おれは世界に絶望していた。なんて無様でどうしようもない世界。だから捨てることにした。きみとだからできること。
いつかきみが訊いたこと「死んで、わたしたちはどこへ行くの」、今その問いに答えよう。おれたちは何処へも行かない。ただ世界から消えるだけ。この醜く生き難い世界から。「それじゃあわたしたちは、一緒にはなれないんだ」いいや、なれる。おれたちは一緒に死ぬことができる。そうだろう。
最後の晩餐は高校生にしては贅沢に、それなりのイタリアンレストランで済ませた。和食派のおれとしてはあの脂っこい料理たちには多少不満もあったけれど、そのくらいはきみの好みに沿ってもいい。最後なのだし、幸いおれは食べ物に執着もない。それから、あらかじめ見つけていた廃ビルの一室の、やはりあらかじめ運んでおいた薄っぺらい布団に二人で寝た。若い下劣な奴らがしたがるようなことは、何もしていない。ようやく最後だと言うのに、今更普通に成り下がる必要もないのだ。おれがどれだけこの日を待ち詫びたことか。
結局キスはしたのだけれど。
ことの始まりはなんだったかな。おれは鈍る頭で思い出す。
最初は良かったんだ。恋の始まりは幸福なものだと初めておれは知った。脳内の全ては一人の人間のことだけに侵されて、他は何も考えずに済む。こんな満ち足りた思い、もう二度とおれは知れないだろう。なのにどうしてこんなことになったのか。
判っているんだ、ほんとうは。おれはきみに甘えている。きみが、おれのためならばなんでもする、なんでもできる、なんて馬鹿げたことを言ってしまったから。軽い睡眠ののち、翌朝目が覚めたら、おれたちは軽い朝食を摂って眠りに就く。永遠に覚めることの無い眠りだ。
玄関の扉を開けると、最近よく見るビーチサンダルがあった。いくら春が終わったと言えまだ夏ではない。明らかな季節錯誤だ。見ているこちらが寒々しい。
するとおれの帰宅を見計らっていたかのように、どこぞの部屋の扉が開いた。茶色に染められた若者によくある長めの髪に、暑苦しくない程度にがっしりした長身の体躯。年齢に対してやや幼めの顔が此方を向いて、にこりと人の好さそうな笑みを浮かべる。
「可哀想だね」なにが。だれが。
「彼女さん。くだらないエゴに付き合わされて、人生を終えなきゃいけないなんて」
死に掛けの子犬でも見つけたように眉間に皺を寄せ、眉の両端を下げる。余りにわざとらしいまでの憐憫の表情に、おれは思わず顔をしかめる。そんなもの意にも介さないように、その男は表情を崩さない。先ほどの悲しげな表情の影も見当たらない笑顔に戻る。「オレはあんたと彼女さんについてなんてなんも知らないけど、少なくともオレから見て、あんたが本当にその人のこと好きなのかは非常に疑わしいよね」感情の失せた目で、口元を歪める。きっと女子たちに可愛いと言われているであろう、おれと対照的な顔。
「知らないのなら偉そうなことを言うな。おれがあいつをどう思ってるかなんて、お前にわかるはずがない」おれはあいつを愛している。だからこそ、一緒に連れて行くのだ。だって、好きでもないのなら、わざわざ一緒になんて連れて行くか。おれはあいつを愛している。だから一緒にいくのだ。
「ふうん、一緒に死ぬのがしあわせなんだ。わかんないね」「わからないなら口出しするな、そもそも、おまえは誰だ。なぜ誰かも知らんおまえがそんなことを知ってる」いかにも不機嫌を丸出しにした表情をつくり吐き捨てる。それでもその男はにこにことした人懐こい笑みを剥がさない。それがまた鼻につく。男はおれの質問に答える素振りも見せずに、続けた。
「幸せにもしてあげなくて、あげられなくて、『愛してる』なんて笑わせる」
どうやってその男と別れたのかは覚えていない。気が付いたらおれは彼女と死ぬべくあの廃ビルへと歩いていた。半袖では寒いが、長袖では少々暑い中途半端な風がおれを舐める。覚えているのは、最後に吐き捨てた男の笑っていない目と、なんとかしてその男と別れたあとのこと。最近やたらと家に出入りしていたあの男は弟の友人(であるかは定かではないが)であろうことに気付き、おれはすぐに弟の部屋に上がり込み、机にいた弟の胸倉を掴みあげた。今思えばすぐに奴の友人と気付かなかったことも間抜けだ。しかし、ただの客人であるあの男におれが近くに自殺を、それも彼女と心中をしようだなんてことが知れるはずがない。流したとしたら、それはもうこの馬鹿野郎しかいないのだ。言葉どおりおれの愚弟。
