植 月 の 魚
なんでも今まで住んでいたアパートが取り壊しだそうで、急遽撤退を余儀なくされてしまった。取り壊しの理由はアパートが面していた道の拡大で、まあある意味これはいい機会なのかもなあなどと思って今までの朝より三十分長く眠れる大学近くの小さなアパートに越すことになったのだった。
一人暮らしでたいして物を持たないわたしの引越しは、たったの一日で簡単な荷物の片付けも含めすっかりさっぱり終わってしまった。彼との品はなにも持ってきていない。荷物をまとめた際にすべて捨ててしまった。思い出の品々を捨ててしまって惜しくないことはないけれど、捨てたのはどれも生活にはさして支障のないものばかりであったからいずれ思い出さなくなるだろう。それもまた、さみしいはなしだ。あんなに長いあいだ、生活の一部に存在していたものをこうも簡単に切り離してしまうなんて。
彼は自称王子で、変な男だった。学校に通っているふうもなく、働いている様子もなかった。しかししばしばその日は用事が、などと言っていたからそれが仕事だったのかもしれない。学校に通っていないのは、彼が本当に王子であるのなら当たり前のことだ。王子が学校に通うのはおかしい。そうは言っても王子だという話も信じていなかったけれど。その真偽を確かめる術もなく、気がつけばもう数年の付き合いとなっていた。二十年にもならないまだ短い人生のなかで数年といったら、それはもう驚くほど長い年月だ。急になくなられても、それまでどうしていたのか思い出せない。だけどあのひとは急にいなくなった。もう好きじゃなくなったと吐き捨てて、なにを惜しがりもせずあの部屋から消えてしまった。貴重な若い時期のうち数年を費やした女のことをたったの一言で切ってしまう、その潔さは素晴らしいとしか言い様がない。同棲というほど彼はわたしの部屋に住みついてはいなかったけれど、客というには馴染みすぎた。ああいうのを半同棲というのだろうか。それにしても、我儘で独善的。ひどい男だった。早くわすれるべきなのかもしれない。誰に話しても「どうして付き合ってるの」と疑問符を叩きつけられた。ときには「早く別れたほうがいい」とすら言われたものだ。恋人を馬鹿にされていい気はしない。けれどそう言われるのも当事者として痛いほどわかっていた。しかしなんというべきか、いやだめだ。思いださないほうがいい。忘れるんだ。引越しもしたのだから。
記念すべき、新しい部屋での一日目だ。夕飯は豪勢なほうがいい。たとえ一人でも。見慣れない店先をたくさん眺め、安さに釣られてパスタを数種類買った。結局普段とあまり変わらないものになりそうだ。一人ではご馳走にしようがないのだ。ステーキにでもすればよかったのだろうか。しかし、一人でステーキとは。それもあまり気乗りしない。今日はラザニアにしよう。ベシャメルソースは少なめで、ミートソースとチーズをたっぷりかけるのだ。リコッタチーズにモッツァレラ、パルミジャーノ・レッジャーノ。あの味を思い出すだけでおなかいっぱいになれそうだ。
荷物も一杯になってさてそろそろ、と思ったところにジェラート屋が視界に入った。引越し祝いと銘打って三段。カプチーノとリモーネとアランチョ。どの味も魅力的だけれど、やはりジェラートは果物系が一番だ。広場のベンチに腰掛けて、傾いた日に照らされた町並みと噴水や道行く人々を眺めながらジェラートを舐める。まだジェラートを食べるには少々肌寒い。だけどぼんやりしていればすぐに夏が来て去って、秋になって、冬になって。一年なんてあっという間に過ぎていく。ジェラートを食べ終わっても、わたしはそこを動かなかった。帰るのがひどく億劫だ。わくわくとした気持ちがどこかへ失せてしまった。このところずっと、なにをしていても楽しくないのだ。カツリという音とともに視界がふと暗くなった。数歩先には真っ白な編み上げのブーツ。顔を見なくともわかる。うそ。うそだ。
たった数ヶ月、言ってしまえば簡単だ。数ヶ月なんてすぐに過ぎる。けれど長かった。なにもないのに長かった。それに至極つまらなかった。どうしてかって、そんなの、あなたがいなかったからに決まっているじゃないか。みごとな金髪とティアラが、背後から夕暮れの陽光を受けて橙色に煌いた。数ヶ月前となにもかわらない、「……ベル」不覚にも、なきそうだ。
「…………た」
「え?」
