ぐったりと身体をベッドに沈める。待ち受けるのは柔らかな羽毛布団なんかではなく、硬く薄い仮初の海。安息の場所、煎餅布団。唯一の心安らぐ場所、まじまじとぼくに現実を突きつけ悩ませ追い詰める場所。
 気だるい。久しぶりの慣れないアルコールは頭痛と薄い吐き気をもたらす。目を閉じれば特に意味もないイメージが浮かぶ。渋滞する夜のハイウェイ。薄気味の悪いオレンジの光とヘッドライトの川。本当に意味がない。口を薄く開いて浅く息を吸って、吐く。目を開けば、多少くすんだ白の天井。重りのような身体をのろのろと起こすと眼鏡を外してたたみ、ベッドの隣りの棚の適当な段に置く。再び仰向けに寝転がると、天井の質感がわからなくなった。ただ広がる、白。目を閉じる。

「ウエジくん」

 彼女の声が聞こえる。これはきっと夢だ。なぜって、そんなの、決まっているだろう。
 ぼくは彼女に手をのばして、他の誰にもしないように微笑む。きみだけが受け取れる、ぼくの特別。
 背景がひどく曖昧だ、これで真っ白もしくは場違いに花畑だったりなんかしたら、完全にこれは夢だ。彼女へとのびたぼくの指先が彼女の指に触れる。細く白く、柔らかい指。体温、やさしい鼓動。その感触にぼくは驚き、顔の筋肉が緊張するのを感じた。
 体温なんてあるはずがない、きみは生きていないのだから。ねえ

 ぼくは唐突に息苦しさを感じて膝をつく。彼女が心配そうにぼくを覗き込んだ。そんな顔をしてくれるのなら、見ていないでもっと近くに来て、近くに来て、それで、
 動悸が激しくなって、細く狭くなった気管に必死で空気を送り込む。どくどくと喧しい音が耳の中で響く。胸で大きく口を開ける空洞。ごっそりと何かを奪われたような空虚が体内を広がって、次の瞬間猛烈な勢いで競り上がってくる。洪水のように。
 すぐ近くともずっと遠くとも取れる彼女の表情を認知すべく、顔を少しあげる。そこにあるのは、いつもと何ら変わらぬ微笑。汗が浮かんだ顔で、ぼくも社交辞令のように笑い返した。すっかりきみに打ち砕かれ下手になった演技で。滲んで彼女の顔が認知できなくなる。
 競り上がる勢いは止まらない。止まらない止まらない止まらない、だ、めだ、溢れる、
 髪の毛を思い切り掴む。ぎりぎりと、それでも勢いは弱まらない。助けを懇願するような目をきみに向けても、きみは微笑んでいるだけなのだろう。
「大嫌いだ」
 蚊が鳴くよりも小さな声でうめくように吐き出したのを合図に、僕の中から感情が勢いよく世界へと流れ出す。それは温いよりは低い温度の水のようなもので、あっという間にきみを遠くへ追いやってしまった。もう影もみとめられない。ぼくは浮くことは放棄してその液体に浸る。動悸はすっかり治まったようだ。息苦しさも感じられない。残ったのは、虚無感。
 ぼくはこの感情を知っている。勢いよく胸の中を満たし競り上がってくる、この感情を。まじまじと思い知らされる、「きみはもういない」。

 ぼくの胃袋には、二本の缶ビールと丁度七百錠分のアタラックスPが入っている。30g弱の黄色い粉末を、ぼくは午前の終わり頃に、ちびちびと飲み下していた。
 きみはもういないのだから、ぼくに生きている意味などないのだ。ぼくのなかのきみは、もう死んでしまった。きれいさっぱり、消え失せてしまったのだ。気が付くのが遅かった、本当は当の昔に、きみはいなくなっていたのに。来月きみは結婚するらしい。
 徐々に景色が溶けて消えてゆく。最後まで、流れ出す勢いは弱まらなかった。










「ウエジくん」
 鍵は開いたままだった。なんと無防備なのだろう。こんなご時世だというのに。
 彼はベッドで眠っていた。手から滑り落ちたハンドバッグがどさりと音を立てて床に落ちる。テーブルには数多の空の緑のカプセル。積み上げられた薬のパッケージ。数は丁度三十五。
 たっぷり一時間、寝息もたてず眠る彼を見下ろし続けた。



かみさま。
なきむしのぼくに
しかるべきを、
いのちの終焉を。
(07/04/25)