13年5月4日発行「エンドロールは遥か遠く」より再録
それなりに穏やかな日々を生きている。
穏やかだ。穏やかも穏やかだ。まるっきりの平和だ。絵に描いたような。
「それなり」、この言葉の便利さと言えばすばらしい。毎日それなりに楽しく、それなりに不運でそれなりに苦労をして、そしてそれなりに幸福だ。それで十分である。と、思う。
思っているし、そう思いたい、とも思っている。それはつまり、頭と心臓で考えることが異なっているということだ。黒田官兵衛の、日々どくどくと勤勉に鼓動を刻む心臓は、これではなにかが不満らしい。
それではなにがいやなのだ。問えばなにもいやではないと言う。なにが不満か、問えばそれはわからぬと言う。どうにもらちがあかない。
そうしたわけで充足でありながら、なぜかしら、どこかもやもやとしたものを抱え日々を生きているのであった。
日の光に目が覚めて、あたたかい飯を食べて、面倒だと言いながらまなびやへと足を運び、友と笑い、あたたかい布団で眠る。
幸福、それは確かだ。
それではなにが足りんのだ?
心臓は答えない。
* * *
さて、先ほどにあれだけ幸福と言っておきながら手のひらを返すようになるが、黒田官兵衛のこれまでの生活はお世辞にもなにひとつ不自由のない順風満帆なものとは称し難い。
まず一等に古い記憶と言えば、母に向かい幼い彼が泣きじゃくる様となる。若く美しい(ように思う。実際の顔かたちは見た記憶としては残っていない)母が膝折り目線を合わせて、頭を撫でてくれている。その手のあたたかさが己はうれしいのであるが、どうにも意地が勝って泣きやむことができない。ほとほと強情であり性根がまがっていると思う。母のこまるさまが気味よいのだ。当の泣きはじめた理由など、すでに忘れてしまっているというのに。
そして次に見るのは母の葬式の光景だ。父はすっかり消沈し、祖母は嗚咽している。花に囲まれた遺影には、微笑む母の写真だ(これもやはり明確な顔は思い出せない)。
小学校にあがってからは、どこへ行ってもあまり馴染むことができなかった。片親と貧乏からか陰口や無視もあった。けれどいじめと呼ぶほど大層なものでもなかったと、官兵衛は感じている。
男手ひとつで官兵衛を育ててきた父は、高校の時分に倒れた。それを受けた官兵衛は学校へも行かずに働いて、バイト代のすべてを父方の祖父母へと渡した。雀の涙のような額である。手術をし、投薬をし、しかしその甲斐もなく、直に意識のない時間が長くなっていった。眠り続けて一月になるころに、祖父母の資金も精魂も果て、父の延命装置は止められた。
ふてくされて不登校になりかけた官兵衛の体をそれでも学校へ向かわせたのは、昔に父の言った話である。「おれは頭がわるい。それが今では恥ずかしい。恥ずかしいとは学歴だけではないぞ。人があたりまえに知るらしいことを知らないとき、おれは顔から火の出るような心地になるのだ。おまえは母さんに似て賢いこどもだから、それを伸ばして、どうかたくさん学びなさい」幸い勉強は得意であったし、学ぶことも好きだった。父の言葉がなくとも、可能であれば大学の進学も志しただろう。しかしこれがなければ、祖父母の反対をおしてまで進学したかはわからぬ。
現在は奨学金を取って、寮に暮らしながら大学へと通っている。四畳半の一人部屋、風呂トイレは共同、電気ガス水道使い放題で、しめて月五千円也。ビバ税金。今にも崩れおちそうで、外壁に亀裂が入り、雨の漏るなどさしたる問題ではない。古くとも、汚くとも、ここが今の官兵衛の居城である。
音の発信源へ、手を伸ばす。むなしく二度空振ってから、三度目の正直。目覚ましはぴたりと止まる。叩いた手のままひっつかみ、盤面をぼやけた目でみとめて、息をのんだ。
「なんで遅れとるんだ、おまえさんは!」
悲痛な声とともにはね起きて、教科書を鞄に放り、適当に掴んだ服へと着替える。それの本来鳴るべきはもう一時間に近く前のことである。乱雑に髪を括ると部屋を飛び出した。春の陽気差し込む薄暗い廊下を走り、人にぶつかりかけながら階段を駆け降りる。自転車に飛び乗ってしまえば、あとはひたすらに漕ぎ続けるだけだ。急げば十分と少しで到着する。それだけの距離がもどかしい。夏の暴力的なそれに比べればよほどに穏やかであるが、それでも眩しい日差しと暖かな空気にじとりと汗が滲む。寝起きのままの口内は喉までからからに乾いていた。
雲一つない空さえ恨めしく思いながら校舎脇に自転車を乗り捨てて、教室へとまた走る。息を切らせながら階段を三階まで、飛び込んだ教室は前方だけ薄暗い。いくつかの、そして老獪な教授の鋭い視線がぐさりと官兵衛の全身を刺す。大きな身体を縮こませながら、近い空席に着席した。講義は遅刻者の到来に中断することもなく、淀みなく進められていた。スライドに映し出されたパワーポイントの絵が切り替わる。
講義は鉄鋼についてであった。薄い紙であるのに分厚い教科書の中身は、高校までの内容と重なるところの多い力学や数学とは異なって、ほぼすべてが未知の情報である。しかし今回はまだ二度目であるからか、既知である分子構造についてが講釈されていたようだ。教授もそれを知ってかとんとんと話は進み、官兵衛が到着して少し経つころには鉄の炭素含有量と温度での構造変遷についてのグラフがスライドに映されていた。
講義の残りも三十分を切ったころ、出席票をかねた紙きれがまわされる。薄暗い中の黒板に大きく問いが踊った。数十分も前、スライドに映っていたグラフを読みとるだけの簡単なものだ。問題を書き終えて、教授の話は講義の続きへと戻る。鉄の処理とそれによる硬度の変化、処理の名称と具体的な方法の説明を始めたところで、電子音が静寂を切り裂いた。尻ポケットの振動に慌てて手を伸ばし急いでアラームを止める。携帯を閉じながらおずおずと視線をあげれば、絶対零度の視線が教授より注がれていた。講釈を流す口は止まらぬのがさらにおそろしい。
以降はひたすら縮こまって講義を聞いていた。講義が終わり、ざわつく中、紙を教卓へと出して筆記用具をしまっていると、通りすがる陰が机の向こうで止まった。
「目をつけられたんじゃないかい」
降ってきた愉快そうな声とその内容に、げえと思わず声をあげる。
「まじでか。洒落にならんだろ……ただでさえ小生は化学が得手じゃあないんだぞ」
「気づいていなかったのかい。きみが出席票を出したとき、教授が名前を見ていたじゃないか」
その言葉に唸るような声をもらして、荷物をまとめ席を立つ。二限も同じ棟のひとつ下の階で学科の必修だ。ほぼすべての者が同じ教室へと向かう。横を歩くのは同期の竹中半兵衛である。百人以上いる機械工学科で、おそらく一番の秀才だ。官兵衛は彼が成績で五段階評価中最高の秀以外を取っているのを、三度しか見たことがない。それらもすべてが優で、内訳は体育と、やたらぼんやりとした内容の教養科目と、試験の日にインフルエンザで倒れ、後日追試を受けたと言う必修である。極僅かな成績優秀者のみが得られる学費免除の恩恵を受け、日々予習復習を欠かさない、勤勉を絵に描いたような秀才だ。本人が言うには「ちゃんと勉強しているんだから、それでいい成績がとれないほうが恥ずかしい」だとか。
一方の官兵衛も秀才とまでは言わないが、それなりの成績は収めているほうである。一番人気でなければ、まず望みの研究室には入れるであろう。
とにかく当学の機械工には珍しく長身に体格のよい、まさに熊のような大男である官兵衛と、けして高いとは言えぬ背丈に痩身(これが官兵衛の横へ立つとさらに目立つ)、美少女とも紛う整った顔立ちの半兵衛は、学科の多くが知る名物珍コンビであった。やや素っ気ないものの話せば気の悪くはない(良くもないのだが)官兵衛が、気の許し故であれいやそうに応対する一方、誰が話しかけようと甘い声で淡々とつめたく、要件以外を口にしない半兵衛が皮肉げながら楽しそうに、やたらと戯れに官兵衛へとじゃれるのが、加えてその割に特に仲がよいのかと言えば互いに否定をするような、そんな関係が傍目にはどうにもおかしいのである。
「期の始めから目をつけられるなんてなあ……」「遅刻するほうが悪いよ」「それに関しては言い訳をしてもいいだろ。目覚ましのやつが遅れていたんだよ」「ふうん」「携帯のアラームは……」「さっきのだ」
ご明察。昨日は二限からであったので、設定がそのままになっていたのである。
「するとやはり、きみの怠慢だね」
返す言葉もない。人の流れに乗って、教室へと入る。学科のおおむねの必修や選択必修はみな共通であるので、受ける授業もほとんど変わらないのである。
机に荷物を置いて、戸へ向かう背に「僕の分も頼むよ」と、ゆったり席についた男の声が投げられる。へえへえと気の抜けた返事を投げて大股で購買へと向かった。そう時間に余裕があるわけでもない。
買うものは決まっているのでとっとと買い物を済ませると講義室へ戻り、通路を挟んで隣に座った男の前に紙パックを置く。八十九円、机の上に重ねられていた小銭を取って、半兵衛のいささか不服そうな表情に思わず口端があがりかける。
「なんだいこれ」「バナナチョコラテ」
答えながら席に着いて、自分の分のプルタブを開け中身を煽る。喉にねばつく後味がひどく甘い。
「もうちょっとまともなものを買ってきてほしいね」「これが今日の安売りだったんだ。しかたない、本当にしかたがない」「……まあいいさ。きみのマックスコーヒーよりはましだ」「マックスコーヒーをディスるのか。おまえさん、戦争がしたいと見える」
「名に偽りありだ。ミルクにコーヒーを入れているんだから、マックスミルクと名乗るべきだね」「この砂糖の塊をぶちこんだ味が目を覚まさせるだろ」「あれでまだ目が覚めていないのかい。君はほんとうにおめでたいな」
わざとらしく驚いた声をあげて、開けたパックにストローを刺す。一口飲んで、ううんと美貌が渋面を作ったのに満足して、官兵衛も教科書とルーズリーフを取り出した。
つくでもなく離れるでもなく、こうした距離でそれとなく、その付き合いは入学時より続いていた。
実のところ、そもそも二人は大学で知り合ったのではない。遡れば出会いは十年も前となる。小学四年に進級して二ヶ月という半端な時節に、半兵衛は官兵衛のクラスへと転入してきた。
今でこそ肉の薄い骨ばった骨格から男であると一見してわかる半兵衛であるが、幼少の砌には本当に少女と見分けがつかなかった。ズボンにスニーカー、ティーシャツやポロシャツと簡素な少年の格好をしてはいたが、それでも少女と間違えられることはしばしばあった。それがその頃の半兵衛をなにより苛立たせていた案件であるのだが、そこへ越してきた原因が、前の学校でクラスの男児にオカマとからかわれて激情した結果であったので、ここでは親に迷惑をかけぬよう、静かに暮らそうと心に決めていたらしい。
当時の官兵衛はまだ背も体格も平均的で、休み時間にはじと黙って席に座したまま小説を読んでいるような子供だった。誰と話すでもなく、机と椅子とひとつの生き物になったかのようにじっとしていた。己が陰口を囁かれているのは知っていたが、そのすべてがどうでもよく、些末なことであった。転校生の存在も、彼がからかわれていることも状態として知ってはいたが、だからなにということもない。知っていただけのことだ。
半兵衛の人となりというものを官兵衛は知らなかったが、なにも言うまいと口を結んで、すべてを警戒するように人を睨む様は官兵衛から見ても、あまりうまくないように感じられた。強がりは哀れで、哀れな者をからかうのはそれ以上に哀れな者のすることだ。くやしいと感じているのがなによりの証拠である。だからと言うべきか、当時の官兵衛は人に陰口を叩かれてもなにを感じることもない。そうかとそれだけで、そう言う人たちは己へそう思っているのだなとただその事実を理解するだけだ。あるいはわざわざそれを突きつけるほど、そうとも思っていないのかもしれない。陰口を叩くことがただ楽しいだけなのだ。だとしたら、反応をするのも彼らを楽しませるだけである。そう判じて、官兵衛はなにを言われようとなにを感じることもなく、ひたすらに小説だけを読み続けた。今の官兵衛に言わせれば、このころは「心が死んでいた」ようなものだ。母の死んだ衝撃は五年が経って尚も官兵衛の精神を苛んでいた。軽々しく死ねと口にできる、彼らは別の生き物であるというのが当時の官兵衛の出した結論である。
