危ないから、と彼から貰ったのは小さな防犯ブザーだった。「並盛の中なら必ずこの音は僕に届くよ」小さな薄紫の本体に銀の留め具が刺さっている。軽く触れるだけでは留め具はぐらとも揺れなかった。試しに抜いてみようとして、思いとどまる。騒音は好きではない。好んで聴くこともあるまい。
そうしてわたしは彼を召喚するツールを手に入れた。これこそ後に並盛のバスターコールと人々から恐れられるようになったアレに他ならない。
彼が並盛中学校を卒業する気がまったくないことを早い段階に悟ったわたしは、とっとと電車で四駅遠くの私立の女子高へ進学することに決めた。高校生になって彼と一緒に登下校をする日々を夢見ていたのに。夢よさらば。叶わないから夢は夢と呼ぶのですね。そうして四月になって、わたしは四駅遠くの女子高に、彼は昨年度とも一昨年度とも変わらず学ランでバイクで並盛中学校へ登校し、気に食わない人々を咬み殺していく、といった生活がそれぞれ始まった。わたしの帰りはぐっと遅くなって、彼はなにも変わらなかった。防犯ブザーはずっとスクールバッグの底で眠っていた。使う予定も気持ちもなかった。わざわざこれを使って彼を呼ぶのはどんなときになるのか、十分に理解していたからだ。それでも結局使ってしまった。わたしの意志の弱さでもあるのか、悔やまれてならない。わたしは死屍累々、凄惨たる光景を前にゆっくり十字を切った。吐き気がする。宗教はどこも信仰していないのでうろ覚えの記憶のみから作られたまったくの我流であるのだけれど、こういったものは形でしかなく真に問われるべきは気持ちだろうから形なんて問題ない。どうせ誰も見てはいない。青い顔をした通行人は、こちらを少しも気に留めていないようなふりをして足早に通り過ぎていく。彼は振り返ると飛び散った血を拭ってにこりと笑った。通行人がどんなひどい顔をして彼を見ようとも、不良からわたしを助けてくれた彼はヒーローに他ならない。耳の奥ではまだ防犯ブザーが鳴っているように感じられた。そのブザーを貰ったのはもう三年も前のことであったので、三年越しで初めて鳴らしてもすぐに駆けつけてきてくれた彼にわたしはどうしようもなく愛を感じた。思わず、大丈夫かい、と近づいてきた彼に抱きついた。鉄のにおいがする。わたしに絡んできた不良たちは、きっと彼に恨みを持っていたのだろう。まわらない頭でそれでも無我夢中で留め具を引き抜くとすぐに頭を奥深くまでブザーの音は入り込んできた。ぐしゃぐしゃとブザーに頭の中をかきまわされながら、もしかしたら彼は来ないかもしれない、わたしはこのまま彼らから殴る蹴るの暴行を受けるのかもしれない、と考え更に頭が痛くなった。しかしそこは杞憂。正確な時間感覚はなかったけれど、数秒だ。颯爽と登場した彼はわたしの最も近くにいた男の後頭部をトンファーで殴りつけると、ぼかすかと不良たちを全て調理してしまった。一分にも満たないことだった。
抱きついてきたわたしを支えて、恐ろしく細く優しい手で彼はわたしの頭を撫でると、また恐ろしく優しい声で「大丈夫だったかい」と問うのだ。何度も頷くとその度に血のにおいが鼻腔を掠めた。それにどうしようもない吐き気を感じながらもわたしは彼から離れられなかった。血の飛んで汚れた元白のワイシャツに顔をくっつけてめそめそと鼻をすする。彼はわたしの背と頭にそのしなやかな腕をまわしてわたしを抱きしめると、わたしの耳元でドラマのように悲痛と安堵のほどよく調合された声で無事でよかったと囁いた。そして耳をきつく噛まれる。あまりの痛さにう、と漏れた声は嗚咽に紛れて消えた。わたしを離すと手腕を絡めて帰ろう、と彼は言う。帰った先になにがあるのかはわかりきったことだった。わたしの兄は美しい。しかし気違いだ。そして、わたしは彼に愛されている。