おれがそいつの胸倉をつかみあげると抵抗もなく椅子から落ちる。なんの感情もない目でおれに何か用か、用がないのなら出て行けと無言で問うている。ことのあらましの予測はできた。普通ならこの無能だっておれが死のうとしていることなど知るはずがない。完全に油断していた。家では日中母親が子の部屋に入ることなどないから、もちろん兄弟間でのそういうこともなし、おれは計画に使う薬物をすべて自室に置いていた。経緯は知らないが、きっとこいつはそれを見たのだ。そして、おれと同じく常時世界から去りたく思っているだろう、この無能は、気が付いたのだ。その薬物が、明らかに一人分ではないことに。
世間一般に考えて、自殺で道連れにする人なんて愛するものだけだ。広くすれば余程憎い人間、とも考えられるだろうが、こいつにはわかる。こいつはおれとよく似た思考回路をしているのだから。世間から逸脱したがっているのに、わざわざ憎いやつを一緒に極楽浄土へ連れて行く理由もあるまい。行く先がこの世の終わりなるワンダーランドであるのに、何故憎い人間にそんないい目を見せてやろうか。
こいつが何を思って友人なんかにおれの自殺計画の話をしたのかは定かではないが、それ以外のことはこれで合点がいった。そして、あの男はきっととんでもない正義漢なのだ。よくいる自分が正しい、正しいことをしているとしか思っていない勘違い野郎。
結局なにも言えずに一発だけナカジを殴ると、おれはすぐに家を出た。人も愛したことがないような餓鬼が、偉そうな口を叩く。素晴らしい家庭環境で明るい性格と容貌を持ち友達にも恵まれ、人生の苦痛や世界の無情も知らないのだ。可哀想なやつ。
廃ビルに着くと、既に彼女は来ていた。そこで、冒頭に戻る。
おれたちは夕食を摂って廃ビルに戻ると、とりあえずコンビニで買ってきた酒のひとつを開けた。薬物自殺をするときは、アルコールを摂ると回りが速くていいと読んだからだ。困ったことにおれたちにはそう弾む話題がない。それでどうやって付き合っていたのかと言われると自分でも謎だが、互いに黙っていても苦痛ではなし、寧ろそうして一緒にいながらそれぞれ別のことをしているのは好きだ。すぐに酔いが回ったのか、おれたちは日付が変わる前後には眠ってしまった。話題がないとは言えずっと無言でいるわけにもいかず、おれたちはぽつぽつと何かを話していた。内容はほとんど覚えていないけれど。眠ってしまう少し前、手を握るまでの健全な付き合いをしていたおれたちだが、唐突に彼女がおれの名を呼びキスをねだった。缶一本と半分にも満たないくらいしか飲んでいなかったが、彼女の顔は赤かったし、酔っていたのだろう。おれも意識ははっきりしていたがそうねだられると断れず、先も言ったように酔いも災いしてその誘いにのってしまった。本当は単に、酒で顔を赤くし目を潤ませた彼女が、俯いてちらりとおれを上目使いでうかがいながらそんなことをねだる様がどうにも可愛かったというだけなのだが。だけど、やっぱりその先はしていない。
目を開けると、年度の変わりに使わなくなった古い青いカーテンを通して差し込む薄い光で部屋は僅かに明るかった。朝だ。今は午前の五時か四時くらいだろうか。既に起きていたらしい彼女が窓のほうを向きぺたりと座り込んでいる。ぴくりと彼女の肩が震えて、鼻をすする音がした。おれは起き上がろうとするのをやめて、再び固い布団の上に倒れこむ。(『愛してる』なんて笑わせる)正義漢の、むしろこっち側の人間かのような冷めた目と馬鹿げた科白を思い出してみた。
おれは余計なことを考えるのを止めて、掛けていた薄い布団をずらすと音を立てぬよう気をつけながら立ち上がった。そうしてそろそろと近づく間にも、彼女の肩は何度もはねた。彼女までは残り五十センチ。いい加減気付くかと思ったが、彼女が気付く気配は一向にない。そういえば、彼女は結構に鈍い人間だ。時たまその鈍さに苛立っていたことを思い出す。気分がいいときには、その鈍さを可愛いと受け止められたことも。