転入生に、なんとなく己と近いにおいを感じていたのも事実。官兵衛の学年は二クラスのみだ、隆盛をすぎた住宅街の小学校にはそれまで彼のほかに孤立した者はいなかった。
同じ孤立者として、思うところがなにもなかったわけではない。当時の官兵衛に理解のできなかったのは、半兵衛が悪口を言う者たちに律儀に怒っていたことであり、なにも言い返さないがそのくせ睨みはすることだ。睨むくらいならば文句の一言でも言えばいいのに、まあそれはいい。どうして怒るのか、官兵衛にはわからない。そうした反応を見せられると、精神を閉じこめる錠がぐらぐらと揺らいでしまう。
大変薄情であるが、官兵衛が感じた憤りは人が半兵衛をなじることにではない。そうしたことは、ただ対象が誰となるかと言うだけで、なくなることはないと知っている。だから対象となったときには、嵐に出会ってしまったように、ただじっとしているしかない。そう考えていた。だからこそ、ビー玉のようにくりりとした瞳に憎悪を燃やす半兵衛の態度に、官兵衛は憤ったのである。
その日、官兵衛の機嫌はすこぶる悪かった。読んでいた小説の中で、人が死んだのだ。死ぬのはいい、無惨に死ぬのも、理不尽に死ぬのも構わない。しかし官兵衛の気に入っていたライバルキャラは主人公を苦しめ、そして助けもして、結局ただお涙頂戴の、主人公が成長するためだけに死んだのである。現実とはまた異なった理不尽な死に、官兵衛は大層憤った。今であれば憤りながらも作者に殺されたのでは仕方がないとも自分を慰められるのだが、このころはまだ、小説とは小説家の思想の上に成り立つものだとも知らなかった。ただ小さな世界が、紙面に収められただけのものと捕らえていた。どうして彼は死んだのか。死ななければならなかったのか。本の外では最早珍しくもない、半兵衛をからかう声があげられていた。原因は半兵衛が話しかけてきた女子へと応答したためである。女子と仲良くしている。半兵衛はオカマだから。くだらない罵倒はまるで合唱のようだ。機嫌と相俟って耳障りなことこの上ないと本から顔をあげると、攻撃者たちと相対する半兵衛の顔が見えた。俯きがちながら、じと相手を見据える目に、恐怖はない。そこにあるのは憎悪だ。嫌悪であり、侮蔑でもある。歪んだ顔を見ていると胸の底から不快な液体がせり上がってきて、喉を埋める。溺れかけて、口からそれは飛び出した。
「もうやめろ」
腹の底から液体を押し出さんと、声は存外教室に響いた。はっと皆が官兵衛へと視線を向ける。「もうやめろ。くだらん」向けられるたくさんの瞳に、たじろがなかったとは言わないが、そこまでの動揺もなかった。言い捨てて、再び本を見る。主人公はすべてを忘れたかのようにヒロインと向かい合っている。苦しくなって、本を閉じた。つづきが読めない。新しいものを借りてこようと時計を見るが、図書室に行って戻るには時間が足りない。
男子って、ほんっとガキ。
高音の女子の声が聞こえて、それにガキ大将が言い返す。話が逸れたことにも頓着せず、教科書はもう読んでいるしと悩みながらも国語の教科書を開く。
目次を開きながら視線のみをあげるとガキ大将がクラスで一番気の強い女子と言い争いをしている他はすでに皆散り散りで、しかし一人、半兵衛だけが官兵衛を見つめていた。
常に誰とも話さない官兵衛が声を発したことに驚いて言い返せなかったようであるが、翌日には前日の憂さを晴らさんとばかりにガキ大将は官兵衛をからかった。くだらんと、言ったのは半兵衛へのつもりであったのだが、彼らに言っているのだと取られたらしい。悪いと自覚があるのならばやらなければよかろうに。放っておいてみたが、生活するにあたってあまりに不快である。おまえらに言ったんじゃない、とは何度も言ったが言い訳と取られ相手にされない。まともに相手をするのも手間で、休み時間には図書室へ籠もることとした。騒ぐことができない図書室に、彼らは寄りつかないのである。
在校生は七百人程度の、そう大きくもない小学校である。図書館も小綺麗なわりに蔵書はたいしたものでない。訪れる生徒も極めて少なかった。
昼休み。図書委員のいる場所から最も遠い席に座って、ぼんやり本を読んでいるとがらりと戸が開いた。何気なく視線をやると、半兵衛である。視線を本へと戻したが、彼の目的は図書室でなく官兵衛であったらしい。まっすぐに向かってくると、彼の横に立ち止まった。そして口を開く。
「きみはおかしい」
「はあ? なんじゃいきなり」
思いがけず声が通って、ぱと口を手で押さえる。転校生はやたらと深刻な表情だ。
「諦めろって言うのか。そんなのは負け犬だ」
どうやら彼は、やめろと言われたのが己であると理解していたらしい。あれだけ他の者どもへおまえに言ったんじゃあないと言っているのだから当然であるのかもしれないが。
「諦めるとか諦めないとか、そういうことじゃあないだろ」小声を努めて、手を口から離す。「あんなことをしてるやつらが馬鹿で、くだらないんだよ。そんなやつらの相手をするのはもっと馬鹿で、くだらない」「僕が馬鹿でくだらないって言うのか」責めるような早口でまくしたてる。「そうだよ。あいつら、言う相手なんか誰だっていいんだ」「あんなことを言われるのは……弱いからだ」「じゃあ強くなりゃいいだろ」「弱く見えるからだ」「強いところを見せりゃいい」
ぐうと押し黙って、唇を噛む。からかわれているときでさえ青白いままであった頬が、怒りでか薄赤く染まっていた。
「強いってのは喧嘩だけじゃない。友達がいっぱいいるとか、そういうのもあいつらにとっては強いってことだ」「きみは、」
さすがにいくらか不憫に思ってのフォロー、その薄い身体や細い首と手足を見てとても力としての強さは難しいだろうと別の方法を提案してみたのだが、怒りと苦しみに泣きだしそうな瞳に遮られる。
「きみは、悔しくないのか」
胸を貫かれたようだった。
止まった頭で、「まさか」とそれだけ平静ぶって言い放つと、半兵衛は踵を返し図書室を出ていった。呼吸を繰り返す胸の奥で、どくどくと心臓が鳴っている。
悔しくない、悔しくなどあるものか。そんな感情はなくしたのだ。なくしたつもりだった。
半兵衛は間もなく再び転校して行った。担任は親の仕事でと言っていたが、詳しいことは知らない。引っ越し先も不明だ。
以降そのまま忘れていくかと思っていたところに、入学した大学で再会したのだ。半兵衛は入試のときから気がついていたらしい。
今となってはからかわれて怒るのは官兵衛で、なにも感じず黙っているのが半兵衛と、いつぞとは完全に真逆となっている。特に当時のことを話すこともない。あくまで話すきっかけとなったに過ぎない。それから話してみて、それなりに波長が合ったので気まぐれにともに学校で過ごしている。どうせ学科の授業は大半が被っているし、特につるむ気がなくとも取っている講義の中に話せる人が一人でもいるとなにかと便利なのである。それで官兵衛は借りばかりが積もっていくのであるが。
なにかにと馬鹿にされているような気もするが、それなりにうまいことやっている。なにより距離感がとても好い。互いにべたべたするのは好まないし面倒くさい。他にも実験で一緒のグループになり話せる者も何人かはいるのだが、どうにもそのあたりの大人数で常に一緒にいるようなのはあまり得意でない。
大学二年の前期は怒濤のように過ぎて行った。座学に週一でお遊びのような学科のセミナーだけであった一年のときに比べ、講義は専門性を増し、実験に実習や製図も加わってレポートに追われているうちにあっと言う間に期末試験となっていた。
最大週二つのレポートに製図の提出物、加えて講義の勉強と、勉学が重くのし掛かる中、それでも半兵衛は始終涼しい顔をしていたのだから恐ろしい。一方の官兵衛は、掛け持ちで二つしていたバイトのひとつをやめた。流石にこのスケジュールの中飲み屋で働くのは困難だ。寮近くのコンビニのみにすることとした。一年の折に多少貯金をしておいたのが幸いである。
素寒貧と暑さと期末試験との戦いを経て、夏休みが訪れた。知人には何人か無念にも斃れていった者もいたが、官兵衛はなんとか、無事にやり遂げることができた。恐らくのところ、単位を落としたものはないだろう。前(さき)の鉄鋼材料も試験はできたので大丈夫であると思われる。
試験が終わるごとにコンビニバイトを増やして、試験後にはシフトと派遣のバイトを空いたスケジュールに次々と突っ込んでいった。夏休みの間に後期の生活費を稼がねばならぬ。これから先、より忙しくなったら生活費が足りなくなる恐れがある。いくらか不安もあった。万一に備え、祖父母に多少援助を頼む可能性もあると交渉をしておく必要があるだろう。
週数度の実験実習以外はほぼ机にかじりつき通しであった四ヶ月を越えて、身体を思い切り動かせるバイトは気持ちがよかった。十二時間コンベアの横に中腰で立ち続けるようなものもあったが、基本的には肉体労働を入れている。疲れはするが、汗をかいて帰り、暑い寮の部屋の中でタオルケット一枚で眠るのはなかなかに楽しい生活である。
とは言え休みなしで働き詰めるのもよくなかろうと、週に一度は休みを入れた。なにげなく、古い友人へメールをしたところ予定が合ったので会って遊ぶこともあった。昔縁のあった翁の孫であるのだが、なにひとつとして口を利かぬ奇妙な男である。その上前髪で目元すら隠しているものだからやり取りが難しい、かと思えば案外にそんなこともない。あまりコミュニケーションを取るに困ったこともなかった。ひとつ年下の彼は春から隣県の大学に入学していた。会うのは一年ぶりのことであったが、それなりに元気そうにしていたようである。美術館をぶらぶらと見て、食事をして官兵衛が一方的に話すだけだがバイト漬けの日々の中では休息となった。多少生活についての心配をされたが、そこまで多忙にしているのでもない。無理はせんと言い置いて、別れた。翌日にはまた派遣で引っ越しのバイトである。
八月も中旬に入ろうという頃。バイトの昼休みに携帯を開くと、いくつかメールが入っていた。中身を確認しながらDMは消して、最後に差出人に名前のある一通を開く。送信者は珍しい人物であった。
『近々会いたい。空いている日や時間があれば教えてくれ』
口調は柔らかいながら温かみのなく簡素なそれからは、彼自身の声が聞こえてくるようだ。それを少しばかり愉快に思いながら、珍しいなとちゃかす一文を添えて次の休日を半兵衛へと返した。
向こうはその日で構わないとのことで、それではどこでなにをするのかと問うと、歯切れの悪い返事のオンパレードだ。趣味や趣向もさっぱり合わない。買い物はせぬし、カラオケも行かない。映画は観たいものがないし、ゲームセンターも行かない。官兵衛はどれも付き合えるが、半兵衛は興味のないものに付き合うような人間ではない。堂々巡りでまどろこしいと繋いだ電話口で、まさか会うだけでこんなことになるは思わなかったな、と呆れたような言葉に、そういえば学外で会うのは初めてであることに気がついた。
結局食事が妥当であろうと、昼時に大学近くの定食屋で会うこととなった。席は少ないが、六百円程度で腹いっぱいに食べられる良心的な店である。
「もう少し早ければ、ここの鯵のなめろうがとっても美味いんだがな」「ふうん」
生憎旬は過ぎている。ホワイトボードに書かれた日替わりのメニューを、半兵衛がしげしげと見つめていた。どうやら平日の昼を除いては真面目に自炊をしているらしく、近隣の店もろくに知らないようだった。昼は学食が常だ。必要ないからね、と言われてしまえば確かにそれでしまいであるのだが。紙ナプキンにボールペンで適当な地図を描き、おおざっぱに近隣の店を説明すればへえと特に興味もなさそうに聞いている。それでもきっと覚えてはいるのだろう。今度行ってみるよ、と付け加えるように添えられたそれが本音か社交辞令かは判然としない。
「おまえさん、夏休みはなにをしてるんだ」
「勉強かな」
「……休み中にまでよくやるな」
「授業のあるときに比べれば全然暇なほうだよ。先週は旅行に行っていた」