高校生活において問題がひとつだけあった。とても重大な問題だ。学年に一人だけ、わたしの他に並盛中から進学してきた子がいたのだ。さらに不運なことに、彼女はわたし中三で仲たがいをするまで同じクラスの同じ仲良しグループに所属していて、高校でもそうなった。彼女はわたしの兄のことを知っていたし、中学の時分に起こったそれにまつわる様々なことも知っていた。そのことを同じグループの子らにべらべらと打ち明けるほど彼女は軽率でもなかったが、わたしを見る目が明らかに他の子と異なっていることもまた事実だった。仕方がないのでわたしはグループの子たちに内々に彼女とは中学が同じで、少々いざこざがあったからあまり仲が良くないのだとほらを吹いた。屈託ない彼女らはそれを信用して、初めはわたしと彼女を仲直りさせようともしてきたけれど時が経てば、あまりわたしたちに関しては気にしないようになった。そのほうが有り難い。互いに中学のことはなるべく触れないようにした。
そうして学校生活の中に大きな不穏分子を抱えながらも、わたしはそれなりの高校生活を送っていた。家に帰れば兄に愛の言葉を囁かれては抱かれた。その度にお母さんには秘密ねと約束を交わした。誰も知らないけれど、わたしと兄は愛し合っているのだ。おそろしいはなし。
とにかくわたしの周りは問題だらけではあったけれど、それでもうまくやっていた。望みは兄がかなえてくれる。不自由のない人生だ。それはいとも簡単に壊れてしまった。わたしが学校に着くのは八時二十五分、予鈴が鳴るか否かと言ったギリギリのところである。違和は昇降口から存在していた。遠目に見てもわかる、昇降口の硝子扉は真っ白であった。事務の人や用務員のおじさんと、教師たちがその白を剥がしていたけれどまだまだ白い部分が残っている。べり、と硝子を埋め尽くす紙を一枚手に取った。すぐにさっと血の気が引いた。そこに書かれていた概要は、言わずとも凡そ見当がつくだろう。文面は「雲雀
柚清に関わるな、雲雀恭弥に殺されたくないのなら」と結ばれていた。本鈴が鳴る。教室に行かなければ。まだ、勝算はあった。この段階でわたしは被害者なのである。例の紙は校舎の至るところで見られた。
結論のみを言ってしまえば、結局、わたしは負けた。一旦話が広まってしまえば雲雀恭弥の名を知る人は少なくなく、また、仲間内に中学時代を知る人がいたのは痛かった。これだけで決め付けるのは早計だろうと考えていたが、やはり、あの紙を作りばら撒いたのは同じグループの彼女であるようだった。彼女は上手に青い顔をしてみせた。わたしのいないところで、きっと中学時代の凄惨な事件について話しているのだろう。言い逃れなどできようか。実際、人が一人死んでいる。初めはこんな悪戯を気にすることはないと言ってくれた友達も、そのことを知りなんとなく距離を置くようになっていた。並盛で中学生が一人病院から行方不明になった話は、怪談として残っていたのだ。兄について幾らか知る者は、その中学生は兄からの暴行を受け入院し、止めを刺したのかそのまま死んでしまったのかは定かではないが、死体は内々に兄によって処理されたのだと、自然に考えられた。兄を知らぬ人々はそんな馬鹿な、と笑っていたが、それでも知る人の脅えようになにか感じたのか、どちらにせよわざわざわたしの傍に付こうなどという奇特な者はいなかった。校内で孤立してしまっても、なにも感じなかった。わたしを苛めるような馬鹿な真似をする人も当然いない。報復を考えればそんな軽率なことはできない。誰がわたしの前を去ろうと悲しくはなかった。わたしには彼がいるのだから。
