らしくないことをしたね、そう、彼が言った。口元がかすかに笑ったけれど、目はまったく笑っていない。生気が感じられない。ここ数日で、随分とやつれてしまったようにおもう。ひばり、彼の名を呼ぼうとした。喉がなかった。
五年前。わたしははじめて彼と会った。噂はかねがね聞いていた。日本にいる次期ボスの雲の守護者が化け物であると。そして彼はその人間離れした強さに似合わぬ華奢な身体と綺麗な顔をしているとも。そんなボンゴレ中で話題の雲雀恭弥、どれほどの美少年であるのかどれほどの強さであるか、いざこの目で確かめんと意気揚揚とイタリアを出たのだけれど、実際会ってみればなるほど確かに美少年ではあるもののその眉間の皺はかつての上司ザンザスと競えるほど深く、しなやかな手足、例を上げるならば長く細く白い指であっても花を愛でるなどということはなく汚れを厭わず人を蹂躙した。敵味方関係なく、凡そ誰もが彼を恐れていた。しかしわたしは彼を恐れなかった。恐れる必要がなかったからだ。彼にトンファーを向けられたところで勝算はほとんどと言わずないことはまず間違いなかったけれど、攻撃を当てダメージを加えることこそできなくとも彼のトンファーを避け彼がわたしを追うのを面倒に思うまで逃げることならば十分出来得ると踏んでいたからだ。これから上司となる初対面の彼に、なるべく愛想よく挨拶の辞を述べ握手を求めて手をだした。わたしの発したどの言葉にも答えずに、生き残りたいなら死なないことだねと物理的に至極あたりまえのことを吐いて彼は踵を返し去っていった。差し出したままの手は所在なさげに彷徨っている。今はあなたと握手をする手をもたない。
二年と少し前。地味に仕事をこなしていたわたしはいつの間にか隊内ではそれなりの位置に着任していた。回ってくる仕事も着実に少しずつ困難なものになっていたけれど、その変化は緩やかであったので自分ではそのことも己の力量が微力ずつながら成長していたことにも最近までまったく気が付かなかった。いつでも彼が自身の近くに置いているのは中学のときに組していた風紀委員だとかいう人たちで、所属はボンゴレの名義で彼の元にいる人間はほんの少しだけだった。だというのに彼はその少しの人間の数も顔も名前もろくに把握していないらしく、ボンゴレ含め部下の管理はすべて草壁さんというダンディなお方がされていた。後になってわかったが彼はボンゴレと言わず風紀委員の人間の顔や名前もろくに把握していなかったらしい。それでもボンゴレから配属された人間と風紀委員の人間との間には妙な境界線があって、上下関係としては下からボンゴレ、風紀委員、草壁さん、そして頂点に雲雀恭弥といった風になっていた。風紀委員の人間があからさまにわたしたちを部下のように扱ったり命令したりするようなことはなかったけれど、ボンゴレの人間はどこか肩身が狭く風紀委員たちには雲雀恭弥直属の部下であることへの誇りのようなものが感じられた。ボンゴレはここではいわば派遣社員のようなものだ。
ある日報告書を持って彼の仕事部屋に入ると、なにを思ったか彼は次期ボスから送られてきた部下の名簿をぼんやりと眺めていた。異動や引退、死亡などの理由でもうここにはいない人間も含め、これまで彼の部下だった人間の簡単な情報だけが羅列している紙だ。そのときはなにか重要な書類でも見ているのだろうと思ったわたしはなるたけ邪魔をしないように報告書を置いて部屋を出ようとした。そこで呼び止められた。仕事に関係ない話をするのは、出会ったとき以来のことだった。名前を訊かれ答えると、彼は書類の文字を目で追った。数枚捲ったところで目の動きが止まり、ながいね、とそれだけ言った。ボンゴレは入れ替わりが激しいのだ。
それから少し、次の任務は彼と出るようにと風紀委員の人間から伝えられた。ここへ来て三年。そのころから今もここにいるのはボンゴレではわたしだけだった。彼と行動を共にして自身の至らない点がやたらと目に付き、いつ彼のトンファーが自分に向かってくるかと冷や冷やしながら、いつ向かってきてもいいようにとその切っ先に集中した。そのせいで更に失態が増える。ばかだ。しかし彼は余程わたしを舐めていたのか、意外といい動きをするねと小馬鹿にしたように笑った。それはどうもと答えるときみ、愛想悪いねとまた笑った。愛想が悪いのはどっちだ。わたしは三年前のことをまだ根に持っていたのだ。第一印象は大切である。と、わたしの心中も露知らず三年前がうそのように彼はよく話した。次期ボスの愚痴、部下の愚痴、テレビへの文句、読んだ本の矛盾点、仕事の愚痴、潰した人間の愚痴、わたしの愚痴。