にはないけれど、僕にとって彼女が可愛いのは確かだった。きっと彼女に見られるのは好きだ。彼女の目がこちらを向いているのが好きだ。ずっと僕を見ていればいい。しかし彼女の目に僕の姿や顔かたちが映ることはどうやっても受け入れられなかった。気持ちが悪かった。ばつが悪くなると彼女の目を覆った。それで全てが許された。ような気がした。しかし堪らずにすぐ手を離してしまうのだ。彼女が僕を見る。僕はその視線に気づいていないふりをして違うところを見た。充足と幸福、どちらが適切な表現であるのか判断し兼ねた。幸福とは認めればいつか失うものだと思っていたし僕に幸福などという言葉は不釣合いだった。認めなくても失うときは失うのだから意地など張らずに認めてしまえばよかったのに。冷静に分析できるようになったのも時が経った証拠だ。
 目を開けると空は水に薄めた黒を一滴混ぜたような色だった。僅かに間隔を開けて人が座っていた。向かいにも人がいた。聞いたことのある駅の名を、車掌が平坦に読み上げる。随分眠っていたようだ。携帯を開くと、痴漢をされたいという旨と、お金なら何百万でも払うという旨と、輪姦の誘いの旨の書かれたダイレクトメールが三件来ていた。本文は開かずに全て消す。メモリの底からもう何年も使っていなかったアドレスを引っ張りだした。今の携帯に変えて二年近く過ぎたが、メールも電話もネットもしないので充電する機会が少なくバッテリーも疲れないから機種変更をするタイミングがない。彼女と付き合っていた頃はばかのようにメールをした。毎日何百件とメールを送って受信した。内容と言う内容はなかった。好きだよと送ると私も好きと返ってきた。バッテリーは半年もすれば一日ももたないほどにへばった。彼女が僕に好き好きと何度も言ったので僕も比較的言いやすかった。実際それほど口にしたかは覚えていないけれど、少なくともメールの中では気軽に言えた。気軽ではいけないとも思ったが嘘でもなかったしなにより僕の口は本体の通り内気だったしそのくせ嘘吐きであったしとにかく信用ならなかった。それはメールであっても同じであったがメールでは本音も口よりは滑らかに出た。その分嘘も滑らかに出た。一度だけ死んでしまえとメールで言った。落ち込んで傷ついてもそれを本音ではないのだと許してくれるだけの気概も彼女にはあった。しかし僕の心無い言葉に傷ついただろうことは確かだった。彼女の優しさに甘んじる気はなかったし僕も彼女も慣れないながら互いの関係に気を使って出来るだけした。それでも訪れることは当然のように訪れたけれど
 久しぶり、とだけ打って止まった画面を見つめて、二駅ほど経てから、帰っているので予定がなければ少し会いたいと送信した。終点が近づき乗客は少しずつ増えていた。一駅故郷へ近づく毎に、いつかの僕に立ち返っていくように感じた。
 やあ、元気か、だれへともなく僕は語りかけた。答えはなかった。そのひとが僕へ語りかけてくることはもう何年も前からなくなっていた。彼女と付き合うようになってそのひとの声を、具体的には喉の少し上の部分を抑えつける術を身につけた僕がそのひとの喉を絶えず潰し、声を遠ざけているうちにそのひとはきれいさっぱり消えてしまった。時折思い出したように現れることもあったが、間隔は徐々に開いてついにはなくなった。このところはその存在すら忘れていた。彼女とのことは日に一度は思い出していた。そうして思い出すときの感情はどうとも名の付けようがなかった。うまく表現できる言葉を持ち合わせていなかった。それを探して僕は小説を読むのかもしれない。
 ついでに家へもメールをした。わざわざ来たのだから一応寄るのが礼儀だろう。明日は土曜であるからできれば泊まって行きたい。夕飯は無理であればどこかで済ますと最後に付け足す。我ながら常識的になったものだと複雑な気持ちになった。これくらいで常識的とはまだまだ子供だと言う意見もあった。真っ暗な携帯のディスプレイが思い出したように点灯して、懐かしいアドレスを表示した。届かないことも可能性のひとつに入れていたので驚きよりも安堵のほうが大きかった。よく大人になる前に死にたいと言っていた彼女が今も無事に生きているのだとわかっただけでも収穫だ。窓の向こうには無表情な海が広がっていた。次の駅が終点だ。