「学校は楽しいかい」
定例のような質問に、意識せずに左手が震えた。右手は彼の血塗れの手の中で大人しくしている。
「うん、楽しいよ」
「最近あまり出かけないようだけど」
追い討ちをかけるような質問に言葉が詰まる。上目がちに彼を見上げると、平生の無表情でこちらを見ていた。怪しんでいるようには見えない。訊いてみただけだろう。
「だめかな」「駄目じゃないよ。寧ろいい」「友達より、恭弥くんと一緒にいたいの」
悲しそうな声をだして再び見上げた彼の顔が満更でもなさそうであったので安心する。男は馬鹿だ。時折、彼はどうしようもないナルシストなのだと思う。自分と同じ顔をした女が好きだなんて。そしてわたしは彼女と同種の人間なのだとわかる。
「それにしても」「うん」「このところ、妙に多いね」
多い、というのがなにのことを指すのかはすぐに察しがついた。初めて不良に絡まれてから、二週間と間隔を空けずに不良から絡まれる。その度にわたしは防犯ブザーを鳴らす。彼はすぐにやって来て不良たちを薙ぎ倒す。その度にわたしは倒れた不良と血を見なければならない。血は嫌いだ。暴力も嫌いだ。正義はとても血なまぐさい。わたしが血のにおいに吐き気を催す度に、彼は大丈夫かと微笑み手を伸ばす。わたしはその手を取って、彼と二人で家路に着く。両親は共働きで昼間はいない。家に着けばすぐに抱かれる。もう何度その行程を繰り返したか。永遠のように思われた。
例の中学が同じだった彼女のことは、本当によく知っていた。中三の夏までは、仲が良かったのだ。彼女とは小学校も同じで、つまり知り合ってから十年にもなるけれど、わたしは彼女が学校を休むのを見たことがなかった。遅刻だって一度もしたことはない。ホームルームが始まっても彼女は現れず、いやな胸騒ぎがした。先生は風邪らしいと言ったけれど信用できない。ホームルームが終わるとすぐに並盛病院へ電話した。絶対使わないと思ったけれど近隣の施設の電話番号は携帯に入れておいたのだ。電話帳の件数稼ぎに。雲雀恭弥の妹です、とそれだけ言えばすぐに院長へ取り次がれた。別に取り次がなくていいんだけどな。彼女の名を告げて、入院していないかと訊ねればすぐに答えが返ってきた。さんまるに、と頭の中に刻み付けて鞄も持たずに学校を出る。いやな予感は的中した。その間も院長は患者の容態についてつらつらとカルテを読んだ。メインの怪我は骨折、打撲。意識はある、それだけわかれば十分だ。話ができればそれでいい。電車で四駅、なりふり構ってもいられないのでタクシーに乗って病院へ辿りついた。走るわたしに看護婦さんが注意をしたけれどわたしの顔を見て口を噤んだ。それくらいにわたしたちは似ているのだ。この世界はどうかしている。エレベーターは来るまで時間が掛かりそうだったので階段を駆け上がる。息が上がった。髪が乱れてたらやだな。三階に出て、部屋をひとつずつ見ていく。302、ここだ。扉を開く。
「まだ、面会時間じゃないわよ」
ミイラかよって突っ込みたいくらい包帯だらけになった彼女はこちらを見た。右目にはガーゼが当てられ頭や顔の一部にまで包帯は及んでいたけれど、左目はその隙間から窺えた。
「許さないから」
開け放たれた窓から差し込む風が汗を冷やした。身体がどんどん冷えていく。「許さない」もう一度、彼女は繰り返した。彼女は包帯塗れの妖怪のようでまるで惨めな姿だったけれど気丈に告げる姿はどこか美しかった。勿論わたしのほうが美しいことは言うまでもないけれど。
「どうして」
「あんたのせいで、お兄ちゃんは歩けなくなったのよ」
へえそうなの、と返したくなるのを抑える。そんなお涙頂戴の同情を誘う話なんてテレビだけで十分だ。だれのせいだって? わたし?
