11年10月30日発行「松永さんが宴で使用可能と聞いて嬉しくて嬉しくて爆発」より再録





 愚かなるは人の世か、あるいは生か。松永にはわからない。松永の知ることなど、世のすべてと比ぶれば芥子粒にも及ばない。それでいい。それがいい。すべてを知れば、この世のなにを楽しめようか。
 赤き闇を見上げながら、生まれて初めての空に久秀はいたく感心していた。空の表情は数あれど、久秀ほどの年も生きれば如何な顔も見飽きよう。染めるは男の暗黒と、これまで流した血の色か。地のみならず空までをも染めあげるとは、敬服の念を禁じ得ない。
 もう幾年前のことか、焼失したはずの本能寺は久秀の前にいつかと変わらず聳えている。その邪悪さを、以前よりも色濃くして。
 空気はぬるく、久秀の肌へまとわりついてはその魂を食らわんと欲す。その飢餓を等閑し、目を伏せ戦場の阿鼻叫喚へと聞き入った。数え切れぬ、数多の命がまた消える。人ならざる男の所業によって。否、消えてなどいないのだ。その命はひとつ残さず男の中へと取り込まれ、闇を形成するひとつとなる。それを糧に、男は幾度となく蘇ろう。第六天魔王、その呼び名に相応しき。人を捨て、ついに魔王と成り果てぬ。その生き方、いや、最早あれに生や死などはあるまい。その在り方に、人は慄き畏怖をする。しかし久秀から見れば。
「欺瞞、欺瞞」
 くつくつと喉の奥で笑い、腕を後ろへ組み背筋を伸ばした姿勢のまま、悠然と歩を進め始めた。目指すは旧き知人であった、人ならざる男の元へ。
 道程には幾多の兵が倒れ伏し、今やどれが味方で敵であるのかすら判然とせぬ。久秀の雇う傭兵たちも、よく働いたが片端から命を吸い取られていく。
「風魔」
 名を呼べばすぐさま漆黒の風と共に忍が現れた。ここへ進軍するにあたって、傍に置いていればなにかと便利だろうと改めて雇ったのだ。こうして久秀の傍にいる間、北条のことをどうしているのかは久秀の知るところでない。そもこの無表情な忍が、長年仕える主に如何様な感情を持っているのかは久秀にさえ推し測れない。
「烏合の衆を蹴散らし道を作ることは卿に任せよう。些事に労苦を削られるのは嫌いでね」
 こく、と頷くと再び風と共に忍は消えた。断末魔と呻き声の中を久秀は悠々と進んでいく。その絶叫がいとおしい。雑兵の一人として必死に生き、戦い、命を散らしていくのだ。なんと美しい生きざまか。
 突き当りへ辿り着くと、岩の道がせり出て久秀を最奥へと誘った。忍の働きだろう。期待通りの優秀さに満足しながら、奥へ奥へと進む。
 最奥の間、己が家紋を詛呪の陣とせんかのように、大きく家紋の浮かび上がる中央に男はいた。
 飛び降り、着地するとその手前に女がぺたりと座り込んでいるのが目に入る。その身体は弛緩し、俯いている。僅かにふらふらと揺れているので、死んではいない。尤もそれは身体機能の働くこと、それ自体を生と呼んだ場合の話。
「哀れなものだ。人は死に時を誤るとこうなる」
 哀れなどと、本当に思っているのかもあやしく空々しい口ぶりで呟く。
「わかるかね、風魔」
 姿のない、しかしどこかから必ず見ているだろう忍へと戯れに呼びかけた。答えがないのは常のこと。いつも久秀の話しかけることに、忍がなにを感じているのかはわからない。その言葉のひとつひとつが、玉の細瑕をこの寡黙な忍へと与えられているのなら、それだけで久秀は充足だ。
 傀儡は道具でありけして本懐にはならぬ。必要ならば使いはしよう。だがそれのみだ。
 紋の中央には、厳威溢るる高遠さで男が存する。その高遠は荘厳にあらず。人でない、その事実が人と男の間に圧倒的な距離を敷く。人はそれを昂然とも見紛おう。人が畏怖するは当然のこと、しかしそれを敬虔と通ずるはあまりに短慮のほどが過ぎる。死者は死者でしかないのだ。故に織田信長という器も、魂も、死者となった時点で信長たる価値を失する。屹然と立ち、久秀へ相対する死者の周りには瘴煙が立ち込めている。ぎらぎらと光る赤い目が、久秀を捕らえた。
「我、焦天を欲スル也。貴様、地比良を招く者か」
「いやはや、まこと畏れ入る」
 その威圧は久秀の初めて感ずるものであった。長く生きるほど新たなものと出会うも減ろう。今日はなんと幸いか、久秀の口端が歪む。織田信長の恐ろしさとは、同じ人であったからこそ。それでも人は恐れよう。生者は死者が怖ろしい。それが信長ではなくとも。