「どこに?」「栃木」「ふうん。旅行なんて全然行ってないな……。あ、一人でか?」
「いや、史学科の教授がゼミで行くと言うから一緒に。最後の一日は別れて一人で見たけどね」
「史学科? いったいなにをしているんだおまえさんは」
「きみこそ毎日なにをしているのさ」
「バイトだよ、バイト。毎日働き通しだ」
雑談に興じていると、頼んだものが運ばれてくる。官兵衛が焼肉定食、半兵衛は太刀魚のフライである。自炊をしていても、やはりあまり揚げ物はしないようだ。少なめにと頼んだ通り、半兵衛の皿はどれも官兵衛のものの七割ほどだ。
「そういえば今期はあまりバイトバイトと言っていなかったね」「働けるか。あの時間割で」「うまくやらないと、無理だろうね。きみはあまり要領がいいとは言えないから」「おかげでじり貧だ。小生は卒業まであの大学にいられるかわからんぞ」「卒業ね……」一拍おいて、みそ汁を啜る。「大体きみはね、大食らいなんだから自炊をすべきだと思うよ」「料理なあ……。共同の調理場で料理をするのは、だるいんだよ」「どうせ食べるのはバイト帰りなんだから、夕飯時でもないだろう」「疲れて帰ってそれから料理なんてなあ」「外食したら一時間分の時給が飛ぶだろう。惣菜でも、きみなら五百円は飛ぶんじゃないか」「ぐ……」「それなら一時間働く時間を短くして、その一時間で自炊すべきだと僕は思うけどね」「作るのがへたで時間がかかるんだよ。小生は時間を買っているんだ」「あ、そ。なんとでも言いたまえ」
話は切れて、それぞれに食事を進める。話しながらでは途切れがちだった手も、それが止めば一気に進む。残りを二割ほどにして、ところでと声をあげる。「今日はいったいどうしたんだ」一方の半兵衛の皿は、まだ半分ほど残っている。「ああ、うん」フライを齧り、咀嚼して飲み込む。「そのことだけどね」少々歯切れが悪い。珍しいことであるが、存外に彼はかなりのはにかみ屋であることを官兵衛は知っているので、特に驚くことでもない。はにかみ屋と言え、ただ恥ずかしそうな顔をするのでなくばつの悪い顔をすることが多く、さらにはやたらと険しい顔をすることも多いので、誤解されがちであるのだが。
「相談があるんだ」
「ほう」そりゃあ珍しいと、キャベツの千切りを大きく最後の一口、飲み込んでこちらも真面目たらしい顔を作って向き合ってみる。
「こんなこと、言うのはいやなんだけどね」「おうおう、官兵衛さんになんでも言ってみろ」
「余計なお世話だけど、きみのそういう感じ、僕は嫌いじゃないけど、一般的にはどうかと思う人も多いと思うよ」「余計なお世話だ」
コップの水を飲み干して、とんと置く。「で?」半兵衛も箸を置いて、向き直る。
「きみにだからするんだ、まじめに聞いてくれよ」
ああと応える、まったく人へ相談などしそうにない男が、よりにもよって己へ相談してくるというのが、良くも悪くも面白くてたまらない。純粋にうれしいし、いったいこの男が何事に悩んでいるのかと、興味もある。それなりにくだらないことで悩みそうでもあるし、相応に重大な問題である可能性も高い。さて飛び出るのは鬼か蛇か。
「ねえ、きみ、生まれ変わりって信じるかい」
「はあ?」
彼から飛び出したのは思いもがけない言葉で、思わず官兵衛も素直な反応を返してしまう。
まずい、と気がついたのは半兵衛の眉間にすっと皺が寄ってからで、整った顔が不機嫌に歪む。あ、ああー、と気の抜けた声をあげて視線を逸らすがそれは良策でない。さっさと観念して手を合わせると頭をさげて、すまんと素直に謝ってもみるが、はああと長い溜息が漏らされただけであった。
「もういい。きみに話したのが間違いだった」
テーブルにかけていた手を放して、半兵衛が座り直す。立つつもりでいたのか。皿にはまだ食事が残っているから、思いとどまったのだろう。面白いけれど笑ったらさらに機嫌を損ねられるだろうことは火を見るより明らかだ。火を見たい気もするのがまたひねくれているのだが。
以降は話すこともなく、半兵衛が食事をすべて食べ終えるまでじと水だけを飲んで黙っていた。不機嫌そうに食べている半兵衛も多少居心地が悪そうであったが、それはお互い様だ。
食事を終えて、別々に会計を済ます。官兵衛はそれなりに馴染みの店であるが、半兵衛が店主へと「おいしかった、御馳走様でした」とあいさつをしていたのが意外であった。そういえば食堂で飯を買うときも有難うと言っていたようなとぼんやり思い出して、それから小学生の時分を思い出し、当時をよく知らないなりに変わったものだなと思う。同じく会計を済ませた官兵衛も店を出ると、「それじゃ」とさっさと帰路へ着いたあたりは相変わらずとしか言いようがないのだが。あれがああした適当な態度を取るのは、気を許されているからだと思うようにしている。怒りよりは恥ずかしさが勝っているのだろう。そう適当に解釈して、一応帰りに改めて謝罪のメールを送った。返事は来なかったが、互いにそれなりのメール不精であるのでそこまで気にはしなかった。
以降しばらくは特に何事も変わったことはなく、平穏に暮らしていた。しかし少し経って、改めて半兵衛の言葉が気になった。ベルトコンベアの横で八時間、所定の位置にセロテープを貼り続けていると考えることがなくなるのだ。
生まれ変わりって、なんだ、いったい。
とてもそんなものを信じる類には見えない。幽霊さえ信じていなさそうだ。超常現象すべてには理由があり論理的に説明できると信じていたっておかしくない。彼の価値観や判断はいつでも極めて冷静で論理的で客観的である。
ならば、どういうことだ?
気になりながらも、バイトを詰めた日常はさらさらと流れるように過ぎて行った。それなりに密度も充実感もあるので、不満はなにごともない。フルタイムでないときには、多少前期の勉強のお浚いなどもした。特に物理や数学は浚うだけでも、していると記憶の定着が違う。後期も前期同様、へたをすればそれ以上に重いことはわかっているので、少しでも楽になるよう復習くらいはしておくべきであるだろう。
とは言え遊ぶときには遊ぶものだ。あるとき孫市から遊びの誘いがあり、日も合ったので乗ることにした。珍しく集合時間よりかなり早く着いたので、集合場所近くのコンビニに入り時間を潰す。よく電車が遅れたり止まったり、他にももろもろ予期せぬハプニングなどが多いので、基本的にはなるべく時間に余裕を持って動くことにしている。それでも間に合わないこともしばしばあるのだが。雑誌の棚をざっと見て、目についたのはひとつの見出しだ。白の背景に女優が笑み、濃いピンクで大きなゴシック体が踊っていた。『魂に刻まれた運命がわかる!?』なんとなく、半兵衛の言った「生まれ変わり」を思い出した。
「生まれ変わり、なあ」
雑誌を手に取って、しかし付録とともに輪ゴムで止められていることに気がつく。開くことは憚られた。見出しの隣の列には『人気カリスマJK占い師鶴姫≠ノ聞く!』とある。耳にするだけで疲れるような単語の並びだ。うへえと思いながら見ていると、向かいでコンと音がした。顔をあげると、ガラスの向こうに孫市が立っている。よ、とその横で元親も手を上げていた。
「すまんな」
「いいってことよ」「まだ時間には早い」
コンビニから出て挨拶をする。どちらも教養科目の関係で知り合ったのであるが、特に接点はないながらそれなりに良くしている。元親は機械工の同期でもあるが、あまり成績が振るわないらしく、授業について教えることも度々ある。人脈は豊富であるので官兵衛に試験の過去問や過去レポートを流してくれているのも元親だ。孫市は理学部化学科の三年である。なんであれ、二人とも友人ではあるが、なにとなく奇妙な面子だ。
「これで全部か?」
「ああ。今日の提案は徳川だったが」
「家康のやつ、部活が入ったんだとよ」
しかたがねえよなあ、と憤慨したような声を出すが、その実元親はあの愛くるしい、と言うにはあまりに背も体格も良すぎるのだが、とにかく後輩が可愛くて仕方がないらしい。
予定は特に決まっていなかったと言うのでショッピングモールをぶらぶらすることにした。元親が服を買いたいと言ったのであるが、その割に自分の服よりもレディースの店ばかりを可愛い可愛いと見たがる。
それなりに会うのは久しぶりであったので近況の報告をし合って、雑談も適当に途切れた頃になんとなく、話を振ってみた。
「さっきのコンビニで雑誌を見てたんだが、魂に運命がナントカって」
「スピリチュアルだな」「なんだあ? アンタ、わりとそういうの信じるクチか」
「いや、あまり興味があるわけじゃないんだが、それはなんとなく気になってな。JKカリスマ占い師の、なに姫だったかな、知ってるか?」
「知っている。私も元親も、古くからの付き合いだ」
予想外の展開に、おおと気の抜けた感嘆の声があがる。「鶴の字、忙しそうにしてんなあ」「それがどうした」「ああ、ううん、具体的にはどんな感じなんだ」「魂の形を見る、と言うものらしい。魂に刻まれたものを読み取るのだそうだ」「当たるのか?」「ぼちぼちってとこだな。俺は、そうだなあ、当たったのは海が好きだとか、舎弟が多いとか。外れたのは、あれだ、両目があるんですねって。こええよ」「はあ、なんだそりゃあ。恐ろしいな」「あれを聞いてから俺はいつ片目がなくなるのかと震えて昼に眠れねえよ」「元親、おまえは占いを信じ過ぎだ」「信じたら面白いだろ」「それで怯えているのでは本末転倒だろう」
ふむ、と二人のやりとりをぼんやりと聞く。ひとつの可能性を、しかし口にするのは躊躇われた。迷いながら、けれど思いつけば口にせずにもいられない。
「それについてだが、もしかして生まれ変わりとか前世がどうとか、そういうのも関係あるのか?」
己が半兵衛にしたような、そうした反応も覚悟して身構える。しかし向けられた二人の目は特に変わることもなく、ああ、とむしろ肯定的だった。
「ああ、そうだな」「鶴の字によると、前世でついた傷が次にもそのまま、っていうのがちけえんじゃねえか」
うんうん、と頷いて、それぞれに納得している。そうか、と応える声にうまく力が入らなかった。
結局二人がそれぞれにセールで夏服を買い、官兵衛は特になにを買うこともなく、食事だけをしてその日を終えた。
帰ってから、半兵衛へとメールを打つ。あの件から、一週間が経っていた。
しかし待てども返事はなく、まだ怒っているのかと諦めかけたころに、ようやく返事があった。それも丁度送信から一週間を空けてのことである。次に会う予定となったのは日曜で、あたりの定食屋の類はどれも学生向けであるので定休日である。最寄駅のファミレスに入り、それぞれ適当なものを頼んだ。現れた半兵衛はいささか軽蔑したような表情をしていたが、常のことだと思えば特に気にもならない。実際常のようなものである。
「いったいどんな気持ちの変化だい」
ドリンクバーでホットコーヒーを注ぎながら半兵衛が訊ねてくる。店の外は殺人的な陽射しに茹だるような暑さだが、店内はクーラーが効いているので寒いらしい。だとしても薄手ながら長袖のワイシャツにセーターという時点で官兵衛には理解ができない。相当の寒がりらしい。
「どんな。どんなと言われてもな」
一方の官兵衛はドリンクバーでは炭酸以外の選択肢がない。ジンジャーエールを注いで、テーブル席へと戻る。
「きみの図々しいとも言える図太さ、きみに限って言えばそう嫌いではないよ」「そりゃ有り難いね。おまえさんいちいちそういう言い方しかできんのか」「照れ隠しだよ。鈍いな」「……そういう冗談は言えるのか」「ただの本音さ。いざというときにしか、嘘は吐かないことにしているんだ」へえんとあまりの胡散臭さに感嘆の声をあげてやる。
「そんなことより、さっさと件の話を聞かせちゃくれんかね」ふむ、と尤もらしく頷いて、「まあ、きみが聞きたいと言うなら話すことは吝かでない。一応確認しておくけれど、まじめに聞くだろうね」じろりと睨む、それが本気でありながら、許しのなまぬるさが滲んでいる。それが好ましいものに、官兵衛には感じられた。
「聞く、聞くさ。そもそも小生だっておまえさんがそんなくだらん嘘を吐くなんざ思っちゃいない」