「なんのこと」
「とぼけないでよ!」
叫び声が耳の奥の頭まで痛めた。彼女も傷に響いたらしく顔を顰める。一呼吸、休みをおいて彼女は口を開いた。
「お兄ちゃんに聞いたのよ。あんたが自分から不良にぶつかって、絡まれたところで雲雀恭弥を呼んで潰させてるって」
「そんな、適当なこと」
「適当じゃないわ。あんたはまだ、高橋くんが殺されたことを引きずってる。すぐ傍にいながら雲雀恭弥を、兄を止められなかったことに責任を感じてる。だから、繰り返す。それは贖罪のつもりなの? 間違ってる、そんなこと」
「意味がわからない。なんで、わたしが高橋くんのことを引きずって不良を貶めるわけ。関係ないし」
「ただの憂さ晴らしなのかとも思ったけどね。わたしは、平和主義のあんたが暴力を目の当たりにすることで当時に立ち返ろうとしている気がする」
「考えすぎだ。そんなこと、考えてない」
「雲雀恭弥と話した。あんたについて。この怪我、見ればわかると思うけど」
「どこまで、どこまで話したの」
「どこまでって、そんなの」
「おしえて。場合によっては、学校も」
「まさか、」
「それでもだよ、そういう人だ、あの人は、そういう人なんだ。まさかって、ことをする。高橋くんのときだって、まさか、それだけのことで、こ、ころして、しまう、なん、て」
高橋くんは、中総体のあと、夏の前のころに彼の暴行を受けた。意識はなく、すぐにこの病院へ運ばれた。彼はこの病院を支配している。本当に、治療が行われたのかも定かではない。ともかく、高橋くんはその日の夜、日付の変わるころに死亡した。高橋くんが彼に殺される理由はひとつしかなかった。なぜ、彼がそのことを知ってしまったのかは、わからない。
「わたしが学校で一人のことは、」
「い、言った。無視されてるって」
彼女は演技でなく包帯と同じくらい真っ青な顔をしていた。きっと、わたしもだ。
心臓がばくばくと鳴って本当に口から飛び出してしまいそうだった。わたしは元来た道を全速力で走った。看護婦さんはもうわたしを注意はしなかった。なんとかタクシーを捕まえて、駅に戻る。電車がなかなか来なくていらいらした。その間に電話をかける。学校も、彼も、繋がらなかった。やっと来た電車に乗って四駅、電車を降りて、また走る。走りながら、色々なことを考えた。いやでも思考が頭を巡る。だいいち、生徒すべてを咬み殺すなんて無茶な話。いくら彼だって。それに女子高だよ。そんな、年頃の女の子に暴力を振るうなんて。思い過ごしであればいいと思った。しかし現に彼女は彼に咬み殺されたし、今は授業時間であるはずなのに、校舎へ近づくにつれて同じ制服を着た人たちとすれ違う数が増えた。彼女らは皆青い顔をし、涙を流す者も居、校舎へ戻ろうとして止められている者もいた。わたしに気づいた者は憎悪の視線を向けてきた。推測は確信と変える他なかった。「どうして、こんな」状況を把握し切れていない一人の声が、すれ違い様に胸に響いた。涙が視界を滲ませたけれど、今は走らなければと涙を拭った。校門と昇降口は逃げ惑う人でごった返していた。顔を見られないように伏せて、流れに逆らって進む。靴も換えずに校舎内へ上がりこんだ。下駄箱を出てすぐに、女の子が身体を丸めて倒れていた。綺麗に脱色された髪が乱れて顔は見えない。荷物が辺りに散らばっていた。恐らく遅刻をしてきたところに、運悪く彼と鉢合わせてしまったのだろう。涙がでてきた。今度はもう、拭う気も起こらなかった。ポケットから携帯を取り出して並盛病院にリダイヤルし、救急車をたくさん呼んだ。たくさんとすぐにを強調したけれど、並盛病院にある救急車をすべて出動させても、きっと間に合わないだろう。泣きながら廊下を進み、階段を上がる。その間にも、ぽつぽつと人が倒れていた。いやでも嗚咽が口から漏れて、涙も鼻水も構わずに腕で拭う。拭っても拭ってもわたしの顔はべちゃべちゃのどろどろだった。
わたしの席に、彼は凭れかかっていた。「やあ、待ってたよ」珍しく、嬉しそうな顔だ。窓の向こうの青空とこの光景の凄惨さが似合わなくておかしかった。吐き気がする。
「たくさん逃がしてしまった。許してくれるかい」
本当に申し訳のなさそうな顔をして、彼はわたしを見る。涙と鼻水で汚れた顔を恥ずかしいと隠す余裕なんてなかった。彼の持つトンファーから血が滴り落ちている。