からからの喉で口を開く。音量に気を配りながら、おれは声帯を微弱に振動させた。「なあ」
彼女の肩が大きくはねる。泣き顔を見られたくないのか、振り向く素振りは微塵も見せなかった。「なに」肩と同じく震えた声がコンクリートの壁を跳ね返っておれに届く。なんと言おうか悩んだ末、やはり悩むのも無駄だと思い至る。だから現代人は悩まないのかもしれない。
「おまえが言ってた一緒になるって、なに」話してから少々声が冷たかったかとも後悔するが、今更言い返すこともできず、おれは彼女の答えを待つ。
たっぷりと沈黙を取ってから、小さな声が流れ出す。「……なんだろう。自分でもよく判らないけど、幸せになるとか、将来的には結婚するとか……かなあ」なんか恥ずかしいね、ばかみたいだ、と自嘲気味に彼女は笑う。そんなことはない、おれは小さく首を横に動かしたが、彼女からは見えない。
「おまえは、生きてればおれたちが幸せになれるかもとか、本気で思ってんの」
自分でも恐ろしいくらい、冷静になっているのがわかる。ずきずきと痛む二日酔いの頭の中で。彼女が俯く角度を深くする。白い項が上から見えた。最初の質問よりずっと長い時間が過ぎた。いつの間にか、カーテンを透かす光は起きたときに比べてずっと強くなっている。
じっと見ていなければわからないほど僅かに、彼女は小さく頷いた。
もう随分前に泣き止んだらしい彼女は、振り返ろうと肩を揺らした。しかしそれは彼女がおれを視界に認める前に遮られる。彼女が振り返るより早く、おれは彼女を後ろからぎっちりと抱きしめていた。彼女の肩が純粋な驚き(と、おれが予測するに羞恥)で跳ね上がり、意味不明な音を連ねる。
おれは床がコンクリートであるにも関わらずほぼ全力で彼女を仰向けに押し倒すと、背中の痛みと唐突なおれの行動に目を白黒させている彼女にも構わず、ワイシャツのボタンが弾け飛ぶ勢いで服を脱がせ始めた。すぐに彼女はおれがしている行動の意に気付いて弱々しく手を伸ばす。名前を呼んで、やめて、とか、だめ、とか、そんな意味のないことばかり何度も言う。
ふと一瞬手を止めてその表情を窺うと、そこには不安と困惑が入り乱れたものがあった。おれはまた構わず作業に戻った。官能小説好きの下衆な男が、女がレイプや痴漢されて否定するのは照れ隠しだなんて言うのは馬鹿で阿呆なことだと知っているけれど、それでもおれは彼女のその言葉たちが単なるポーズであることが手に取るようにわかった。
彼女の服を脱がせ終わると、おれは彼女の身体に軽く口付けながら自分の服もすべて脱ぐ。脱いだ服をすべて適当に投げ捨て、さしたる前戯もなしに彼女の足の間に手を入れるとそこに触れた。まだなにもしていないのに、既にそこは期待で濡れていた。
淫乱めと蔑んでいるとも微笑んでいるとも取れる目でおれが見ると、恥ずかしそうに顔を逸らした。一方同様に何もしなくてもされなくても準備万端なおれ自身を手に取ると、そこに宛がう。勿論おれは初めてで、彼女も恐らくは初めてで、おれの手も自然とぎこちない。それでも数分の格闘の末、徐々に自身は彼女の中へゆっくりと埋まっていく。それなりに濡れているしゆっくり入れているおかげか、どうやら出血はしていないようだ。一度入ってしまえばあとは抜けないように気をつけるだけで、おれはきつい締め付けのなか静かに動き始めた。おれの動きに合わせて、彼女が苦しそうに息を上げる。
初めは彼女の膣が傷つかないようにと気遣っていたが、いつの間にかそれも忘れておれは身勝手に動いた。あまりの激しさに眼鏡がずるりと滑る。それにも構わず、おれは間抜けみたいに腰を振る。都合のいいもので、おれは普通になってしまった悲しみなんて微塵も感じていないのであった。どんな屁理屈よりも快楽が勝って、なにも考えられない。ずれた眼鏡の僅かな視界に、彼女が映る。彼女は相変わらず名前を呼んで、待って、だとか、ゆっくり、だとか、そんな意味のないことを途切れ途切れに言いながら、苦しそうに歓喜の声をあげた。
そしておれは、快楽で満たされる頭のほんの片隅でこのことを知ったら浮かべるであろうあの男の満面の笑みを想像して、なんともいやな心持になった。