 人はひとりもいなかった。気まぐれなカモメの声もしなかった。まずったな、と舌打ちをする。ティーシャツにジーンズでは肌寒かった。湿気があるだけ少しはましか。黒のオールスターが砂に埋まる。夜中の間に少し雨が降ったのか、湿った砂はすぐに靴を覆った。ジーンズの裾もグラデーションのように白くなる。足を下ろす度に砂が靴を捕まえて、それを振り払うように足を持ち上げて、逃げるように遠くへ置いては捕まえられる。そうしてふらふらと進むと線を越えて砂が茶へと染まっていた。ああ超えてしまったとわけもなく思って顔を上げると朝日はすっかり雲に隠されていた。いささか不穏な影があった。今日はこのまま曇りで、昼には雨が降るかもしれない。それから夏休みの宿題をちっともしていないことを思い出す。彼女と手分けして片付ける案を考えて、彼女にはどれも任せられないことに気がついた。そうしていると、今度は足を水が覆って去ると同時に砂を残した。足が沈んだ。しまった、靴が濡れた。わざとらしく口にして、ぼうとしていると再び波が押し寄せる。靴の中へと砂を運び、水で浸して砂を攫って残してまた足が沈む。ああ。砂浜から海へと戻った波は砂浜へ向かう波にざばんと食われた。そしてまた向かってくる。させてたまるかと向かい来る波の中へ足を入れて、五歩進む。靴が沈んだ。次いで五歩で膝下まで沈んだ。次の二歩で膝が隠れた。足を上げるのがつらくなってきた。次いで三歩で腿まで来た。右手の甲で乱暴に顔を擦ると砂が肌を引っ掻いた。眼鏡のレンズに塩水が残る。顔がひりひりした。大きく息を吸うと湿った冷ややかな空気が肺を満たした。腹が空いていた。空腹は丸く白い穴のようだった。満腹感ともよく似ていた。満たされているのか空虚であるのかわからなかった。垂れた海水を舐めると涙よりもしょっぱかった。暗い灰の雲が太陽を隠していた。「おまえは、死ぬよ」そのひとが言った。「そりゃ、人は死ぬさ」「今だ」遠くで犬の鳴き声がした。対象のいない会話とは面倒だ。
「僕はおまえの言いなりにはならない。僕は知ってる、おまえは僕だ。僕はおまえの暗示にはかからない」「概して人に暗示をかけているのは当人だ」「だとしても、僕はおまえが僕であるなら哀れだとしか思わない。言うことを聞こうなんて少しも」「いらないんだよ、そんなつまらない話は」「おまえは僕の病だ」「悪くない」「違うなら笑えばいい」「正解なんてわからないよ。人間のわからないのはいつだって自分自身だ」「暗示のように」「正しくそう」そのひとは顔も持たないくせにけたけたと笑った。つられるように僕も笑った。暫し笑いあって、同じ頃に飽きてやめた。互いに無表情であった。そのひとに顔はないけれど、そのひとのことは僕には手に取るよりも容易にわかった。そのひとは僕の中にいるのだから当然だ。ばしゃ、と水の跳ねる音がした。
「僕になるか、消えろよ」「なぜ、また」「僕になればいい。今の僕は、きっと悪くない」「悪くない人間がいるとは思えないね」「おまえは僕の猜疑心だ」「悪くない」「良くもないな」「違いない」「消えろよ」「それもいやだな」「あまり頭の中でよくわかりもしないやつに話しかけられるのは、愉快ではない」「交換しようか」「遠慮する」「つまらない」「面白い必要もない」水音が近づいてくる。「よくわからないな」「わからなくていい」「死ぬのは怖い」近づいてくる。「消えろよ」
 背に鈍い衝撃を感じて、よろめいた。足は砂にすっかり埋まっていたけれど上体のバランスが悪かった。前へ押された反動で後ろへ傾いて、持ち直そうと力を入れた結果横へ倒れた。早朝の海は冷たい。心臓が冷えた。空気を求めて開いた咥内に塩水が入り込んで舌を刺激した。口の中が水で満たされると僕は肺呼吸をして生きていてけして鰓呼吸にはなれないことがわかった。海の中は薄暗い。今は早朝の曇りであるのだから尚更だ。緑がかった灰の世界が広がっていた。銀と白のあぶくが大小いくつものぼっていった。伸ばした腕が水を掻いた。死んだことはまだ一度もない。海の冷たさは腹の中の白い空虚によく似ていた。





 落ち着かない視線を彷徨わせていると、ここ暫くの街の変化を丁寧に彼女があげてくれた。駅前に新しくできたショッピングモールのこと、なくなったアーケードのこと、そう目覚しい変化でもないはずなのに妙に落ち着かなかった。彼女を前にしているからか。近況や高校の同級生が今どうしているか、今好きなアーティスト、この前読んだ本や観た映画、話題は尽きなかった。嘗てなく饒舌に会話を交わしたが、不思議と当時付き合っていたことについてはなにも触れなかった。互いに、触れていいものなのかと遠慮と躊躇いがあったのだろう。