「君が寂しい思いをしていたのに、気がつけなくてごめん。僕は悪い兄だ」
救急車のサイレンが遠くで聞こえた。わたしはどうしたらいいかわからなくてとりあえず首を横に振った。どう考えてもいいとか悪いとかそういう話ではなく、そういう問題でもなかった。
「だけど安心して。誰が君の前から去ろうと、僕だけは君の傍にいる」
この人は頭がおかしいんだ。そんなことは、もうずっと前からわかっていた。高橋くんが殺されてしまうよりもずっと前から。おかしいと、わかっているのに突き放せないのは、わたしも彼を愛しているからなのだろうか。そもそも彼はわたしを本当に愛しているのだろうか。こんな身勝手な愛が本当に存在していいのだろうか。そんな質問があったならばわたしは声を大にして否と言いたい。あなたは嘘吐きだ。なんてひどい人か。「死ぬまで離さない」死刑宣告のようだった。この台詞を聞いたのは高橋くんについてのとき以来だ。わたしは長い一生を思ってぞっとした。夏目漱石の「こころ」の一節を思い出した。風が吹いて彼の髪や肩にかけた学ランがはためいた。彼は美しい。しかし狂っている。わたしは彼に囚われている。囚われ続ける。しかしいつかは捨てられる。彼はいつか、この人と結婚するのだと女を連れ帰ってくる。その日を想像するだけで、わたしは叫びだしたくなる。これは愛なのだろうか。けれどわたしはわたしの世界を壊す彼をこの上なく憎んでいる。壊されてしまうくらいなら初めから作らなければいいのだ。彼だけになればいい。しかしできない。いつか彼が、わたしの前から消えてしまうのが恐ろしい。
扉を開けると沢田くんが立っていた。さ、とまで言いかけて、ボス、と言い直す。沢田くんがわざわざ家へ訪ねてくるなんて初めてだ。ボンゴレのボスが一人で出歩くなんて。完全にプライベートだというアピールなのだろうか。
「どうしました」
「急で悪いけど、ずっと考えていたことなんだ。ごめん」
なんだなんの話かまったく見当がつきません。ただ恐ろしい予感がしてわたしは後退った。折角、この十年ちかく、平和に暮らしていた、のに、
「アメリカに飛んでくれ」
「アメリカ?」
それで、合点がいった。沢田くんはわたしを彼から逃がそうとしている。
「日本や、ヨーロッパには二度と来てはだめだ、見つかる可能性がある。ヒバリさんには長い仕事を任せているから当分日本から帰ってこない。今がチャンスなんだ。今まで暮らしてきた家や、友達を捨てさせることになってしまうのは悪いけど、ヒバリさんから逃げられるのは今しか」
「いや」
考えるより先に口から滑り落ちていた。そんな夢みたいな話、信じられるはずがなかった。
「きみはヒバリさんに一生を奪われていいのか!」
そんな、わかりきったことだ。彼からは逃げられない。昔の気弱さは微塵も感じさせない気迫で沢田くんはわたしの肩を掴んだ。
は、と沢田くんは固まったわたしを見て、ごめんと再び謝った。人のいいところは昔と少しも変わっていない。驕っているかもしれないが、誰の目に見てもかわいそうなわたしを沢田くんが気にかけないはずがなかった。
「彼に探されることはない。これもきみには悪いけど……きみは死んだということにさせて貰う。日本の墓に入れる骨も用意してあるし、計画は完璧なんだ」
「その想定の百倍くらい、彼はしつこいのよ」
「行く気はあるんだね」
「……ないわ」
一日待つ、と残して沢田くんは帰っていった。通りに長いリムジンが止まっていて、極寺くんが慌てて車を降りて扉を開けるのが見えた。
なんだかぐったりしてしまって、部屋に戻るとベッドへダイブした。彼が仕事でここを出たのは三日も前で、沢田くんも言ったように今回は暫く帰れないと言っていた。わたしはそれを聞いたときの気持ちを思い出そうと努力してみた。しかし少しも思い出せなかった。日本からここへ帰ってきて、わたしの死を聞いたら彼はどうなるのだろうか。どうするのだろうか。彼はわたしを拘束する枷だ。なのに手放されたくない、手放したくない。それを愛とはとても呼べない。わたしは一人で生きる術を忘れてしまった、それだけなんだ。シーツが涙に濡れている。わたしは懐かしき防犯ブザーに手をかけた。
メーデーメーデー、聞こえますか
title by
夜風にまたがるニルバーナ(携帯向)
企画参加(タイトル同題)「
そして僕らの朝が来る(携帯向)」
(08/11/02)