それにいささか気をよくしたのか、そう、と納得したらしい明るい声を出す。皮肉家も冷笑家もお互い様だ。それでも今くらいは、気分がよくなるように話させてやるのもいい。日常それを拒むのは、基本的に双方とも己の未熟を知りながら己に自信を持っていると知っているからであるのだが。常にそれを崩してやらんと、それは意地の悪い思いより、己の存在が常に相手にとって「己は本当に完全か」と見つめ直すものとなればよいと、明確でないながらに願ってのことである。認めているから負けたくないし、認めているから成長を止められては困るのだ。
官兵衛の頼んだ成型肉のステーキと、半兵衛の鰺の冷製茶漬けが届いてぼちぼちと食事を始めながら、例の相談事の詳細が話された。
「僕がこれまで得た情報から推測される、恐らく現在最も可能性の高い説だ」
そう前置いて、話し始められたその内容は、甚だ荒唐無稽なものであった。ファンタジーやメルヘンじゃあないんですから、と言ってやりたくなる、流石に前回を経てそれは自重したのだが。
まずは前提となる推測の、今現在の世界についての話である。なにしろ「世界」などという言葉を官兵衛は小説以外に、鼻持ちならない場所でしか耳にしたことがない。
曰く、人はこの生命を一度きりのように感じているかもしれないが、事実これは数度目であるとか。わかる限りでこの世界は一度訪れた崩壊ののちに創られた、少なくとも二度目のものである。
ここで既について行けない。うんと頷いてはいるが、それが事実とはやはり到底信じられぬのだ。このライトノベルにいったいどんなタイトルをつけようか。待て、ライトノベルとするにはヒロインがいない。いくら女顔とは言え、眼前のこの男がヒロインというのはごめんである。しかし悲しい哉、黒田官兵衛十九歳。未だ清きこの身は交際人数なんと堂々のゼロである。いや、焦るな。ヒロインとはことが起こってから登場するものである。
半兵衛の与り知るのは前回のことのみだ。それよりさらに前のこととなると、知る術は探せど得られなかった。
「つまり、前の世界にも小生やおまえさんがいた。その世界が滅びて、新しくできた世界で、また小生とおまえさんがいる」「そういうことになるね」「ほー……」「正直なところね、君が納得できるとも信じてくれるとも思っていないよ。理解してくれればいい」「んん、ああ。ちなみに、前の世界はなぜ滅びたんだ?」「神の力が衰退した。そう考えるのが最も妥当だろうね」「はあん、なるほど」流石にわざとらしかったのか、じとりと視線が険しくなる。目を伏せてコーヒーを一口、「それはきみも知る人だよ」変わりのない平坦な声音だ。「ん? なにがだ?」
「神がさ。前の世界で神になったのは徳川家康だ」
ぽかん。
これ以上はないだろうと、話を聞いて思ってはいたがいよいよこれには開いた口が塞がらなかった。納得どころか理解もできない。彼に、最後に会ったのはいつだったか、確か構内で偶然会って、食堂で一緒に飯を食べたような気がする。出会ったのは普遍の、中国語の授業だったか。偶然近い席に座って会話のペアとなり、以降毎度話すようになったのだ。一年飛び級をして入学したひとつ年下の同学年で、人当たりがよく面倒見もいい、笑顔の眩しいごくごく普通の好青年である。間違えても、神などではない。普通に学校へ行き、講義を受けて、友達と遊び部活に勤しむ、あたりまえに笑い、怒り、悲しむただの大学生である。
「僕はこの世界の神も彼になると思っている」「い、や、いやいやいやいや、嘘だろ。そんなわけあるか」
だって、彼は、「普通の大学生だ。今はね」思考を遮るように断言されて、どっといやな汗をかいた。
「なんで、なんであいつなんだ。小生にはまったく理解できん。どう見たって、どう考えたって、ただの大学生だろう」
「そうだね。今は」
今は。念押すように付加された言葉が重く頭の中にのしかかってくる。「信じられん。それは、いくらなんでも信じられん」「知人が出てくるとは思っていなかったかい」「……」「僕も、きみも、家康くんも、それだけじゃない、今この世界にいる誰もが、前の世界にも生きていた。共通の人間が出てくることはなんらおかしくない。既知である確率は確かに低いかもしれないが、むしろその事実こそが……、まあそれはいい。もうひとつ、」まだあると言うのか。「ここからが本題なのだけれどね」「ああ」「すべてではないけれど。以前に辿った道や、持った性質の一部は、定められたものとなって今に続いているんだ」「すぴりちゅある……」「そんな事実無根なものじゃない」「おまえさん、こんなこと言っててスピリチュアルは信じんのか」「信じるわけないだろ。馬鹿馬鹿しい」当然とばかりに言い放つ、これが素なのだから閉口するが、仕方がないと言えば仕方がないのかもわからない。そも、元来は、こういう人間だ。「似たような話をしていた占い師? がいたんだよ」「詳しく聞かせてくれ」がたりと僅かに身を乗り出して、語気を強める。少しでも、情報が欲しいらしい。
「女子高生の占い師で鶴姫とか言うんだが、魂に……刻まれたものを見るとか。それが、おまえさんの言う前世で得た運命、みたいなもんなんじゃないかね」
魂だの運命だの前世だの。スピリチュアルにもほどがある。こんな単語をまじめたらしい顔をして連発するなど、おもしろすぎていっそ寒気がする。
「会いたい。話を聞きたい、できたらすぐに」「……」
どうにも話ができすぎているように思う。相手は雑誌に載るほどの有名人であるのに、頼めば、会える可能性がそれなりにあるのだ。これも運命とやらであるのか。
スマートフォンを取り出した半兵衛が猛烈な勢いでなにやらフリック入力し、画面をスクロールしている。読み進めるほどに、表情の深刻さが増していく。鶴姫について調べているのだろう。
「……友人の知人らしい。話を聞いてみるか?」
ばと画面からあげられた顔と目が合う。胸に迫ったようで、言葉にならず息を呑んでいる。思わず目を逸らして、通算何杯目かわからぬジンジャーエールを口に含む。
「ありがとう! 助かるよ、きみに話して本当によかった!」
滅多に見られない、いや、こんなに嬉しそうな様は初めて見る。手を握りだしそうな勢いにいやいやと手を振って、思わず「小生とおまえさんの仲だろ」などと恥ずかしいセリフも言ってしまう。それでもしきりにありがとう、ありがとうと繰り返されるので官兵衛も慣れず、照れてしまう。
「人をね、探しているんだ」
未だ弾む声で、夢見るように言う。まるで少女漫画か月九のドラマのようだなと、どちらもろくに見たことがないのにぼんやりと思いながら、ああと相槌を打った。
「僕の運命の人。その人に、会いたいんだ」
どうやらこのライトノベルの主人公は己でなく、この男であったらしい。なんでじゃ。容姿端麗学歴優秀、完全なる勝ち組が主人公のラブストーリーなどいったい誰が読みたいと言うのか。
それじゃあ頼むよ、絶対だよ、そう子供のように繰り返すのをなだめながら、残っていたお茶漬けを再び口へ運び始める。相変わらず疾うに食べ終えていた官兵衛は新しく注いできたコーラを飲みながら、ぼんやりとそれを眺めた。半兵衛は特に急ぐ様子もなくゆっくりと食べ終えて、そっけないプラスチックのピルケースから錠剤を取り出すと水で飲みこむ。詳しいことは聞いていないが、持病の薬であると言う。出会ったときからそうであるので、今では食後のいつもの光景だ。
連絡が取れ次第メールをすると、約束をして半兵衛と別れた。すぐに孫市へとメールを打つ。返事は間もなく来たが、あまり感触がよくない。有名人であるようだから、こうした頼みも珍しくはないのだろう。おまえに話したのはそうした頼みはしそうになかったからだとまで言われてしまう。信頼を裏切るようで悪いが、それでも頼んだところ、とりあえず官兵衛のみであればいいらしい。あまり友達の友達の友達の……などとなると、紹介する立場である孫市が居た堪れないのもわかる。ひとまずはそれでいいとして、孫市と三人で会うこととした。丁度高校の夏休みも終わりであるので仕事はほとんど入れていないらしい。タイミングがよかった。バイトが夕方に終わる日を選んで、夕食がてら会うこととした。
店は孫市のセッティングだ。鶴姫、本名は大祝(おおほうり)鶴と言うそうだが、彼女の最寄駅近くのイタリア料理屋である。女子高生に会うなどと胸が躍らないでもないし、もしもまだ官兵衛が主人公で、ヒロインがいるのであれば、候補は間違いなく彼女である。なにしろ日常官兵衛の生活に女っ気などないに等しい。孫市は友人でしかないし、学科の同期は百人以上いる中女生徒はたったの五人だ。そのいずれとも会話をしたこともないので現状フラグは完全に無と言っていい。
現れたのは可愛らしい、背の低いボブカットの少女である。待ち合わせ場所に立つ官兵衛と孫市の元に、セーラー服を翻して駆ける彼女が満面の笑みで手を振っている。かわいい。すごくかわいい。小動物のようだ。しかし間違いなく官兵衛の好みではない。そして確実に、相容れない苦手なタイプである。
あんな雑誌に出ているような有名人という時点で知っていたさと内心僅かにふてくされながら、孫市が官兵衛を紹介するのを聞く。
「はじめましてっ、大祝鶴です。よろしくお願いします☆」
星だ、星が飛んだぞ……!
敬礼のように額へ手をあてて元気いっぱいに挨拶をした彼女へ慄きながら、挨拶を返す。「忙しいらしい中、突然すまんな。よろしく」「いいえ、迷える方に力を貸すのが私の使命です!」えへんと胸を張る、その様はかわいらしいが、官兵衛にはとても、勘違いをした小娘としか映らない。大丈夫なのかと孫市に目配せをするが、むしろもっとちゃんと挨拶をしろと言わんばかりに睨まれた。へえへえ。どうやら彼女はあちらの味方らしい。
「見てほしいのは小生じゃなくてな、小生の友人なんだが、」「お望みでしたらあなたも見ますよ! お友達も、予定さえ合えば私は構いません」「小生を? たってなあ……」
そもそもあまり信じちゃいないし。
それが表へ出ていたのか、むっとした表情が官兵衛を仰ぎ見る。女子高生の上目使い、大変美味なる光景だが、生憎官兵衛にはそう悦ぶ要素でもなかった。
「疑ってるんですか? ひどいです!」「疑うもなにも……いや、すまん。小生からの説明になるが、そいつの話を聞いてくれんか。正確でないかもしれないが、ある程度は伝わるだろう」
なかなか強情で気難しそうな性格だ、機嫌は損ねぬよう気をつけろ、とは鶴と会う前に孫市より聞いていたことだが、まったくその通りであった。ぷりぷりと頬を膨らませる様子は確かに小動物のようで愛らしいのかもしれないが、官兵衛にはどうにも面倒でしかたがない。なんとかレストランまで辿り着いて席に着いて、前菜が出てきてやっと話を聞く程度に機嫌を直したらしい。頼んであるのは前菜、スープ、前菜にメインの日替わりパスタ、デザートと一通りのコースであるが、お値段は良心的な千四百八十円である。それでも自分の分と合わせて二人分というのは、大層手痛い出費であるのだが。
一通り半兵衛から聞いた話をしてやる。ふんふんと、幸せそうに料理を食べながら聞いていたのだが、聞き終えて、「ええ、半兵衛さんは、とってもよくわかっています。いったいどうしてそれを知ったのでしょう?」首を傾げて不思議がる。まじかよ、と思わず孫市の顔を見るが、隣の彼女は我関せずと涼しげな顔でスープを飲んでいる。
「そんなこと、小生は知らん。とにかくあいつは、おまえさんに見てもらいたいらしい」「知りたいことが、あるんですね」「会いたい人がいるんだとさ」「心配をすることはありません。必ずいつか会えるでしょう。魂に刻まれた模様は、避けることもできますが、抗わないのでしたら必ず、起こります」堂々と、それを信じて疑わぬずに言い切る様が、官兵衛には不思議でならぬ。かならず、の音は不思議な確信に満ちていた。なにか思い出すものがあるなと記憶を辿ると、そう、あの年下の友人だ。徳川家康も、時折こうしたふうに不思議な確固たる自信で、ものを言うことがある。それを官兵衛は若さゆえ、あるいは根に刻まれた性質であるのか、どちらにせよ驕りの類であると思っていたのだが。鶴に関しても、感じるものは同様だ。もし、もしも、まさかそれが本当であったら? 事実であるがゆえの自信であるのだとしたら?
