信じられるだろうか、そんな不条理が。嗚呼、わたしがこうして怠惰に人生を過ごしている間にも、貴女はみるみる老いさばらえてゆくなどと。「仕方ねえさ、人間はそういう風にできてる。猫と人間の寿命は同じじゃない、それと同じだろ」そう神は言う。ならば何故、わたしたちが愛し合い得るよう、似た容貌に創ったのか。何故、寿命を同じ桁にはしてくれなかったのか。なんて気ままな神の計らいか。わたしたちを創ったとき、こうなることを、おまえは予測していたのか。出来たろうに、きっとおまえは予測なぞしなかったのだろう。おまえはそういうやつだ。しかし、今回ばかりはしていて欲しかった。もっとも、知っていて尚そう創る嗜虐性もおまえは持ち合わせているのだろうが。
こうして今更おまえに愚痴をこぼしたところで意味はあるまい。おまえの力を以てすればこの道理を変えることも容易いのだろうが、おまえはそんなことはけしてしないだろう。ましてたった一人の我侭では尚のこと。わたしももう、文句を言うつもりなどない。きさまがわたしと同じ境遇のものどもから数え切れぬ叱責を受けていることは知っている。わたしが責めずとも、既におまえは充分に責められている。
わたしはおまえを責めはしない。もう二度とこんな思いはしない、わたし一人生き永らえる不安、恐怖など味わわない。人間を愛すなんて愚鈍な真似、今後二度とするものか。「わたしがいなくなったら、あなたはいずれまた、違う女性を愛するのでしょうね」綺麗に笑って、貴女は言った。金輪際わたし以外を愛すな、なんて我侭は言いませんよ。そうも貴女は言った。いつかは自分と似た寿命を持ったものと愛し合って、一生を添い遂げて幸せになりなさい、とも。貴女は自分勝手だ。自分のことでないから、そうやってあけすけにものを言える。他のものなど、一生愛したくはないのに。貴女は、優しいけれど意地が悪い。本当に優しいのならば、言わないのだ。そんなこと。
目を覚ます瞬間とは目を開けることと意識が覚醒すること、どちらが先なのだろう。暗闇の中で目を開いて、わたしは考えた。がちがちに固まった関節を動かすと痺れるような痛みが走る。痛みよりも痺れが疎ましい、しかし動かないわけにもいくまい。わたしは痺れる腕を働かせて、ぎしりと棺の蓋を持ち上げる。ぼんやりと霞みがかる頭を引きずって外へ出た。射るような太陽の光が目に刺さって、わたしは素直に目を閉じる。爽やかな風が舐めるように草原を滑っていた。この風からするに、今は春だろう。わたしはどれくらい眠っていたのだろうか。薄く目を開き、徐々に明るい世界に慣れさせる。この季節ならば、外へ出てもさして問題ないだろう。久々だから刺さったが、慣れれば日差しは穏やかに感じられるはずだ。ゆっくり目を開くと、背後にある自分の城を見上げる。嘗て数百年眠ったことがあったが、そのときに比べれば城の朽ち具合は酷くない。長く見積もっても百年程度といったところか。どちらにせよ、埃の層は厚いだろうから掃除が面倒だ。アッシュはまだ生きているだろうか。スマイルは大丈夫だろう、もし死んでいたら、花くらいはあげに行こう。
城を背に暫く歩くと、質素な花畑がある。この時期ならば、きっと花が咲いている。なにか特別しなければいけないことがあったわけでもないわたしたちは、よくそこで休んでいたものだ。夏の暑い日は流石に控えたけれど、近くに木陰があったからわたしもさしたる痛手なく其処にいることができた。彼女はいつも其処でなにをしていたろう。目を閉じて思い出そうとしてみたけれど、記憶は靄がかかったようにぼんやりとしていて、彼女の笑顔も霞んで見える。嘗ての其処までの道は、四方八方に伸びた木の枝ですっかり獣道と化していた。これではそう通れない。城に不法侵入されるのも困りものであるから、在り難くもあるが。
無雑作に伸びている木を腕で避けると、一気に視界は開ける。其処に彼女はいた。記憶ががちりと音を立てて、彼女の顔で構築される。懐かしい日々の思い出。突如現れたわたしに驚いた顔をして、彼女がわたしを見上げる。「…………卯月」思いのほか呆けた声が、わたしの口から零れた。
すくりと摘んだ花を持った彼女は立ち上がる。その花を生けるのだろうか、だとしたら家に帰るまでに萎れてしまわなければいいが。摘んだ花は萎れ易い。風で揺れた柔らかなスカートから伸びる足はすらりと細い。多少の寒々しさすら感じさせる薄手の服は、綺麗で厭らしさを感じさせない身体の線を浮き上がらせていた。
