またか。
 ほどよい装飾が施された扉を叩くべく腕を上げたところで気がつく。厚い隔たりを介して尚、よく通る声が廊下まで漏れている。耳障りだ。
 扉と湯気を立てている食事を何度か交互に見てから、意を決して扉を叩いた。ここの扉は庶民出のわたしには理解できないくらい厚い。強めに二回。返事はない。いつものことだ。気にせずわたしは重い扉を開く。
「ザンザス様、昼食です」やはり返事はない。
 止まない声を聞きながら、カートを押してテーブルの上にいつものように食事を並べる。何人用か問いたくなるほど広いベッドは行為くらいじゃ軋まないらしい。今挿入しているなら直に終わるだろう、などと能天気に考えてフォークとナイフを並べる。こうなることを予測してバスタオルとシーツを持ってきておいてよかった。午後には会議があるのだし、セックスの直後に食事というのもあまり宜しくないだろう。一段落したところを見計らって、ザンザス様にバスタオルを渡した。大人しくシャワールームへ向かうのを確認すると、彼女をベッドの上から追い払ってシーツを剥ぎ取り新しいものを着け直す。脱ぎっぱなしだった彼の隊服を拾い集めて状態を見る。この服をそのままシャワールームの前に綺麗に畳んで置くか新しい服を出すか、そんな些細な決定もわたしの余命を大きく変え得る。彼が本気をだせば、わたしの頭など一蹴りで潰れて首の上から落ちるだろう。ああ怖い。
 悩んだ末ワイシャツと下着だけ新しいものを出し、他は皺だけ軽く伸ばして畳んで置いた。洗濯物はシーツと彼女の服と共にカート下段のバスケットに放る。ベッドにぼんやり座っていた彼女にクローゼットからだした服とタオルをザンザス様にそうするより幾分ぞんざいに渡すと、彼女は幼い子供のように笑って礼を言った。彼女は彼に飼われている。
 仕え始めたころは目の前で恥ずかしげもなく繰り広げられる行為や彼の引き締まったバランスのいい身体にどぎまぎして目のやり場にも困ったものだが、今ではすっかり慣れてしまった。ザンザス様に仕えてからわたしは徐々に無感情になった。同僚たちもそうだ。同僚たちははザンザス様に、と言うよりヴァリアーに、だろうけれど。常に死と隣り合わせ、平均すると三週に一人の召使が命を落とす。世の中じゃ通用しないような理由で。年齢を問わず情緒不安定な彼らの機嫌を損ねないよう、召使たちはいつも必死だ。他人を心配している余裕もないし、気紛れに虐げられる同僚に同情している暇もない。それでも夜、仕事を終えて共用の自室の扉を開けると皆同僚たちが人間であったことを思い出す。そして愚痴や噂話を交わし、明日の朝に支障が出ない程度にトランプゲームに興ずる。この時間だけが、彼らの唯一とも言えるストレス発散の場なのだろう。そして明朝目覚めて着替え、部屋を出れば夜のことはすべて忘れる。廊下でベルフェゴール様に見る影もなく切り裂かれている同僚を見ても、あとで暇ができたら片付けようと思うだけで他には特に感じない。たぶんこれはとても恐ろしいことだ。
 通り過ぎてだいぶ歩いてから、ずっと後ろで殺す価値もないと嘲笑う声が聞こえた。それを聞いてわたしがなにを思ったのかは覚えていない。


 珍しく仕事が夕方までなくなったので、一旦自室に戻ることにした。昼寝ができそうだ。このあとのスケジュールを考えながら、早足で部屋へと向かう。しかしある角に出て身体を傾けたところで足を止め、数歩下がった。
 わたしが進むべき方向の十数メートル先に彼女の背中があった。白い背中は足取りが覚束なく、ほとんど壁に寄りかかった状態だった。ここからじゃ、本当に進んでいるのかもわからない。聞いたことがある。普段ザンザス様の部屋に生存している彼女は、行為の最中に彼の機嫌を損ねると容赦なく部屋から締め出されるらしい。特に彼女が達する直前に。これは最早楽しんでるとしか思えない。締め出された彼女はなにも身に着けていない状態で、誰かに拾われる。平隊員にそんな出すぎた真似はできないから、結局拾うのは幹部の誰かだ。なんでもずば抜けて扱いがひどいのはレヴィ様とベルフェゴール様で、一番まともなのがスクアーロ様らしい。よくわからないが言われてみれば確かに、幹部の中ではスクアーロ様が一番殺しそのものには執着していないように見える。しかし、同僚たちもよくそんな事細かに知っているな。