「あいたかった。あいたかったよ、ずっと! おまえがいない生活とかムリ、ほんとムリ。たえらんない。三ヶ月、たった三ヶ月なのにおまえと離れててつらすぎてほんと死にそうだった。バカみたい。オレ王子だよ。なのにおまえみたいな貧相な一般人にこんな振り回されてさあ。だけどそれもいいかなとか思っちゃうんだからもう駄目。ホント、頭おかしくなりそう。ずっとずっと、おまえのことしか考えられない。ずっと頭の中にいる。バカじゃんね、女なんて腐るほどいんのにおまえしか駄目だとか言うんだよ。だけどそれもいつかは終わる。離れてれば、必ず終わる。オレは遠距離恋愛なんてもの信じてないよ。こうやってさ、離れて、おまえはオレをひどいやつって思って、いつの間にか一人でいるのが普通になって、オレのこと考えてる時間とかも減っていって、いつかまたオレじゃないだれかのこと好きになって、彼氏とかできて、結婚とかして子供が生まれて、でもその相手はオレじゃねえの。オレもさ。今、こんだけおまえのことで頭いっぱいなのに、他のことなんてぜんぜん考えられないのに、いつか、忘れる」
信じられない言葉をずらずらと並べて、柄にもなく彼は項垂れた。数年来の付き合いではあるが、ここまで弱った彼を見るのは初めてかもしれない。あれ、けっきょくどういうことなのだろう。このひとは「あきた。オレもうおまえのこと好きじゃないよ」と言って出て行ったのではなかっただろうか。なのにどうした。今の台詞はまるでわたしのことが好きで好きで堪らないといったふうではないか。「ベル」呆けた頭で彼の名前をよんだ。「ん」小さく首をかしげる。目が見えないのは、やはり不便だ。彼は便利だと思っていそうだけれど。その口は孤を描いていたけれど笑っているようには思えなかった。
「一緒には、いられないの」
「ごめん」
そうか、好きだけど、一緒にいるのはむりなのか。よくわからないことだ。好きなら一緒にいればいいんじゃないのか。夕陽が落ちてあたりは一層暗くなった。ああ、早く帰って夕飯を作らないと。食べるのが何時になるかわからない。
わたしは今でも彼が好きだ。どうやら彼も同じらしい。ならどうして好きじゃなくなったなんて言ったのだと問いつめてやりたいところだけれども、それはまた違うときでもいい。とつぜんいなくなられて、どれだけわたしが困惑したか。みるみる視界が悪くなる。それに気付いて、彼はらしくもなく少し慌てた。やめてよ本当、らしくないからそういうの。
名前を呼ばれて顔を上げると一気に視界が塞がった。いかん、このコートすごくかたい。いたい、おもい、そう声を上げるとムードねえなあ少しくらい我慢してろよと鼻をすすって彼は笑った。後頭部を這う手が髪を軽く握られる。太陽を失っても眩しい金髪が徐々に近づいて唇を押し付けられた。すぐに離れて、ぎゅっと強く抱きしめられる。すき、掠れた声が耳に届いた。そんなこと、付き合っているときだって言わなかったくせに。
彼は身体を起こして地面に立つと、まったく付いて行けずぼんやりしたわたしを置いて去ろうとした。それじゃあの日とおなじじゃないか、わたしは思わず袖を掴む。わたしのささやかな抵抗に振り返ると、彼はわたしの手を握った。白くて細くて華奢だけれど意外とがっしりしていてい、わたしの手よりもずっと大きい。数ヶ月というブランクを経ても、その体温は驚くほど以前と変わらずわたしに馴染んだ。それで言うんだ。
「ところで今、なんじ?」
この流れに違和感があることは否めないけれど、たしかにそれはそれなりに重要なことだ。彼も忙しい仕事の合間を縫ってわたしに会いにきているのだろう。怠惰な彼に忙しい仕事が勤まるとはとてもじゃないが思えないけれど。わたしだって、おなかがすいている。手がするりと離れて、現代っ子のわたしは携帯を開いた。ディスプレイの右上に表示されている並んだ時間。ろくじにじゅうさんふん。そしてわたしはもうひとつの事実を思いだす。そうだ、今日は。
気がつくのが遅すぎた。離してしまった。視線を戻すとそこはすっかり人も減った暗い広場が広がるばかりで、わたしの前にそのひとは愚か、ひとっこひとり存在しなかった。携帯のディスプレイだけが煌々と、しらじらしく光っている。冷たい光だ。それも少しすると消える。点々と街灯の淡い光と活動をはじめる昼間とはちがう人々。あのひとがどこにもいない。消えてしまった。
なるほど今日のことはすべて嘘だったのだ。今日彼と会ったことから、話したことも触れたことも。だからあのひともおかしなことを言うし、らしくもないことをする。二度と彼に会えないのだという悲しみはなにもなかった。それを理解するにはまだ時間がたりない。
ベンチに置いていた荷物を持って立ち上がる。おなかがぺこぺこだ。帰ってラザニアを作って食べよう。新しい住まいで初めての夕食だ。豪勢なほうがいい。たとえ一人でも。あなたは嘘だから、とそれだけ言って済ませてしまうかもしれないけれど、わたしはそうは思えない。嘘としてしまうにはあまりにも、惜しいくらいに温かかったから。
今日だったらうそだよって、そんなふうに、ほんとうのことも言えそうだ。
(08/04/01)エイプリルフールフリー夢