「小生の……模様とやらも見てくれんかね」「信じない人には教えてあげません!」「信じる、信じる。いや、すまん、信じたいと言うか……あのな、」「やっぱり信じてない!」「ちょっとばかり話を聞いちゃくれんかね」「姫、少し落ち着け。この男は物言いに配慮が欠ける。いちいち腹を立てていたらきりがない」「おまえさんはどっちの味方なんじゃ……」「私はどちらの味方でもないし、どちらの味方でもある」素知らぬ顔で本日のパスタ(今日は夏野菜の冷製パスタであるらしい)をフォークに巻いている、よほど気遣いはできるが、この調子はどことなく理学部の知人の毛利に通じるものがある。あちらは全力で官兵衛をパシりとして使いにかかってくるのだからそれに比べれば余程にましであるのだが。とにかく鶴がビシッとした孫市の説教に目を輝かせている今がチャンスである。
「正直に言うと、半兵衛の話も、前世がどうとか、運命がどうとか、小生にはわからん。突然言われても、信じられないし、理解できない。だが、人に頼みごともろくにできんあいつが、初めて小生に頼んできたことだ。力になってやりたいし、もし、できたら信じてやれたら、いいと思う。もちろん信じてなくとも少しは手伝ってもやるがね」「ふうん、いいですよ」「ん?」「信じさせてさしあげましょう!」
膨らみかけの胸を叩いて、官兵衛が返事をする間もなくじっと前髪越しの目を見つめてくる。誰とも目を合わせたくなくてこうしているのだ、視線が泳いで、それから覚悟を決めてアーモンドのような丸い目を見つめ返す。焦点が合っているようで、どこか違うところを見つめているようなのがせめてもの救いである。実際のところ、官兵衛もろくに女の子と見つめあうこともできぬほどにシャイであるのだが、彼自身はそれを認めないので自覚さえしておらぬ。
「んんん、あまり起こっていることがないですね」
ふと、彼女の焦点が合って、ううんと困った顔をする。「これから起こるということか?」「はい、いくつか。でも、あまり先のことを知るのはよくないです」「例えば?」「詳しくは言えませんが、この先穴熊さんは、すっごくひどい目に会います」「はあ……」「あっ! 信じてないですね!」「いや……」「あと、あとあと、行動を制限されます! こわーい人たちに目をつけられて、自由に動けなくなります」「なんじゃそりゃ……迷惑な話だな」「やっぱり信じてない! 大体まだ起こっていない話をしたって信じるはずがないんです!」「そりゃあそうだ」
むむむと頭の両脇に人差し指を立てて、ふたたび鶴が官兵衛を見る。「もう起こっていること……うーん、幼少期は、暗い時を過ごしました」「ほっとけ」けっ、と渋い気持ちで吐き捨てるとやった、あたりましたね! と無邪気に喜ぶ。どこかずれた娘である。
「そうですね、あと、あなたはとっても不運です!」「ぐっ!」「私は姫にはなにも言っていない」
思わず孫市を見たが、なにも教えていないとのことである。「不運じゃない! 小生は不運じゃあないぞ!」「いいえ! とおーっても、不運です! それはずっと、ずーっと、この先一生治りません! 魂に刻まれた不運です!」「なぜじゃあ!」「カラスめ。店内では静かにすべきだ」ごんと拳骨が落ちてきて、二人同時に頭を抱える。「ま、ご、いちい……おまえさん、フォークもったまま……」「反省しろ」「ぐう……」頭をおさえたまま、鶴を見る。鶴もしばし頭をおさえて膨れ面をしていたが、やがて孫市へと頭をさげて、「ごめんなさい、孫市ねえさま」と素直な謝罪をする。思わずそれに倣わねばならぬように思えて、官兵衛も頭をさげる。
「不運……小生は不運じゃあないぞ……」「往生際が悪いんですねっ」「いや……不運じゃないと思うことにしていたんだ……。これは普通だと思えば普通だろう……」「不運なんですよ、それは」無邪気な顔が忌々しい。確かにこれまで電車を逃したり、授業へ言ったら休講だったり、手違いで一人だけ提出物の締め切りのメールが届いていなかったり、受験票を落としたり、ちょっと運が悪いなとは思っていたが、まさかそれが魂レベルでの問題であるとなると、最早どうしたものか。それを友と生きていかねばならぬのかと思うと、拳骨をもらわなくとも頭を抱えたくもなる。
「ほか、他はないのか」「他ですか? うーん、半兵衛さんとお友達になるのは、前からそうでしたよ」「あっ、そういえばあいつの名前……」「半兵衛さんで、合っていますよね?」先ほども彼女はそう呼んでいたが、今思えば、官兵衛は一度もその名を呼んではいない。ぞわりと背に寒いものが走る。仕組んでいるとしか思えない。仕組まれていないのだとしたら――、どこかで信じ始めている自分に気がついて、動揺する。
「もうひとつ。あなたは夢を目指す人です。けれど今は、その夢が見つからない」「……」「ひとつのものを諦めず目指し続ける、その形だけが、残っています。いつか目指すものが見つかれば、迷うことが……なくなるとは言いません、もっと迷うことでしょう。でも、きっと満たされるはずです」
空洞を、言い当てられたようだった。
これが、占い師の言であれば誰にでも言えそうなことの最たるであるのだが、ここまでのことを経て言われると、真実らしい重みがあった。
「詳しいことは、実際に会って見なければわかりません。そのお友達も、どうぞ連れてきてください」
絶句していたらしいことに、ようやっと気がつく。見上げてくるその目は、やはり確固たる自信、見て、伝えるものの真実を理解しきった色である。これはきっと、おそろしいものだ。人の理を越えた力だ。
「ねえさまのご友人ですもの、困っているのならお手伝いします! それでは、そろそろ両親が心配するので私は帰りますね。ねえさまから奢りと聞きました! ご馳走さまです☆」
最後にまた星を散らして、風のように少女は去って行った。呆然と、店員へ挨拶をし店のドアを開け出ていく背中を見送る。
「面白い娘だろう。エネルギッシュで、見ていると元気になる」「……小生はむしろ、疲れるよ」
すっかり溶けたアイスをスプーンで掬う。「意外と仲が良さそうじゃないか。あとで姫に確認したら、アドレスを送ろう」「ああ……おまえさんも、ありがとな。世話になった」「ふふ……そうしおらしいと奇妙だな」「ふん」器を傾けアイスだった液体を飲み干して、食事はしまいとした。
孫市とも別れて、電車の中で半兵衛へとメールを打つ。明日に、としたら忘れてしまいそうだ。最寄駅で降りて自転車に跨ったところで、尻ポケットの中が振動する。見ると、先ほどメールをした相手からの着信だ。よほど気持ちが逸るらしい。なるべく早くに約束を取り付けるように言って電話を切った。
想像の通りに鶴からのメールは絵文字顔文字の躍るデコメールであった。データの受信が面倒であるので、官兵衛の携帯の画面ではやたらとバツ印が多い。それらをちゃんと見ずとも、それを言う表情が見えるのだからたいしたものだ。早速近くに約束を取り付けて、会うこととした。今度は夕飯でなく、放課後に喫茶店でお茶である。毎度ディナーなど奢っていたら官兵衛の財布がもたない。そもそもの元凶であるのだし、お金に困っている様子もないので半兵衛に奢ってほしいところであるのだが。
約束をした店に到着すると、既に半兵衛が最奥のテーブル席に座っていた。駅前で待ち合わせをして来た官兵衛と鶴がちりんとベルを鳴らしてドアを開けても、気がついていないのか確認する気がないのか、窓の外を見ている。「あいつだ」「綺麗な方ですね。穴熊さんのお友達とは思えません」「余計なお世話だ」こそこそと小声でやり取りをして、近づいてきた店員に断り半兵衛の元へと向かう。近づけば気がついたようで、鶴を見て、わずかに落ち着かなさそうに身じろぎする。
「今日はわざわざすまない。竹中半兵衛だ」「はじめまして。大祝鶴です、お話は官兵衛さんから聞いています」
丁寧にお辞儀をするのを見て、なんだこの態度の差はと少々物悲しくもなるのだが、半兵衛の向かいに鶴が座るのを見て、多少迷った末に、自分も半兵衛の隣の席へと腰掛ける。
「君に、訊ねたいことはひとつだけだ」
「はい、なんでしょう」
官兵衛へ話を明かしたときよりもずっと深刻な表情で、鶴へと相対する。一方の鶴は先日ほどのテンションではないが、やはり多少とぼけた様子で首を傾げた。
「会いたい人がいるんだ。これから出会うはずの人、僕の、運命の人だ」
昼下がりの日差しが木の装飾に彩られた窓の外から差し込んで、彼の銀の髪を透かし眼鏡のメタルフレームを輝かせる。整った顔は真剣な表情で、長い睫毛に縁どられた色素の薄い瞳が、少女を見つめた。加えてこの甘い声だ。神とは恐ろしい生き物を作り出すものだなとぼんやりと思いながら、官兵衛も傍観する。そしてその神とやらは家康なのかと、それを考えてやはりよくわからない。実感もない。神の存在など生まれてこのかた一度だって感じたことはないし、きっとこの先もないだろう。それが普通で、当然だ。多くの女をとろけさせる(しかも無意識である。尚更怖い)半兵衛に平然と、常通りの表情で相対する鶴はなかなか見事な女子高生だ。じいと半兵衛を見て、それから少し宙を見上げて悩む素振りを見せて、やっと半兵衛へと向き直る。
「これから……、この先に、そうした人にあなたが新たに出会うことはありません」
そう、きっぱりと断言した。見えるもの、それが正しいと、信じきった、あの目と声だ。
まずいものを感じて、はと隣の男を見る。信じられないと、見開かれた目が物語っていた。血色の悪い唇が震えて、細い指先がそれをおさえる。
「……う、うそ……うそだ……」
見る間に彼の顔面から血の気が失せていく。「おい、だいじょう――」官兵衛が言い切るより先に、ガタンと音を立て椅子から立ち上がると、どこか覚束ない足取りでしかし足早に、喫茶店を去って行ってしまった。おいおい、と呆れながら立ち上がりかけて、向かいの少女をちらと見る。
「……わ、わたし……」
最悪だ。今すぐここから消えてしまいたい。すべてのことをなかったこととして、今すぐバイトに行きたい。なにも考えずに身体を動かし汗を流して、お賃金を貰いたい。
そんな逃避がざっと頭を駆け抜ける。俯いた少女は瞳に涙を湛えて、震えていた。
「わたし、なにか悪いことを言いましたか……?」
なんだ、この、イベントは!
叫びだしたい気持ちを抑えて、焦る心も抑えて努めて優しい声を出そうとするけれど、どうにもへたくそだ。「いやな、ちがう、ちがうんだ。おまえさんは悪くない。ただちょっとあいつは、なんて言うかすごく、気が短くてな……」「嘘! うそです! 確かに気が長くはないですが、すぐに怒るような人ではありません! そんなことは一目でわかります!」
「ああー……ああああ」
どうしろと言うのだ。どうしろと言うんだ神様仏様家康様! 本当にいるのなら、今小生がどうしたらいいのか教えてみせろってんだ!
なんとひどい選択を強いるのか。感情的になることの滅多にない、珍しく取り乱した友人と、泣き出しそうな女の子。どちらを見捨てても小生が悪者じゃあないか!