 全裸でふらついている彼女の横を見て見ぬふりをして通り過ぎるのも居た堪れない。わたしはくるりと踵を返し、遠回りをすることにした。ぐるんと大回りをして、彼女が三叉路に出る前にそこを通り過ぎてしまうのだ。視界にさえ入れなければ、気がついていないふりは充分通る。すたすたとわたしは歩いた。方向転換してから一番最初の角を右に折れて、もう一度右に折れる。彼女がいた通りの角がぐんぐん近づいてくる。わたしは絨毯の複雑な模様を見ながら足を動かした。角にでる。すぐ近くに真白い影を認めて、思わずわたしは顔を動かしてしまった。「…………あ、」
 予想外に近くにいた彼女とばっちり目が合う。頬は紅潮し目はとろんとしたままだったけれど、彼女は少々慌てて腕で身体を隠そうとした。まったく無駄だ。少しも隠せていない。どうやら羞恥心は持っているらしい。
 いつもはろくに見ていない彼女の裸体をまじまじと見てしまう。太陽を知らない肌は雪よりも白く、労働を知らない手足は細すぎてちょっとザンザス様に触れられただけで折れてしまいそうだった。脇腹にはまだ記憶に新しい、大きな傷跡がある。いや、新しいと言ってももう一年以上経ったのか。これは彼女が彼に刺された痕だ。
 あの日、わたしが三時にエスプレッソを持っていったら真っ赤な血を流した彼女がベッドに仰向けに倒れていた。ザンザス様はそんなのはいつもの殴ったり足蹴にすることの一環だとでも言うように、いつもの通り書類に目を通しなにか書いたり判を押したりと事務仕事をしていられた。わたしは彼がそんな男だとわかっていたけれど、改めて頭の中でなんて男だろうと反芻してもう一度彼女を見た。肌とシーツの白と血の赤のコントラストはひどく鮮やかで、倒れた彼女があまりに美しくて、わたしは暫く人を呼ぶことも忘れ彼女に見入った。その静かに上下する胸の動きが鑑賞の妨害としか取れなくて、静止してしまえばいいのにとすら思った。きっとミレーのオフィーリアと同じ。彼女は数少ない美しく死ぬことができる、選ばれた人間だったのだ。
 彼の声で我に返った。シーツを染めるために血を失った彼女の顔は不健康に青く灰色になりつつある。美しさのピークを越えたから理性を取り戻しただけなのかもしれなかった。振り返り声の元を見ると、珍しくザンザス様と目が合った。そうして視線が交じるだけでも珍しい事象であるのだが、こともあろうに、彼は笑っていた。嘲笑とも微笑とも取れない見たことのない温度で。
 結局、彼女はこうして生きている。確かに彼女は今も充分すぎるほどに美しい。しかしその美しさはなににも残らない。彼女の死体は今も残っている。わたしと、恐らく彼の中に。
 わたしは同僚と生活している自室の扉を開いても、人間にはなれない。わたしは同僚と話さない。わたしが知る噂話は、どれも同じ部屋にいて自然と耳に入ってしまったものだ。部屋の中だけの友人なんて不確かすぎてだめだ。まだ、いつでも敵でいてくれる彼らのほうが信じられる。部屋がある程度静かになってから、わたしは布団に入る。そこで初めてわたしは人間になれるのだ。彼女の死体を思い出す。それから、彼の笑みを思い出す。
 わたしは腕を伸ばした。どんと両肩を突き飛ばされて、細い彼女は小さな悲鳴をあげてひっくり返った。わたしはそれに馬乗りになる。ほとんど衝動的に彼女の髪を引っ張り上を向かせる。彼との行為の余韻で依然真っ赤な彼女の顔は、驚きの表情を作っていた。完全に男を誘っている、この顔は、この目は。なんでもいいからはやく達したいと、目が急かしてせがんでいるのだ。わたしは小さく笑って顔を落とし、柔らかい彼女の唇を舐め上げた。同時に肩が小さく震える。勢いづいたわたしは左手で彼女の顎を固定すると唇を割って、口内へと舌を進入させた。内頬を舌の先でなぞる。生温くぬめる。行為の最中キスくらいするだろう。彼女の口の中のどこかに彼の細胞がひとつでも残っているかもしれない。わたしは彼を思い出す。
 そうか。なぜわたしが無感情を努めていたのかがわかった。羨みたく、なかったからだ。



しらじらしさと彼女の死体
―dying lady and hollow
(08/01/29)