「旧きより、卿の気迫、力、どれも人のものを凌いでいたが、それでも卿の逝去を風に聞いたときは残念であり、無常でもあり、」
 皮肉めいた口ぶりをしてみせるが信長の表情はぴくりとも動かぬ。表さなかったのでも、久秀の言に特別感じることがなかったのでもない。そもそも、ものを感じることなどないのだろう。
「そして卿も人であったのだと、深く感じ入ったものだが、」
 ずぶりずぶりと地より出でし、剣と種子島を死者は持ち久秀へと向ける。
「戯れ、我は天魔王。人にあらず」
「まさか本当に、人でなくなるとは」
 死者の指先が引き金が引くと同時に久秀は駆け、腰の十束剣へ手をかける。その間も左腕は後ろへまわしたままであるので余裕なものだ。間合いへ入り剣を抜くが攻撃をすることよりも、その人あらざる存在を近くで観照したかったというのが本音だ。死者の剣先を正確にすべて払いながら、不躾に検分していく。その見た目は生者となにも変わらない。霊のように透けてもおらぬし、確かに物質的に存在していると見える。しかしその力も、技術も、生前とはてんで比べものにならぬ。人を捨てた、其が故の圧倒的な力。互いに損傷を与え合っているが、じりじりと久秀が圧されていく。
「かつての卿にならば、茶器を欲しがるような無邪気も残っていたのだがね」
 圧されたところで、それで負けるわけにはいかぬ。これは人間の、生きる者としての意地だ。
「貴様、余を識りて尚、はだかるか」
「だからこそだ。卿が手を下さずとも、いずれ世は朽ちる。その先に待つのは、卿の望むとおりの無だ。しかし……それは本当に卿の望みであるのか。私にはわからないな」
 がりりと死者の刃を止めようと、纏わる瘴煙が久秀の肌まで届いて焦がす。焦土を欲す、それがなにの望みであるか、何処より発生する欲であるのか、久秀にはわからない。この死者自身が望むのか、或いはその背に負う者か。
「現に縋る、それが卿の本意ではないにせよ……その在り方は見苦しい」
 単純な速さであれば、久秀のほうがよほど上だ。合わせた刃を弾き飛ばして切りつける。一撃目が胸を切り、そのまま続けざまに剣を振れば死者は瞬刻よろめいた。それを逃さず、重い一撃を叩きこむ。
「あまり私を失望させないでくれ」
 死者は現の物理原則に倣い、吹き飛ばされて背より落ちる。
 そこでやっと、久秀は己の感情を理解した。
 寂寥だ。
 織田信長。それは戦乱の世で久秀が目にした数多の将の中、唯一敬畏を感じ得た男だった。憐憫などを、向けられていい存在ではない。
 ならば、久秀になにができるか。
「あれももう少し、賢い男だと思っていたのだが」
 銀糸の長髪を振り乱し、狂喜を振り撒く愚者を脳裏に思い描く。恐らくすべてはあの男の目論見だろう。しかしその姿はここにはない。未だ辿り着いていないのか、既に滅されてしまったのかは定かでないが。
「或いは賢すぎたが由縁か。どちらにせよ、己すら欺くほどの怜悧とは考えものだ」
 現にこうして死者を現したのだから、男の手腕も確かだろう。だがそれがなにか。久秀は己を見つめる力のないものを、よしとしない。観賞には好いがそれのみだ。あれは愚者に違いない。信長を殺す、そのかりそめの欲に支配された、憐れな愚者だ。
 目前の怪異へと久秀は向き直る。これは死者ですらない。ものを話し、戦うことのできる人形だ。それは信長の嘲った、妹となにが違おうか。
「卿を今一度、草葉の陰へとお送りしよう。火葬ならば任せたまえ」
 背中にまわしていた左腕を、胸の前へと掲げた。その掌へ剣先をすべらせる。
「業火よ」
 浮かんだ炎は地面を走り、死者の身体を炎に包む。死者の重く低い、地の底から響くようなゆったりとした笑い声が辺りを覆った。先刻の斬撃と共に火薬を付着させた死者の身体はよく燃える。しかし人を焼くときの肉と脂の焦げる独特の臭いがたつことは、空が見飽きた色へと変わり、燃焼物を失った火が燻り消え果てるそのときまで、ついぞなかった。

「人は死ぬ。それこそが世の真理。
 私は卿に、人であって欲しいのだ」






焼け野原




(11/10/30)