 彼女は今は大学に残って古典の研究をしているらしい。タイトルを教えてくれたけれど聞いたことのないものだった。現代国語に比べたら僕は古典がとても苦手だ。何年か前にセンター試験の問題に出ていたと言われたけれど覚えていなかった。僕が大学のときに縁があったのでバンドをしていたと漏らしたら随分と興味を示してきたので、それについて長く話した。実際は思い出したように集まってコピーをして大学内の小さなライブに出るくらいのやる気のないバンドだった。オリジナルを数曲作ったこともあるがどうにも上手くいかなかったので結局ライブでは一度も演奏していない。最後も就職活動の忙しさからの自然消滅だった。そんなたいした思い出もないバンド活動だったけれど、なるべく綺麗なところだけを抜粋して彼女に話した。彼女はどんな僕の過去を想像し描いているのか、笑顔で僕の話を聞いていた。途中話題が切れて、僕がその場凌ぎに変わったね、と言うと彼女はそんなに変わってないよと答えた。僕らは終始笑顔で会話を交わした。変わったというのが街のことであったのか彼女のことであったのか、彼女はどちらとして答えたのかもよくわかなかったけれど、どちらも僕の目には大層変わって見えた。あまり変わっていないようにも見えた。
 あっという間に日が落ちて、彼女に夕飯も誘われたけれど、母からの返信が夕飯を用意しておくという内容だったので遠慮した。なにより夕飯の後のことを考えたくなかった。そんなことを考える僕はきっとくるっているに違いなかった。
 僕のいない間に建ったらしいファッションビルの最上階の喫茶店を出ると、僕らは当てもなく歩いた。駅からはそう離れずに。どことなく足を運べば所在のなさは解消できた。別れるタイミングが掴めない。
 彼女が僕の名前を呼んで、足を止めた。なにか違和を感じた。当時彼女は僕を呼び捨てで呼んでいたような気もする。
「なに」仕事を通して数年で、僕は優しい相槌の打ちかたを覚えたようだ。僕も足を止めて彼女を見る。しばし僕らは見つめあった。彼女は躊躇っているようにもただぼんやりしているだけにも見えた。僕の格好は当時とあまり変わらずパーカーにジーンズ、オールスターという貧相なものだったが目の前の彼女は女子高生ではなく間違いなく大人の女性だった。置いて行かれたと思わないのは並ぶ気持ちがないからだろう。
「わたし、結婚するの」
 上辺でもやせ我慢でもなくおめでとう、と口にしていた。それから家庭的要素のなにもなかった彼女が結婚だなんて大丈夫なのだろうかと思ったが言えば怒られそうなのでやめた。きっと言っても怒りはしなかっただろう。会わなかった何年もの中で彼女が当時持っていなかった家庭的要素を身に着けたのだろうことはまず間違いなかった。僕は同じ歳月の中でなにを身に着けたか。
「おめでとう」
 あまりに感触のない言葉に僕は些か動揺してもう一度同じ言を述べた。「ありがとう」と彼女ははにかむように笑った。彼女の夫となる男への嫉妬は少しもなかった。そのことが少し恐ろしかったけれど数秒経てば落ち着いた。式の日を聞くと丁度上司が新しいプロジェクトを始めると言っていた月であったので恐らく行けないだろう。予定なんて幾らでも取り繕えるが式での彼女を見ずに済んだことに安堵を感じた。見てどろどろとした感情を持つのも嫌だったしなにも思わないのも嫌だった。金を持ってきていないので祝いもできなかった。先に言ってくれれば喫茶店くらい奢ったんだけどと漏らすと気にしなくていいと言われた。それから少し歩いて駅の中央の広場で彼女と別れた。人の最も多い時間で、振り返っても彼女の姿は見つけられなかった。
 家に帰ると懐かしい母親の夕飯が並んでいた。僕が小学生から高校生へなったときは特に感じていなかったが、高校生から今までで両親はとても老いたように見えた。しかし夕飯の味は少しも変わっていなかった。同じように肉を焼いて同じ調味料を入れても僕にはこの味が出せない。結婚するの、彼女の言葉を思い出した。まだ結婚なんて違う世界の話のような年齢のつもりだったけれど、時間は知らぬ間にも流れていたらしい。相手の男を想像した。なにも聞かなかったので関係もわからない。僕よりはましな男だといい。それから僕は自分の結婚について考えてどうしようもなく暗くなった。まだ両親は結婚については話してこない。孫を見せてねとも言わない。言われても相手がいないからどうしようもないわけだけど。