はあ、そうですか、としか相槌の入れようのない腹と胸の辺りがもやもやするような話ばかりを一方的にして、思い出したようにそういえばそろそろ桜が咲くねと言った。そう言われても、わたしはイタリアから来た身であり桜という日本人が花見に使う樹木があると知識では知っていたけれど実際にそれを見たことも花見をしたこともない。「そろそろ」などと言われてもわかるはずがなかった。それでやはり相槌は息の抜けるようなものとなる。僕が昔住んでいたところ、並盛って言うんだけど、そこにね、すごくいい花見の場所があるんだよ。中学のときにそこで草食動物と争って、桜にはいい思い出がないんだけど。っていうか、むしろ嫌いなんだよね。嫌な思い出ばかりある。でも春になると、見たいと思ってしまう。なぜだろうね。云々。つまんないなあ、はやく帰りたい。そう頭に浮かんだ瞬間、彼は振り向いてつまらないかいとまた笑った。咄嗟にそんなことはありませんと口から出たけれど嘘であることは明白で、もちろんそんな嘘の通じない彼は笑みを浮かべたまま。彼は恐ろしくなかったけれど、彼の浮かべる笑顔が恐ろしかった。そこから繰り出される象をも叩き伏せる一撃よりも、まったく笑っていない目のほうがずっと怖かった。
「きみ、桜を見たことがないでしょ」
「ええ、まあ」
「今度一緒に行こうか」
「え?」
その年は彼が急遽イタリアに行くこととなったので、桜を見ることはできなかった。翌年もこの前もおなじ。この頃からイタリアでの仕事が増えてきたので、彼は拠点をイタリアへと移した。彼はデスクで少し残念そうに今年も見られないな、と呟く。どうやらもう見ることは叶わないようだ。わたしには目がありません。
一年前。どういうわけかわたしたちはすっかり親密な、ただならぬ仲へと発展していた。九割方の仕事は彼と一緒にするようになっていた。この一年で彼はずっと柔らかくなったし、目の光も穏やかになった。わたしも彼の笑顔が恐ろしくはなくなって、それどころか、いつの間にか大好きになっていた。狭くて固い仮眠室のベッドにだから狭いというのにばかだなあと思いながらも二人で入って、狭いのも楽しかったり、人がいないのをいいことにすることしちゃったりなんかして、時計の秒針がカチカチ言う音と彼の鼓動だけが耳に響いた。夜眠るとき耳障りな秒針も、こんなときはわたしを眠りの淵へ誘う。はあ、と息を吐いてうつらうつらとしているわたしに彼はキスを降らせた。ひたい、ほほ、腕、くちびる、胸。今はどれももっていない。
「僕が背中を預けられるのはきみだけだよ。だからきみも僕に預けてね」
照れているんだ。だからそうやって、つっけんどんに言う。
三日前。わたしたちはおそらく世の他の恋人同士に比べればいささか冷めていたかもしれません。しかし愛とは温度ではないのです。燃える愛では火傷をしてしまうから、わたしたちはこれでよかった。彼はわたしに背中を預けて、わたしは彼に、ああ、おかしい。どうして。わたし、わたしには、預ける背中がないのです。それでもあなたを守ります。
数時間前。小さな箱に収まって、わたしはない目でぼんやりと辺で仕切られた天井を眺めていた。ふとその入り口に影が落ちて視界は暗くなり、ざとわたしは掬い上げられた。わたしを手の中に閉じ込めて、その手の主は走りだした。ぐらぐらとゆれて気分が悪い。母を呼ぼうとしたけれど口がないことに気がついた。おかあさんおかあさん。
「桜を見せてあげるよ」
手の隙間からほんの僅かにわたしが零れ落ちていた。
夏だというのに葉の一枚もつけない樹木が何本も立ち並んでいた。公園に子供は一人もいない。こんな季節に咲いているわけがない、そんなことはわかっていたはずだ。それにしても、ひどすぎる。どの樹木も力なく項垂れて、まるで彼のようだ。
「
依」ちからのない、なきそうな声だ。いつもの彼からはとても考えられなかった。
らしくないことをしたね、そう、彼が言った。口元がかすかに笑ったけれど、目はまったく笑っていない。生気が感じられない。ここ数日で、随分とやつれてしまったようにおもう。ひばり、彼の名を呼ぼうとした。喉がなかった。
風が吹いた。夏の終わりが近づいている。わたしの一部が流された。「
依、」そんな顔をしないで。あなたという人は、好きなひとをそんな顔で、そんな目で見るのですか。わたしの残骸はこの樹木に降り注いで花を咲かせることができる。一際大きな風が吹いて、わたしは彼の手を離れた。涼風、騒騒。
企画参加(タイトル同題)「
極彩色ビスクドール(携帯向)」
(08/04/26)