コツコツとペンを走らせる音、校庭と階下からの喧騒、うわ言のような彼女の呟き。喧騒は潰したくなるが並盛はいつも通り至って平和だ。机に背を向けたソファに寝転んでいる彼女の姿は見えない。薄汚れた靴下を履いた足の先だけが端から飛び出ている。呟きはやまない。
廿楽さん、うるさいよ」
「咬み殺しますか」
「黙らないなら」
「そうですか、なら、黙りません。だから殺してください」
「仕事が終わったらね」
 はやくと急かす声は無視して手を動かす。階下で一際大きな音が上がった。また群れが騒いでいるのだろう。うるさいな、巡回も兼ねて咬み殺しに行こうか。しかしここに彼女を一人残していくのも気が引ける。“気が引ける”なんて、僕が。笑っちゃうな、なんだいそれは。冗談にしては随分つまらない。
 はやく、はやくころしてください、と力なく呟いてそれきり彼女は黙った。結局黙るんじゃないか。ペンが机を叩いて滑る。流石に腕が疲れてきた。息を吐いて、顔を上げる。薄汚れた靴下と上靴。点々と零れた血はすっかり乾いたらしく黒く変色していた。見慣れた色だが禍禍しい。どんなに見慣れていても、あの色は彼女には似合わない。再び書類と向き合って、字を目で追い始める。ワイシャツや靴下を染める黒。意味もなく繰り返される呟き、絶対領域に見え隠れするむらさき黄色、赤、青ちゃいろ。音も画も頭をちらついて離れない。べつに特別、彼女が今目の前にいるからというわけではない。このところ、常にだ。
 一度霧散した集中力はもう暫くは戻ってこない。やらなければならないことは腐るほどあるのに。事務仕事だけなんてしていられない、草食動物を咬み殺すのも僕の仕事であり趣味だ。ストレスの解消にもなる。彼女といると僕はおかしい。苛々するのに、咬み殺す気は殺がれる。そもそもそうする理由もない。先刻だってああ言いはしたが、彼女の声なんて階下や外から飛んでくる大声に比べればずっと静かなものだ。しっかりと認識さえしなければ耳にだって優しい。負荷を失った椅子がぎし、と鳴いた。気配を察知するという類の技術はなにも持たない彼女は、近づいて上から覗き込んでも顔を上げようとする気配はなかった。気付いていないのだろう。表情は髪で隠れていて見えない。これは、ぎりぎりだな。肩についてるじゃないか。結んだほうがいい、校則としては。私的な意見で言えば、きっとこうしているほうが似合う。
「眠ってるの」
 なにとなく肩を軽く叩いて声をかけると、びくりと大げさに身体を跳ねさせソファの端まで後退られた。なんだ、その触るなみたいな反応は。失礼じゃないか。ただでさえ機嫌のよくない顔が更に不機嫌になっていることは自分でもよくわかる。
「しごと、終わったんですか」
「まだだよ。少し休む」
「あ。ソファ、使いますか」僕が答えるよりも早く、彼女はその上から退いた。眠くもないし、昼寝をするつもりはない。立ち上がった彼女の手を取り、抵抗されるより先に引き寄せた。細く弱い身体は素直に傾く。
「ひばり、さ」
 それはとても拒絶というには温すぎた。そう形容してしまうにはあまりにも意志を伴っていなかった。
 いつから。そういえば、いつからだっただろう。少なくとも数ヶ月前の彼女はこんなふうではなかったはずだ。いつでもにこにこと阿呆みたいに笑っていたし、よく泣いたし、怒りもした。そのうるささに翻弄されて苛々した。やっとこのところ静かになって安心したと思ったのに、気がつけば僕は以前よりも苛々している。笑わないんだ。泣きもしないし、怒りもしない。
 まず笑うことが目に見えて減った。あっても見るに堪えないほど弱弱しいものばかり。怒ることはなくなった。次に驚くほどよく泣いた。応接室に来ては僕がいることも気にせずぼろぼろと涙を零し弱音を垂らした。応接室は毎日彼女が吐き出す言葉たち(ひばりさんひばりさんわたしはこれからどうすればいいんですか、つらいです、それに痛いです)と僕の持つペンが字を生み出す音で満たされた。それからほどなくして、泣くことも弱音を吐くこともなくなった。
 それを見たとき、まず不良の群れを思い出した。弱いくせに集まって、強がって粋がっているやつら。つまり彼女もそれと同じになった。群れていないだけ。けれども彼女のそれは、そんな軟弱共のものとは違う光があった。お世辞にも希望とは言えなさそうな、すべてを拒む鋭利な光。僕はその色が好きだった。もうなくなってしまったけれど。
廿楽さん」
 そういった経緯で、彼女は笑いも泣きも怒りもしなくなった。感情という感情が抜け落ちてただ空虚だけが彼女の中を満たしてなのにまだ足りないと言わんばかりに今尚膨らみ続けていた。泣かれるのは苛ついた。怒られるのも気に喰わなかったし、笑われるとなんだか居心地悪かった。すべてなくなった今、泣かれる以上に苛ついている。なにに苛ついているのかもよくわからないが、彼女といると彼女のことを考えるとそうなるんだから、多分彼女に苛ついているんだろう。どうしてこんなにも情緒不安定なんだ僕は。
 僕が強く掴んだ手をなんとか振り払おうと彼女が身動ぎする。痛いのだろうか。痛いらしい。「廿楽さん」
 理解するより早く腕が学ランの中に忍ばせてあるトンファーへと向いた。次いでごつりと鈍い音。先刻引き寄せたのとは比べものにならない力を加えられた彼女の身体は重力に従って床へと吸い寄せられてべしゃりと倒れる。やっと泣いた。




僕は恋なんてしない


恋する動詞 63.誤魔化す「確かに恋だった
企画参加「何度でも君に恋をする(携帯向)」
(08/03/05)