「……すまん、今度ちゃんと詫びをする。会計はこれで払ってくれ。おまえさんは悪くないし、半兵衛のやつも、おまえさんを結果的に傷つけたって意味では悪いかもしれんが、が、そんなには悪くない、と、思うんだ。だから、あまり気になさんな」
財布から二千円を取り出しテーブルの上へと置いて、出口へと向かった。振り返ろうとして、やめる。ここにいるつもりがない以上、それで目が合ってはさらに後ろ髪を引かれるだけだ。それからやはり、己はライトノベルの主人公ではないと改めて理解する。主人公であるならば、選ぶのは逆であるだろう。「ま、望んでもないんだからいいんだがね……」小声で嘯いて、駅までの道を走る。人は少ないので、駅前のロータリーの向こうに薄い背をすぐに見つけられた。
「半兵衛!」
声をかけるが、歩き続ける足は止まらない。近くまで走り、また声をかける。しかしやはり振り返らない。
「半兵衛、おまえさん……」
咎めるべきか、慰めるべきか、言いあぐねながら掴んだ肩がびくりと跳ねた。その薄さと熱のなさに驚いて、思わず手を放してしまう。
「……しんじられない、しんじたくない。そんなはずは、ないんだ……」
嗚咽のような声が零れる。こんなに情緒不安定なやつだったかと戸惑いながら、かけるべき言葉を探す。
「おまえさん……なにもそんな、焦ること、ないだろ。あれが本当かはわからんし、これから探していけば」
「僕には時間がないんだ!」
絞り出されるように張り上げられた声が胸を突く。一瞬、意味が理解できなかった。間抜けに首を傾げてしまう。
「どういうことだ?」
「僕には……もう、残された時間なんて、ないんだ……」俯き、額を手で覆って咽ぶ。官兵衛の問いには答えない。「すぐに、すぐに会わないと……会えない……、会えない……? いやだ、そんなのはいやだ! 会えないなんて、ありえない! だけど、もう、会える、はずがないんだ……もう、出会えない……僕の、運命の人……僕のファム・ファタール……」
まだ日はそれなりに高いので、奇異の目がとにかく居心地悪かった。どうしたらよいのか、わからず愚鈍に半兵衛の前に立ち続けることしかできない。これなら女泣かせと思われながら喫茶店へいたほうが、まだましだったような気さえしてくる。それでも、追うのはこちらと決めたのだから仕方がない。
「……しっかりしろ、半兵衛。少し落ち着け」
「……うっ、う……」
ついに泣き出してしまった事実を途方に暮れつつ受け止めながら、とりあえず手ごろに腰を下ろせそうなところはと、植え込みの端、石の上へと座らせる。
眼鏡をどかして手で涙を拭いながら、人目も憚らずさめざめと泣くさまが意外である以上に、困惑しながらティッシュを渡す。ずっと鞄の中に眠らせていた、いつぞに道端で貰ったポケットティッシュだ。鞄の中でもみくちゃにされて、無残な有様である。差し出されたそれをちらと見て、いいよ、と蚊の鳴くような声で返すと鞄から自分のハンカチを取り出すのだから相変わらずだ。差し出してなんだが、確かに自分もこのティッシュを使いたくはない。
「……ふっ、ぐちゃぐちゃじゃないか」
同じことを考えていたのか笑みを零して、ハンカチで一度顔を拭う。時間として五分程度であったように思うが、ずいぶん長いことのように感じた。
「みっともないところを見せてすまないね」「……おまえさん、その一瞬で素に戻るのはどうなんだ」「強がりと言ってくれ」「まったくだよ。無理しなさんな」平然と言いのけるそれが、本当にただの強がりであると知っているから見ていて複雑だ。
「おまえさんな、すっかり悲しいなんて感情忘れちまったような顔をしているから、結構心配してたんだぞ」
なるべくなんでもないふうを装って言い切って、そっぽを向いてやる。くっくっと、視界の下で笑いをかみ殺しているのが聞こえる。
「きみが、くだらないと言ったんじゃないか」
昔のことについて、言及するのは再会以来だった。そのときにも再会であることについて確認しただけで、具体的な事柄にまでは至っていない。
「…………悪かった」
ちっぽけな、たったの九歳であった官兵衛の言葉が半兵衛のそれからの生き方に歪みを与えてしまったのだとしたら、そんなに重いこともあるまい。生きて人と関わる以上、影響を与えることも与えられることも、避けられるような事象ではないと、理解もしてはいるが。
「なんで謝るのさ」含み笑いがにじんでいる。「それは驕りだよ」放たれた無遠慮な言葉に、ふんと鼻を鳴らしてやった。
「小生も当時は忘れていたかったのさ、悲しみなんてもんはな」
「僕は忘れていないよ」「押し隠しているのにか?」
見下ろす、一方見上げてくる瞳はしっかりと官兵衛を見つめていたけれど、未だにどこか濡れていた。口角をあげる、笑みは美しいけれど、そうだ、この男はいつだって簡単に壊れてしまいそうだ。それが容姿故でなく、その精神によるものであると官兵衛は知っている。
「誰だってそうさ」
答えは極めて正しい。正しいけれど、それが最良とも称し難い。
「つらかったら晒せるやつに適度に晒すもんだ」
「そうだね」
涼しげに応える、それが、そうできる相手がいないのだと言っているようだった。そうしたことも、彼の言う「運命の人」というのに出会えたら解決するのだろうか。この男がそれほどに求めるのが、どんな女性であるのが少しばかり、官兵衛にも気になるところではあった。
落ち着いたようで、半兵衛もゆっくり立ち上がる。「彼女には悪いことをしたな」「謝りに行くか?」「まだいるかな」「わからん」来た道を戻り、窓から覗き込んでみた先ほどの席に、彼女の姿はなかった。
「今度アドレスを教えてくれないか。詫びを入れよう」「おう」
どうしようもないからと、鶴へ官兵衛からメールを打って駅までのろのろと二人、並んで歩いて戻る。夏の日は長く、未だ真昼のようにぎらぎらと太陽が輝いていた。
「さっきの」「なんだい」
「時間がないってのはどういうことだ」
「ああ」
それかと気軽な応えだったので、たいしたことではないのだろうと、胸中が安堵することを急いていた。なにごともないのだと、安心したい。心臓がやたらと早鐘を打って、暑さだけでない汗が吹き出る。
「持病のね、手術をするんだ。来週」
遠いところでの話のようだった。小説の中のような、とびっきりに現実離れして、荒唐無稽なやつ。それこそ前世からの因縁がなんとか……それって今の現実じゃあないか。
「成功率は三割。僕はきっと、だめだよ」
夜は寝た思いがしなかった。信じられなかったし、なぜなにも言わなかったのかと怒ってもやりたかった。黙って手術を受けて、黙っていなくなって、秋になって、なにも知らずに大学で姿を見ないと不思議がるのか。そんなのは、間抜けすぎる。腐れ縁であれ友人だと、思っていたのは自分だけだったのか。なじりたい気持ちになると、だめだと言った、あの諦めるような笑顔が思い出されて息が詰まる。
バイトに行っても身が入らなかった。早朝から昼までのものだったので、済ませてから聞いた病院へと向かう。時計を見ると、面会時間には少しばかり早かった。
「半兵衛の面会人ってのは、アンタかい?」
親しげな声に顔をあげると、官兵衛ほどではないが長身にがたいのいい、感じのいい男が立っていた。官兵衛の苦手とするタイプだ。長めの前髪が無造作なようで、計算し尽くされたように跳ねている。白衣であるが医者らしくも看護師らしくもなかった。ああと頷くと、嬉しそうに馴れ馴れしく握手を求めてくる。
「あ、俺、前田慶次。半兵衛の担当医なんだ。よろしく」
「え、あ、おまえさん医者か!」
「はは、よく言われる!」
あまりに親しげなので、同じく面会にきた人間かとも考えてしまったほどだ。信じられないと訝しがるのも意に介さぬとばかりにほんと困るなあとしまりのない笑顔で頭を掻いている。
「あいつさ、ぜんぜん誰も面会来ないんだ。両親も」
どんと官兵衛の隣に座って、目を伏せる。軽薄そうな印象があるが、案じる声の深刻さは並々ならぬものだった。彼なりに、半兵衛について考えているのだろう。やたらと近い距離の取り方も、官兵衛には、そして恐らく半兵衛にも合わないのであろうが、多くには好まれるのもであるのだろうとはわかる。
「両親がなんで来なくなったのか、俺には分からないし訊けないんだけど……、なんてんだろ、怖くて来れないのかなっても、思うんだ。ほんと、勝手なんだけどさ」「勝手だな。どうしようもなく勝手だ」「ほんとな。ま、俺の推測なんだけどさ。でも、だから、きっと、手術が成功したら良かったって喜んで、会いに来ると思うんだ」「勝手も大概にせんと残酷なだけだ。それで後悔せんと言うんなら、好きにすりゃあいいが」「うん……そう、だな」まるで責められたのが己であるかのように、声のトーンが落ちる。「それでも半兵衛がさ、人を求めてるのって今だろ? 放っといてくれって顔しちゃいるけど、やっぱり怖いだろうと思う。手術後に良かったねって、言ってくれる人も確かに必要だ。今回のも、術後一月は安静だし。でも、一番大事なのは、なんも言わず手術前に会いに来てくれる人なんじゃねえかなって、俺は思うんだ」
どうかな、と、強い光の宿る目で見つめられると、ソウデスネと返すほかがない。少々押しつけがましいことを除けば、実際特に異論もない。
「だからアンタがさ、なにくん?」「黒田官兵衛」
「官兵衛がさ! いいじゃん半兵衛と官兵衛で、二兵衛じゃん! いっぱい来てくれて、ちょっとでも半兵衛が元気になって、手術へも前向きになれたらいいなって、俺は思うわけよ!」
差し出された手を逃れきれず握り返すと、ぶんぶんと振られる。アア、ウン、ソウッスネ、片言の返事にも慶次はうんうんと、満足そうに頷いている。
「実際さ、難しい手術だよ。アンタ、ほんとに俺にできんのかって思ってるだろ?」
「はあ? あー……そんなこと……うん……いや、まあ、そうだな」
「だろ?」
おちょくるように笑う、それが燃えるような激しいものではないにしても、屈辱感の裏返しであることは一目でわかった。
「俺、こんななりだけど、結構まじめに医者やってんだ。怒られることもあるけど、わりと好評なことも……や、っていうのはまた別の話で……。俺はさ、病気になった友達を助けたくて、医者になったんだ」
凪いだような声。聞きたくないと、耳を塞ぎたかった。
「半兵衛が、それと同じ病気なんだ」
こんな、物語のような展開はごめんだ。仮に官兵衛が主人公だとしたら、最後には畳みかけるような不運を迎えての悲劇になると相場が決まっているのだ。ご都合主義、頭の軽い喜劇もごめんだ。悲喜こもごもの、現実の熱さと冷たさの中にいたい。
「でもね、安心してくれ。執刀するのは俺じゃない」
「……なんでじゃ。治したいんだろ」
「治したい。半兵衛に、治ってほしい。いや、手術は和らげるだけで、結局のところ一生病気とつきあってはいかなきゃいけないんだけどさ。それでも近々から、何十年って、そりゃあ大きな違いだ」
「それで、誰が執刀するんだ」
「この病気の権威の先生がいてね。専門で研究してるんだよ。外国にいるんだけど」
「わざわざ日本に来るのか?」
「俺が直接先生に頼んで、半兵衛の両親も納得したんだ。だから両親だって、治らなきゃいいなんて思ってるわけじゃない。……にしてもさ、笑っちゃうよ。最高の治療をしたいって思って、できるのが良い医師の紹介だけだなんて、情けなくってさあ」
「仕方ないんじゃないか。おまえさん、普通の外科だろ。全般やってきたおまえさんと、専門医とじゃわけが違う」
「うん……わかってんだけどね。やっぱ、悔しいんだろうなって」「……」
なにも言えなかった。言いようもあるまい。そもそも、この男は言葉など求めてもいないのだ。話す相手だって、突き詰めれば誰でもいい。
「はいっ、しめっぽい話は終わり! そろそろ面会できると思うよ。俺はお仕事に戻りまあす」
立ち上がって数歩、くるりと半身だけ振り返って微笑む。
「とにかく俺がお願いしたいのはさ。アンタも忙しいだろうけど、なるべく来てあげてほしいなって、そんだけ!」
じゃ、とあげた手をひらひらと振って、男は去って行った。つくづく妙な医者である。
本来の目的を済ませようと聞いた部屋へ向かい、ドアの前で、立ち止まる。いきなり開けてよいものか、それともノックをするべきか。逡巡の間に、