「どなたですか」
その言葉で我に返る。そうだ、彼女が生きているはずがないのだ。わたしが眠ってから、もう長い年月が経っているのだから。
「……いや、すまない。知り合いによく似ていたものだから、」「ユーリさんですね」
遠慮のないもの言いに嫌悪を感じるより先に、わたしは何故名を知っているのかとの困惑を浮かべた。彼女ではないと認識すると、確かに。顔の作りこそ似ているものの、ひとつひとつのパーツ、表情はそれぞれ違う。「古雅卯月はわたしの祖母です」「……祖母」
「ええ。あなたが眠ってから、六十年ほどが経っています。祖母はあなたが眠ってしばらくしてから親の決めたひとと結婚し、わたしの父を生みました。その三十年後にわたしが生まれ、わたしはおばあさんからあなたの話を聞きました」彼女のような穏やかな色ではなく、はっきりとした強気さが表れた目がわたしを捕らえる。「それで、彼女は――」「死にました。三年前に」半ば嫌悪すら混ぜられているようなその目に、わたしは意識せず少々怯む。す、と彼女の目が細められる。よく思い出してみれば、彼女の瞳の色はこんなにも濃い黒色ではなかったはずだ。「安心していますね」「……なにを、」「老いさばらえた嘗ての愛しいひとを見ずに済んで、さぞや安心したでしょう。そのためにあなたは、恋人を見捨て自分ひとりだけ睡眠のなかに逃げ込んだのですから」動揺を自分でも隠せていないことがわかった。なぜそんなことが、「おばあさんにはすべて聞きました。そして頼まれました。あなたが目覚めたら、あなたが眠ってからのことを話すよう」「……」「あなたが当分覚めることのない眠りに入ったと知って彼女がどれほど悲しんだかは、想像に難くないでしょう」
わたしに興味を失くしたように視線を外して、彼女はどこか遠くを見る。腕を開けば、ばらばらと摘んで早くも萎れ始めていた花たちが地面に帰った。暫しの沈黙が訪れる。眠りについた日から時が止まっているわたしは、記憶こそ薄れても彼女への想いは薄れていない。誰かにそう、突きつけるように言われただけで、充分に苦しい。たっぷりと沈黙が空気を満たして、それを打ち破ったのは彼女だった。
「……わたしは、もっとあなたを憎むべきです」わたしは黙って、彼女を見ることで話を聞いていることを示す。「だけど、わたしはあなたを憎めない。誤解しないでください。わたしはあなたを非情でとても酷いひとだと思っています。この上ないほど。けれど、憎むことはできない」「なぜ」じれったい物言いに耐え切れず、わたしは口を開く。多少言い難そうに、恨めしそうにわたしを見て、すぐに彼女は目を逸らした。
「他人のことだからです」
その清清しいほどに素直且つ至極当然な言葉に、呆気に取られた後に思わずわたしも笑いを漏らす。当然だ、祖母とは言え所詮他人の色恋沙汰。同情くらいならば他人でも出来こそすれ、怨恨をどうして血に受け継げようか。「同時に、あなたはもっと祖母を恨むべきです」
「なぜ」再び、阿呆のようにわたしは同じ言葉を繰り返す。「だって、わたしが居るということは、祖母は結局あなた以外の人と交わったということですよ。親の決めたこととは言え、それってどうなんですか」少し頬を赤らめながらも、これ以上下世話なことは言わせるなと強気な瞳が言っている。わたしは苦笑を漏らして、嫉妬していると素直に答えた。「それと、おばあさんからもうひとつ。次は、嫌でもつらくても、ちゃんとその人が死ぬまで一緒にいてあげてくださいって」「ああ……言われたよ。昔にも」彼女は順を得ずに次々と彼女に纏わる話をした。わたしはそれを、とても不思議な心持で聞いていた。安心してはいけないことは判っているのだけれど、わたしは彼女がそれなりに幸福で円満な人生を送れたことを知って安堵した。暫く話をして、わたしは彼女と別れた。
「そういえば、貴女の名前は」
「名乗る必要はありません。もうあなたと会うことはありませんから」
「残念だな。一度きりの邂逅で終わらせてしまうには余りに惜しい」「あら、どうして」「それほど貴女は美しいということだ」「ふふ、そうやって祖母も落としたんですね」「失礼な」「事実でしょう」
「それでは、そろそろわたしは行かなくては。もうじき娘が帰ってきますから」言って、彼女は綺麗に笑った。そうして笑う表情は、わたしが愛した彼女にとてもよく似ていた。
眠り姫にはつよい罵倒を、
眠り王子に贖罪を。
友人の利緒へ捧げる。
(07/06/10)