 電車の中で見た海を思い出した。彼女との思い出は一日では思い出しきれないほどたくさんあるはずなのに、いざ思い出そうとするとあまり鮮明なものはなかった。海の冷たさと息苦しさだけは手に取って形を確かめられそうなほどに鮮やかだった。他はどれも一枚、薄いフィルターを介したようで、自分の身で体験したことだとは思えなかった。今日会った彼女と、当時の彼女が重ならない。これが大人になるということで、過去になるということか。味噌汁の味は少しも変わっていないことが救いだった。





 必死で手を伸ばしたけれど海面は遠かった。足はついていたのだから深くないことはわかっていたが人は三十センチもあれば十分溺死できる。間抜けな話。腕は僕の胴と胸にへばりついて離れなかった。引き剥がそうともがいたがそれよりも海面へ上がることが先決で僕の足は底を上手く捕らえようと砂を掻いた。僕を捕える腕から僕とも腕ともわからない鼓動が伝わって言いようのない気持ちの悪さを感じた。やっとのことで海面から顔を上げて腕を剥がすと、今度は腕が肩と首にまわった。頬に砂と髪のざりざりした感触があって、腕は僕に死なないでと言った。腕ではなく、彼女がだ。すっかりそのひとの腕だと思っていた僕は大層安堵した。「しなないで」もう一度彼女は言った。僕が死のうとしたのだと思ったらしい。げほ、と僕は塩水を吐いて数度噎せた。海面は僕の胸ほどで、彼女は肩まで浸っていた。自分は棚に上げて服のまま海へ入ってきた彼女を馬鹿じゃないのかと思う。海水と涙と鼻水で彼女の顔はぐちゃぐちゃだった。彼女を安心させようと死なないと言うことは簡単だったがなかなか言う気が起こらなかった。辺りは先ほどよりずっと明るくなっていた。まだ日は雲に隠れて見えない。空気は薄青かった。死なないと言うのは簡単で、実際死ぬ気なんてそうなかったけれどそう言うのは嫌だった。むしろ死んでやると言いたかった。
「き、みは」ごほごほともう一度噎せた。以前海の中で恋人と心中する小説を読んだ。二人で泳いでずっと沖でナイフを刺し合うのだ。それは宗教的であり美しかったが、そうした画面の外、海の中で二人は必死に立ち泳ぎをしているのかと思うと滑稽で仕方がなかった。現実の中に美しさが存在すると思ったことはないし、抽象表現で会話ができるのは小説や漫画の中だけの話だった。具体的でも伝わらない言葉が抽象的で伝わるものか。意味がわからない。現実はむなしい。先のことを考えたらなにもできない。等間隔で波が押し寄せて僕たちを急かすように押した。僕はくるっていた。彼女も同じくらいにくるっていた。或いは僕たちが正常で他の世の中全てがくるっていた。相対的な話であればどちらであっても構わない。
「きみは、僕が死んだら、死んでくれるか」
 眼鏡の水滴で彼女がよく見えなかった。声の震えが寒さのせいなのか他のなにかのせいなのかはわからない。世の中はわからないことだらけで、僕たちはただの頭のおかしい高校生に過ぎなかった。僕は頭がおかしくて、彼女はもっとおかしかった。彼女が笑った。それは見たことのないくらい美しい笑みだった。塩水でぐちゃぐちゃの顔で。表裏一体とはよく言ったものだと頭の隅で心底感心して手を伸ばした。「死ぬよ」彼女が言ったのと僕が彼女を抱き寄せたのは殆ど同時だった。それは恐怖にもよく似ていた。死ななくていい、そう言おうとしてやめた。僕も彼女もくるっていて頭がおかしかった。死ななくていいと思ったが死んで欲しくもあった。僕のいる間は死なないで欲しいと思ったが今すぐ死んでくれたらとも思った。彼女の髪は塩水と砂を含んで不愉快な手触りになっていた。知らずに笑みが零れた。こんな狂った笑みを僕は虚構の中にしか知らなかった。彼女の笑顔も優しくはあったがまったく同じ性質のものだった。髪に指を通して引き寄せ彼女に口付けた。唇は冷たく口の中は塩の味しかしなかったがそれでも構わず彼女の咥内を陵辱した。応える舌の動きは拙い。唇を離すと彼女は恍惚とした顔で目で僕を見上げた。僕は笑って、しかし何故だか悲しみにも似たようなものを感じた。これを幸福と呼ぶのかもしれない。


明日の朝君が僕を
抱きしめに来てくれたらいいのに





噫、素晴らしき中二病!



(08/09/30)