「入りなよ」
戸の向こうより声が飛んできた。許可が出たならば早い。戸を開いて、中へと足を踏み入れた。
四畳半ほどの過不足ない部屋に、ベッドがひとつ置かれている。真夏のじっとりとした空気と日差しがしみこんでいるはずなのに、室内はどこか灰色に薄暗かった。想起する、父の病室はつい最近に見たもののように脳裏に描き出された。その灰色が、死の色に見えておそろしかったのだ。それが妄想であると知りながらも。
半兵衛はベッドの上に起きあがって、窓の外を見つめている。昨日と同じ光景がなぜ、こうも異なるものと見えるのか。病院着から覗く腕は昨日と変わりないはずなのに、ひどく不健康そうに見える。頬と首筋の線は、気のせいか、数ヶ月前よりもやつれているように感じられた。
「なにも、言わないつもりだったのか」
返る答えは知っていた。それでも確認せずにはいられない。友人だと、思いこんでいた驕りを打ち砕かれるためである。
「うん」
わかっていながら、非情であると思う。嘘だと、そうではないと言ってほしかった。同時にまだ嘘を吐かれないことが、嬉しかった。
「だけどね、結局は知ってほしかったんだよ。きっかけを作ってしまった。本当に、なんでもないふりをして、最後まで隠し通すことはできなかった。そうできるだけの、強さがなかった」
「そんなのは強さじゃない」
思わず語気を荒げていた。半兵衛は振り返らない。いつかのように、驚いた顔をして官兵衛を見ることもなかった。
「そんなのは強さじゃない。簡単なことじゃないか、材料だってそうだろう、硬ければ強いんじゃない、多少やわらかいほうが強いんだ」
とにかく頑なな、この男をどうにか納得させたくてまくし立てる。そんなことは、きっと彼だってわかっている。わかっていて、できないのだ。その難しさも、官兵衛は知っている。
「うん」
わかっている、理解している、そんなことはどうでもいい。そう、してくれなければなにも意味がないのだ。泣いていい、縋っていい、困りはするが、それなりに付き合おう。そう思えど、互いの矜持がそれを言うことも、言わせることも許さないのである。
「だからね、僕は、強かになろうと思う」
振り返った、彼の表情があまりにあっけらかんとしていたので、一瞬間、官兵衛はすべてのことを忘れた。運命だとか前世とか、ここしばらくの一連の出来事も、ここが病室であることも、彼の手術のことも。
「きみに、頼みがある」
きとあがった眉と、強い意志の宿った目には確かな活力があった。風が吹いて、カーテンがはためく。思わず数度瞬きをして、目を開いた、そのときには、病室に見えた死の幻影は掻き消えていた。
「家康くんを呼んでくれ」
言いながら、風に乱れた前髪に手櫛を通す。「はあ?」素っ頓狂な声があがる。当の半兵衛はなにかおかしなことを言ったかと、平然としている。
「話したいことがある、この病院に連れてきてくれ。僕が手術をする日に」
「どういうこった。なんで家康なんだ」
まったく話がわからない。
「それで、僕の手術の最中、なるべく手術室の近くで彼を気絶させてくれ」
「なに言ってるんだおまえさん!?」
ついに頭がいかれたのかと昨日以上に途方に暮れた気持ちでいると、呆れたような顔をされる。そうしたいのは官兵衛のほうだ。
とにかく呼べ、の一点ばりで、なにひとつ話が進まない。結局連絡はするが、来られなかったら諦めてくれということで妥協した。のは官兵衛だけで、半兵衛は必ず連れて来るようにと譲らなかったのであるが。気絶に関しても官兵衛はしないと通したが、半兵衛は絶対しろとそればかりである。らちがあかないと、退散してきたのであった。
気絶というのがなにより意味がわからないのであるが、曰く、半兵衛が死との境にいる間であれば、神との接触が図れるからとのことである。そのままの状態では神も人間と関わることはできないが、元の本体である家康の魂を憑代とすれば、人間との対話も可能な形になる可能性が高いとか。そのために、家康の魂も身体からいくらか離しやすくする必要がある。
なぜ今人間として家康は生きているのに、神としても存在しているのか。それは徳川家康は神となった瞬間に過去も未来も現在もない、時間という概念から超越した存在になるからであると言う。つまり、彼が神になるという未来の有り得る限り、徳川家康という人間が現在この世に存在していようが、現在にも過去にも神としての家康の力は届くのだ。
意味がわからない。わかるのだが、わかったところで、なんと無茶な。仮にできたとして、どれほど危険なことをしようとしているのか。もしもそうした交わりの末に家康の魂が元いた身体に戻れなくなったりでもしたら、どうするつもりなのか。そう問うても、「大丈夫だよ。彼は神になるんだから、こんなところで死んだりしないさ」とどうにも投槍である。
とは言え呼んでみるだけならばよいだろう。いまいち理由がつけがたいがとにかく予定を訊いて、その日が埋まっていさえすれば、話はそこで終わりとできる。しかしメールでそれとなく都合を問うてみると、どうしたことか、ハイパー急がしいマンであるはずの家康がその日は空いていると言うではないか。運命のいたずらとはかくもあるものかと途方に暮れながら半兵衛の手術の経緯を話して、よかったら見舞いに来てはくれないかと、ものすごく来てほしくなさそうな文面で送信する。と、ふたつ返事で構わないとすぐに返ってきた。ちなみに半兵衛とは、官兵衛と二人で食堂にいるところで偶然会って、挨拶をしたことがある顔見知り程度の知り合いである。お人好しにもほどがある。むしろよく覚えていたものだ。確かにこれで半兵衛から怒られずに済むが……もちろん怒られるのが怖いなどということはないのだけれど。気絶をさせると言われた件については一体どうしたらよいのか。頭を抱えながら、喜ぶべきか悲しむべきかを考える。
それまでも数度面会へ赴きながらバイトをして、すぐに手術の日は訪れた。病院の自動ドアを通り待合室へ入ると、先についていたらしい家康が安っぽい長椅子に座っていた。すぐに気がついて小さく手を振られる。しばらくぶりの再会が、ずいぶん奇妙なことになってしまったものである。家康が一度もなぜとは訊ねないのがまたわからない。まるでなにも不思議なことなどないかのように、了承されたのである。
手術の前に、半兵衛と面会ができた。家康は小さいながら花束を持ってきていたようだ。そういえば、見舞いと言いながら官兵衛がここへなにかを持ってきたことは一度もなかった。たったの二度目であるはずなのに、最早旧知の仲であるかのように挨拶をしているのがまたおもしろい。看護婦が訪れて、そろそろと言う。それじゃあと家康へ礼を述べて、去り際官兵衛へ目配せをする。期待をされても困る。
「それじゃあ、そろそろワシらは帰るか。それとも手術が終わるまでいるのか?」
言葉に詰まる。どうしたらよいのか。どちらを選ぶことも、できない。などと、そんな悠長なことを言っている場合ではないのだ。気絶させる方法を考えて、やはり、と諦める。体育学部でアメフト部のエースである家康に、背丈では勝てるが、運動能力で勝てるとは思えなかった。
素直にわけを話し、せめてと眠ることを頼んでみる。長い話を、家康はただ静かに、うんと相槌だけを打ちながら聞いていた。
「その間、小生が横についている。なにかあったら叩き起こしてやる」「ワシが神……妙な話だなあ」
「小生も、そう思う。家康、おまえさんはただの人間だよ」「うん。ワシは人間だ」
丁度昨日の練習試合で疲れていたのだと、家康は椅子に座って壁へ背を預けるとすぐに寝ついてしまった。
その横でなにもすることがない官兵衛は、持ち歩いている教科書を読んで時間を潰した。すぐに起きないものかと、わざと音を立ててみたりもしたのだが、家康の眠りは深いのか、起きる様子はなかった。途中数度通り過ぎた看護婦や入院患者らしい子供に声をかけられたが、それでも身じろぎひとつしなかった。
じれて、いっそこちらも寝てしまおうかとだらだらしながら、結局はまた教科書を開きに戻ってしまう。文字列を目で追いながら、内容は、少しも頭に入らない。
たっぷり三時間ののちに、びくりと家康の身体が跳ねた。「……う、」顔をこすりながら椅子に座り直しているのを見て、官兵衛が絶句する。「……おい、権現、大丈夫か」「……ん?」顔をあげる、表情はつねの通りだが、その瞳からぼろりと涙が滴り落ちた。「ん? ん、んん……ああ、おはよう……」口元をおさえて、眠そうな声をあげながら、しかし涙が次いで出る。寝起きに涙が出るタイプなのかと安穏なことを考えながら一先ずはなにごともなく目覚めたらしいことに安堵していると、肩がひく、ひくと跳ね始めた。口元をおさえる手のひらもそのままだ。なんともよく男に泣かれる一週間である。この愉快さを誰かと共有したいものだが説明がなんとも込み入って難しい。一週間に二人も、普段泣きそうもない男に目の前で泣かれたよ。と一発ネタにしかならぬ。理由を問われたところで前世が云々、神がどうこうなどと説明する気にもなれない。
「……あー、大丈夫か、いえやす」
ん、と一瞬だけその音にひっかかるような違和感を持って、けれどすぐにその感覚は霧散する。涙に濡れた顔で、ふふと笑みながら「大丈夫だ」と返されるので、表情は穏やかであるがむしろ怖い。
「すまないが、ワシは先に帰るよ」
目をこすりながら立ち上がって、家康が言う。突然のことに少しばかり驚いて立ち上がれずに、「ん、ああ、こちらこそすまん」と社交辞令のような挨拶を返してしまう。「いや、ワシのほうこそ、礼を言わねばな」「礼?」「ありがとう」
見つめてくる、瞳の色にぞっとした。燃える金色の瞳。それは見たことのない色だ。海であり、空であり、大地であり、そして生命の色だ。一瞬の混乱ののちに、すべてを理解した。自分のしたことの、意味を。平気である、はずだった。なにも感じていないはずだった。けれどどうしてか、割り切りようのない罪悪感が腹の底に深く、渦巻くのを感じた。
その直後、手術は無事成功したとの報を聞いて、官兵衛は病院を後にした。意識も問題なく戻るだろうとのことである。もう暫く意識は戻らないと言うし、無事終わりを見届けられただけで十分だ。
以前に聞いた話だが、家康は同居人がいるそうだ。どのような男か、時折家康の話に聞くのみであるが、今日、帰った彼を見て、その人はどのような顔をするのだろう。いつも通り、送り出したのと同じように迎えるのだろうか。そうかもしれない。きっとそうであればいい。
その日は帰ってさっさと寝て、翌日午前に病院へ向かうこととした。午後にはバイトが入っていたためである。今日のバイトは寮近くのローソン100だ。まだ目覚めていないのならばそれでいい、ただの様子見だ。けれど面会開始時間ぴったりの十時に訪れた病室で、既に半兵衛は目を覚ましていた。身を起こすことはできないのか、ベッドの上部とともに、ゆるやかな角度で身を起こしている。
「意外と元気そうでなによりだな」「そうだね。生きているだけで信じられないよ」「まったくだ」
「麻酔が切れてきて死ぬほど痛いけど」「痛いのも生きているからだろう」「本当にね」
話す口振りは、どこか気だるげだ。あまり嬉しそうでもないのが、奇妙である。
「神への直談判はどうだった」「決裂さ」「へえ?」案外な結果に眉を上げる。てっきり成功したものとばかり思いこんでいた。だから、無事であるのかと。
「なにもできない。そう言われたよ」「それは、」「できないからできない、だそうだよ。できるけれどしない、のじゃあなくね」「ふうん……神ってなあそういうもんなのかねえ……」
「その代わり、今すぐ死ぬようにはできると言われた。目を覚ますことも。いや、成功するはずだったのだろうね。けど、失敗にすることも、できると」
答えは聞くまでもない。男は今、官兵衛の目の前で生きているのだから。
「それで、おまえさんはなんと答えたんだ」
「そう言われて初めて、僕は死にたかったとわかったんだ」
「ふん」「それは生きたいとか、死にたくないとか、それらを地盤にして初めて成る感情だ。いつか突然死ぬのが怖いから、今死んでしまおう。破綻しているけれど、そういう論理だ」「わからん」「君にはわからないだろうね」「わからんね」
「それと同時に、僕は本当は死にたくないのだとわかったよ」
