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聞き覚えのある無理をしたような高音が後ろから飛んできた。無視したかったがあからさまに名前を呼んでいるし、このままじゃ抱擁もといタックルされる。冗談じゃねえ。懐に手を忍ばせ手によく馴染むナイフを握った。振り返るその一瞬で照準を合わせナイフを放る。 「ちょっとお、ベルちゃん! 危ないじゃない!」「うるせーし。あんた誰」「ひっどおい!」 ごちゃごちゃと騒ぎ立てるが元の音が低いだけ女のそれよりはずっとマシか。しかし裏返った声は女の矯正よか耳に突かない代わりに最高に苛つく。暫くぶりでもその声を始め、奇抜な髪型といい筋肉を強調した見ているだけで暑苦しいファッションといい、なにひとつ変わっていなかった。全然嬉しくない。むしろ変わっていて欲しかった。まず出来ることなら二度と見たくなかった。 「リハビリとかさ、頑張ってたのか知らねえけど遅いよ。もう埋まってるし、晴の席」 「うそお! って、なによ。ちゃんと覚えてるんじゃないの」 「王子の記憶力なめんじゃねー。だいったい一年とかなに、巫山戯すぎ。ヴァリアークオリティはどうしたよ」 「これでも早いほうなのよ。良くて三年、悪ければ一生杖なしじゃ歩けないって言われたんだから」 「そっちの事情なんて知らないね。こっちの時間は通常通りに回ってんだし。 ナイスタイミング、いやバットタイミング? 今日の夕食後、幹部はボスの部屋に集合だってさ。病み上がりなのに災難、近々面倒な任務が入るらしいぜ」 「えっ、じゃあ」 「あーうるさいうるさい、オレはこれから任務なの。ボスならいつもの部屋。さっさと消えろ」 「なによ、席、埋まってるなんて嘘なんじゃない」 情けないくらい安心した声を吐く。あーあ、随分と白い空気に毒されたもんだ。平和ボケを垂れ流しやがって。いちいち感情なんて吐露してたら死ぬっつーの。これはきっとボスに殴られる。ここより黒い場所はない。なんてったって暗殺部隊、イコール面倒ごと及び汚物処理班だ。なぜ、こいつはわざわざここに戻ってきたのか。愚問。 「……当たり前じゃん、一年くらい。オレたちは八年も待ったんだ、し」 いつもよりいささか慌しい空気が辺りを満たしていた。いつもどおり働いているはずの召使たちもどこか急いでいるように見える。 「なにかあるんでしょうか」 山になった書類を抱えて廊下を急ぐ召使を目で追いながら、パンを齧った。正面に座るミレさんは一口大にパンを千切って、その欠片を租借する。慣れているのか周りを気にする様子もなかった。同じものを食べているはずなのに、わたしなんかよりずっと優雅で綺麗だ。なんだか羨ましくて、わたしもなるべくきょろきょろしないよう気をつけてみる。ふと目に止めた彼女の唇の端にまだ新しい切り傷があった。どうやらボスは相変らずなようだ。こんなにも完璧に美しいひとさえ躊躇いなく傷つけるとは。ぎゃくにすごい。優しいボスも怖いけれど、彼女やスクアーロさんのような暴力の犠牲者を目の当たりにすると心苦しい。同時に自分はその標的になっていないことに少なからず安堵する。さいていだ。 「えーと、あの、ミレさんは、なにがあるのかご存知ですか」 「いいえ、知らないわ」「そうですか……」 最近ようやく拙いながら日常会話レベルには使えるようになってきたフランス語を駆使して、彼女とコミュニケーションを取る。彼女もそれを汲んでかゆっくり発音するようにしてくれているみたいだ。語学はやはり実践で学ぶのが一番。ボスもそこのところはわかってくれているのか、わたしが彼女と無駄話をしていても多少は大目に見ていてくれる。暇なときなら。 「……リング争奪戦のときは、もっと慌しかった」 「りんぐそうだつせん」「うん」 「戦争かなにかですか」「そこまで激しいものではなかったと思うけれど、わたしも詳しくは知らない」繊細な装飾を施されたティーカップに白く細い腕が伸びる。彼女の入った風景はなにもかも映画のようだ。 「いつも詳しい話は聞かされない。わたしはただの、ザンザス様のペットだから」 長く色素の薄い睫毛が伏せられる。口元には自嘲気味な笑みが浮かんでいた。持ちはしたものの飲む気配のない彼女の手の中で甘い薄茶の水面が波打った。 顔も上げず彼女はこんなこと言われてもこまりますよね、忘れてくださいと僅かに早口になって呟いた。しかし既にわたしは彼女にひどく同情していた。無意識のうちに否定するような言葉を並べ立てて吐き出していた。いや、ちがう。ちがわないのだけど、これは薄っぺらいものとはちがう。 「わたしもです」 はと彼女が顔を上げて、目を丸くしてわたしを見た。なにか言いたそうに口を開いて閉じて、拗ねたこどものような表情をした。彼女は同情ならば既に両手で抱え切れないほどたくさんの人から受け取っているはずだ。そしてそれとは比べものにならないほどの嫉妬と羨望も。 「……それでも事務として働いている以上、あなたは少しくらい話を聞けるはずです」 「あ、ええと、そうじゃなくて、」口調が鈍る。いやに口が重い。開くことを億劫がる。本当は、あのひとの名を呼ぶのもいやなのだ。嫌いではない。憎むべきなのだろうけれど、もうそうする気も起こらない。たまに可哀相な人だとすら思う。しかし好きにもなれない。あたりまえだ、あんなことを何度もされて。好きになんてなれるはずがない。 「わたしもおなじで、いいえ、それ以下です」 急に彼が拾ってきたわたしを、ここの人たちは誤解しているようだった。それは偏にわたしの特異性を知らないからなのだろうけど、それを除いたって。とんでもない、有り得ない、そんなこと。わたしは彼の前で人間ではない。ただのものだ。玩具以下だ。死ななかったから、殺すために傍に置いた。何度もわたしは切り刻まれる。彼の望みどおりに殺されて、命を持たないただのものになるまで。もしくはどうでもよくなるまで。 「彼はわたしになにも話してはくれません」まず話して欲しいこともないのだ。二人で大人しく会話をすることなんて滅多にない。思い出したように外に連れ出されて、悪態を吐きながらナイフをチラつかせて、なのに極稀にふと優しくしたり王子のくせに買ったものを持ったりするから理解が追いつかない。優しくするなと言ったことはない。腹を立てそうだし、そうじゃなくても面白がってもっとしてきそうだからだ。 彼女が純粋な目で不思議そうに首を傾げた。わたしも彼女のように清らかに生きられたら。 取り繕った笑顔が引き攣って、淡茶の水面が不自然に揺れる。ティースプーンの銀に月光を受けて光るティアラを彷彿とさせられて、軽く吐き気を催した。 ミルクティーと憂鬱 |