「それで、今ここにいると」「うん。多分ね」
万全でないが、彼なりの答えを見つけたようである。なにかが解決したわけではないが、おそらく、これからまた半兵衛は焦燥など知らぬように戻るだろうし、一月後には、またなにごともなかったように大学で、忙しく、ゆるゆるとした変わらぬ日常を表向きには過ごすのだろう。完璧なる優等生のまま。
「竹中さーん」「はい」
戸の外より、看護婦らしい声がかけられる。「お時間外なのですが、問診をいいですか」「ああ、どうぞ」「じゃ、小生は退散させてもらうかね。また――」
言って立ち上がりかけたところで、病室の戸ががらりと開けられた。「あっ、ごめんな半兵衛! 突然さ、手術の執刀をしてくれた先生が、目が覚めたなら診たいって言い出して……」午前に聞くには多少やかましいテンションの声は以前にも会った、担当医の前田慶次である。しかし半兵衛の視線は、そちらには一筋も向けられてはいなかった。
「竹中半兵衛」
地を震わすような低音が響いて、天井を突く巨体が、戸をくぐり病室へと足を踏み入れる。
「よくぞ施術に耐えた。その生命力、感服に値する」
見上げる半兵衛の顔が、子供のように惚けている。
「我が都合で直接の挨拶が後になってしまい、すまない。豊臣秀吉だ」
半兵衛の数倍もある手のひらが、彼の眼前へと差し出される。「ひで……よし……」その名を口の中でゆっくりとつぶやいて、目の前の大きな手を、比べればずいぶんと小さな両の手が包み込んだ。
「秀吉……!」 男を見上げるその頬が、薔薇色に染まっていく。感極まって、涙のにじんだ目を、すぐに指先で拭うと男は咲った。
「秀吉! ファム・ファタール、僕の、運命の人!」
この幸福な画に、なんと名前をつけたらよいのか官兵衛にはわからない。なにせどうやったって、己は額縁の外の人間であるのだから。例の相手にも思うところがあるのか、拭えど拭えど溢れてくる半兵衛の無味の水を、太い指で拭ってやっている。やはり主人公は己でなく、彼だったのだと遠くで思って、ひそり病室を去ろうと足を踏み出した。
「きみも、ありがとう。官兵衛くん」
一人去ろうとした、その背に投げかけられて、照れよりも居たたまれない。それでも胸の底にじわりと滲んだ熱が、喜びであることはわかる。振り返って、精一杯の笑顔を作ってやった。
「おまえさんこそ、よかったな」
結婚式の最中のような笑みを見返して、祝いの言葉を肩越しに投げると格好をつけて病室を去る。共に訪れていた慶次と看護婦が、廊下でぽかんとしているのはなんとも痛快だった。笑ってもいいのだと、いっそ教えてやりたい。黒田官兵衛はクールに去るぜ。言ってみて、存外喜びよりも惨めな気持ちのほうが大きいことに気がつくのは、人間力の問題であろうか。
力になりたいと思った友が、幸福そうであるのはなによりである。しかし結局この一連で、自分がなんの力になれたかというと、それが疑問なのである。すべて初めから歯車が定められていたかのように、がちがちと、回転して勝手に噛み合って行ったかのようだ。官兵衛は無数の歯車から噛み合うものを探してきたのではない。初めから、噛み合うように揃っていたものを回しただけだ。それを功労と、呼んでいいものか。奇妙な無力感が、胸のうちに残っていた。
病院を出て、バイトへ行った。その翌日も、さらにその翌日もバイトであった。病院通いがなくなってすっきりしたはずが、なにか物足りなく思うのは気のせいだと思うことにした。なぜなら半兵衛と会うことは、もう二度とないように、自然、思われたからである。いずれ別れが来るとは漠然と理解していた。それが死であるのなら、抗ってもやろう。しかし彼から、自発的に別れて行くのであれば、それは止めようがない。止める権利も義理もない。半兵衛は秀吉とともに行くのだろう。その事実を思うと、羨ましいと感じてしまうのはどうすることもできなかった。それがどうしてであるのかは、官兵衛にもよくわからない。
感動の邂逅を果たした彼らは大団円を迎えて、今頃はエンドロールが流れているのだろう。そこに脇役である、官兵衛の姿は必要ない。
残りの夏休みは、淡々とすぎた。九月も夏の盛りである。暑い中、身体を動かすバイトをするのは気持ちがいい。毎日コンビニバイトのシフトと派遣を入れて、週一程度で休みを入れる。休みには友人と町をぶらぶらしたり、飲みに行ったり、海へ行くこともあった。
鶴とも九月の終わり、改めてもう一度会った。先日の詫びと、報告のようなものである。結局前回に食べられなかった喫茶店で、である。はたから見たら自分たちはどう見えるのか、考えるとなかなかに恐ろしい。
「結局、これから会うんじゃなくて既に会ってたって話か」
「そうですよ。私はなにも嘘は言っていません!」
「わからんでもないが、おまえさんは本当に少々ずれてるなあ……」「むむっ」
遠慮もなく豪勢なパフェを食べながら、鶴が唸る。頬に生クリームがついている。おもしろいので、なにも言わずにそのままだ。
「なあ、小生の、……先日に言っていたようなことだが……具体的には一体いつに起こるんだ」
「うーん。ちょっと待ってくださいね。……すっごくひどい目、はすぐ近くですね!」
「なっ……詳しく! もうちょっと詳しくたのむ!」
「ううん……。……近頃、以前よりも模様が、はっきりと……濃くなりました」
一転、声のトーンを落とす。「悪いことなのか? 見えやすくて、いいじゃないか」商売には最上だというのに、彼女は浮かない顔だ。
「悪いに決まっています。運命なんて、決まっていないほうがいいんです」
へえ、と声をあげる。予想とは真逆の言葉であったからだ。彼女は見える運命を当然のもので、好いものであると感じているのだと思っていた。
「今までは、あっても薄く、ぼんやりしていたものが、……そうですね、三週間ほど前から、急にはっきりし始めました」
三週間前。それを聞いて、どきりとする。
心当たりがあった。
「やっぱり、なにかしたんですね」
つくづく嘘が苦手らしい。顔に出ていたようだ。思わず手で顔を覆うが、どうにも意味がない。ただ恥ずかしいだけだ。
「企んだのは半兵衛さんですね」
「……いや、あいつは、ただ家康と話すって」
「ああ……だから……。太陽が、眩しすぎると思いました」
からからと、アイスティーの中で氷が崩れる。焦りのような感情が、なにかを急かす。しかしそう背を押されたところで、向かうべき場所もないのだ。
「悪いことなのか。あいつは世界を平和にするんだろう?」「ええ。世界は平和になります。でも、それ以下にならないのと同じように、それ以上にもなりません。ずっと、同じです」「それは悪いことなのか?」「どうなんでしょう。わかりません。でも、私はいやです。私は、もう、……」
はっと顔をあげると、なんでもないですと、笑う。無理をしているらしいことだけは、わかった。けれどその先を、訊ねられない。訊ねることはできなかった。
彼女と会って数日。すぐ近く、と言われながら、大きな不運が官兵衛へ降り注ぐことはなかった。得体の知れぬそれに気をつけながら、以前に鶴より言われた、目指すもの、夢について、近頃はよく考える。きっと、それは半兵衛にとっての秀吉のようなものであるのだろうと、思うのだ。
あっという間に夏休みは終わって、後期のガイダンスである。成績表の配布と、後期の授業や生活の諸々について、担任から説明をもらう時間である。またそれなりに連める友人を作りたいものだと思いつつ、既にグループが確立している今からでは難しいだろうなあとぼんやり思う。元親と話せるから、それでいいかとも思う。最悪勉強でわからないところがあれば、担当の教授に訊ねればよいのだ。九時に起きてぼんやりとトーストをかじりながら、九時四十分には寮を出た。十分ほど余裕を持っての登校である。まだ静かな教室の戸を開けて、立ち止まる。
「やあ。用が済んだら見舞いにも来てくれないとは、薄情なものだね」
唖然として、ドアノブを持ったまま立ち尽くしてしまう。なぜ、いるんだ。
「なんだい、幽霊でも見たような顔をして」
涼しげな顔をして、そこへいるのは紛れもなく竹中半兵衛その人である。
「……いや、なんでもない」戸から手を離して、通例の、通路を挟んだ隣に荷物を置く。
「飲み物、買ってくるのかい?」「ん? あー、そうだな」「僕の分も頼むよ」「へえへえ」
ぶらと購買へ向かって買い物を済ませ講義室へと戻ると、とん、と彼の前に買ってきた紙パックを置く。
「……アロエナタデココ」「不満か?」重ねられた八十九円を取って、財布にしまう。「そこまで変じゃあないだろう」「僕の基準では、変だね。飲み物よりヨーグルトにでもすべきだ」「じゃあこっちにするか?」パックを開き始めた半兵衛に、茶と黄の缶を振ってやる。手を止め一瞬考えて、「そうさせてもらおうかな」天変地異の前触れである。
「ま、まて、こっちは八十九円じゃないぞ。百十九円だ」「いただきます」
奪った缶のプルタブを開けて、目の前でごくりと嚥下する。
「……げえ、やっぱり甘いな」
「だから言っただろ!」「言ってない言ってない。じゃ、君はこっちをどうぞ」「うええ……」開けかけのパックを受け取って、ストローをさす。飲むとごろごろと固体が転がり込んでくるのが、なんとも言えぬ飲み心地。まずくはないが、わざわざ飲みたい味でもない。固体でいい。
「おまえさんなあ、文句言うなら自分で買ってくりゃあいいだろ」「いやだね。遠回りだもの」
意地悪く笑って、細長い缶をことりと置く。
「これからもよろしく」
頬杖をついて、微笑む。ひとまずは、この日常があれば、なにも問題はないように思えるのだ。この中で、ゆっくりと目指すものを探していけばいい。
エンドロールは遥か遠く、どうやらまだ、話は続いているらしい。
エンドロールは遥か遠く
目が覚めると、さっぱりとした秋晴れだった。いや、まだ夏のロスタイムと言っていい。秋などあるものか。さっさと帰って風呂に入ろうと、起きあがると頭が痛んだ。そしてたいそう気持ちが悪い。腹と胸と喉のあたりがぐわぐわとする。そのまま再び床に倒れ込んで、ああと深い息を吐く。染みの目立つ天井と黄ばんだ蛍光灯。眠っていた部室は簡易な座敷である。
後期が始まって一週目、授業はまだガイダンスばかりで半分夏休みのようなものだ。いや、実際のところ工学部の授業は一回目からみっちり講義をするものも多いのであるが。それでもやはり、金曜には飲みたいものだ。部室で持ち寄った酒を空けて、うっかり深酒が過ぎて眠ってしまった。夜の更けたころに一度起きたのであるが、土曜は嵐との報があったためか、皆既に帰っているようだった。堅実なものである。外は既にがたがたと風が吹き始めていた。
皆官兵衛の貧困生活を知ってか、飲みで残った食べ物には「黒田へ」と書かれた紙が乗せられていた。それだけを確認してもう一度眠ると、次には昼に近い朝だった。その頃には予報の通り、外はひどい嵐である。窓はがたがたと揺れ、びしびしと雨粒がぶつかってくる。傘もないし面倒であるし、なにより今日はなにの予定もない土曜日である。残された食べ物をだらだらと食べ、部室の漫画や小説を読みながら一日を過ごした。そしてさらにその翌日、今日は午後からバイトであるし、いい加減風呂にも入りたい。天気もすっかり落ち着いていたので最高だと寮へ帰って、凄まじい光景を見た。
寮が倒壊していたのである。
正確には全壊でなく半壊であった。しかし悲しいかな、官兵衛は己のことをそれなりに理解しているつもりだ。その陰が見えたときにはまさかと思ってはいたが、官兵衛の部屋は、見事に崩壊していたのである。まだ朝早いので作業は始まっていないのだろう、近くにはクレーン車が止まっていた。鶴の言葉が頭を過ぎる。
官兵衛の居城は、こうして一瞬にして崩れ去ったのである。
「そんなわけで、しばらくお邪魔させてくれ」
「断る。レオパレスでも取ったら?」
「ぐううう……そんな散財をしたら後期を生きていけない……」
「大変だねえ」「薄情者め」
「きみにそんなことを言われるとは心外だな……」
「頼む。この通り!」
「……不本意だけど、家事をするなら、考えないこともない」
「する! なんでもする!」
「掃除洗濯、たまの自炊も頼むよ」
「するする!」
「結構。ま、布団は一組しかないけどね」
(13/05/06)