14年06月15日 又モブペーパーより再録
裂け目の目立つ紫色の、羽織に覆われた猫背はのそのそとしたようで、その実誰よりも疾く戦場を行ってしまう。それを追うのは一兵卒である男には土台不可能な話で、背はあっという間に遠ざかって消えていく。その後を、行く力がなければ身分もない。それは仕方のないことだ。そう諦めの自覚もなく納得してしまえば簡単で、できることもさしてはない。しつこさと積極性を混同しているきらいもある。それは互いにのことだ。
せめてもの習慣として、戦のすっかり済んだ主へ傷の手当てを申し出る。ことが落ち着いてからとなるのは互いにすべき仕事は他にも山積みあるのだから仕方もない。それがちょうどよい妥協点であると男は信じこんでいたし、主の心は理解のできた例がない。それは男が愚鈍だからと、男のみならず又兵衛さえ疑いもなかったのだから改めようもあるまい。ぶつぶつと吐き出される支離滅裂な主の文言がわからぬのもそのせいと、巻かれるくだを聞き入れながら諾々と腕に布を巻いている。
その時間を穏やかに感じられるのは恐らく浪人衆の中には男のみであっただろう、そも日々神経をすり減らし、気を尖らせていく主へ恐れることなく歩み寄り、傷の手当てを申し出る奇特者など男の他にはいない。誰もがその不機嫌の不条理な発散先とならぬよう、静かに、ひっそりと視界に入ることを避ける。それが男には不思議でならぬ、そうして避けながら、それでも多くの者はここに残っているのだから。
「又兵衛様、痛みはございませんか」巻いた布をぎゅっと締めながら問いかける。湿っぽい地下穴の中、土の臭いには男も最早慣れていた。
「ああ? オマエ……頭悪いんですかぁ? ケガしてるんですよぉ、痛くないわけねぇだろ?」
「元気なようで安心致しました」
正直に応えば、バカにしてんのか……と気色ばんだ声が降りかかる。その怒りも男はさして気にならぬ、そもそも本気で怒っていると、気がついてもいないのだ。「又兵衛様はいつもお一人で突き進まれる。もう少し、我らを信用して頂きたく」「ハア、木偶を信用しろってんですか」「然り。木偶も集えば幾らか力になりましょう」肉刺だらけの男の指先が、暗さのせいだけでなく、不器用に布の先を結ぶに手間取っている。主の目がその手元でなく、宙へ向いているのが幸いか。
「木偶も集まれば、このように又兵衛様へも一太刀浴びせられるのです」
片一方で作った輪の中へもう一方を通そうとする。もう少し、そうしたところで、振りあげられた腕は男の手の中から逃げて、あっと声をあげる間もなく、立ち上がった主はのそのそと行ってしまう。
「又兵衛様、まだ終わっておりません!」
「もういいってンのがわかんないんですかぁ? ヘタクソのお手当なんざ、してもしなくても一緒ですから」
去っていく背を所在なく見つめながら、流石にこれが機嫌を損ねたことはわかる、けれどなにがいけなかったのか、追うべきであるのかはわからない。どうしたことかと考えるうち、結びかけの布を垂らした主の背は穴の向こうへと消えてしまった。
今を華やぐ豊臣の、黒田八虎の筆頭として奮迅せし後藤又兵衛は頭の切れる軍師であったと聞いている。下級武士として家を失い、故郷を失い、主を失くした牢人であった男には、とても遠い世界のことで、想像にも及ばない。ただ、一人で行く背を見ると、その軍略の智を、衆の皆を動かすに用いてくれたらよいのにと考えてしまうのだ。
理由をなくした蝋燭の灯りが、ぼんやりと辺りを照らしていた。地下で蝋は貴重品だ、少しも無駄にはできない。ふうと息を吹きかける、瞬間、広がるのは上も下もない暗闇だ。この洞穴に、昼はない。
翌朝にはすぐに進軍が始まった。北へ行くらしいと誰かが言う。行軍の足が止むことは一日の終わるまでついぞなかった。足を進める先頭の、主の高揚は末端を行く男へも伝わるようだった。日頃、こうも急いた進軍をすることは滅多にない。これは明らかに目的を持った、執念のある足取りだ。どこか常と違うことはすぐに誰もが察して、皆の口数も少なくなる。昨日の主はなにか違っただろうかと、思いだそうとして、しかしいつもとなにが違ったようにも思えない。手当を明白に拒まれるのは一度目以来で、興奮はしていたようにも思える。けれど怒らせたのは飽くまで男自身であるのかもしれないし。こそこそと又兵衛を避ける者たちさえ男へなにか見当はつかぬかと問うほどであるが、心当たりはないと答える他にない。休みのない行軍は十日と続いて、疲れと、或いは狂気を恐れた者が、ぽつりぽつりと列を外れ始めていた。この地下穴に、取り残されてどうするのか。黒田軍のものである、穴道の地理を知るのは又兵衛のみだ。確実に外へ出たければこの行軍に着くしかない。
体力の削がれた身に、次は寒さが堪えた。防寒の用意は十分でない。誰もがじわじわと沁みる寒さに震えながら足を進め続けることとなる。余りに無茶な行軍に、男も疲れ果てながら、主にか、あるいはせめて将の一人へか、進言せねばなるまいと力をふり絞り足を早めた。このときばかりは浪人衆が大軍でなかったことに安堵する。数刻かけて先導へと近づいて、灯りを持った将の姿が見えた。音の染み込む土の壁の中で、なにか、遠くに微か、足音とは異なる音がわんと反響している。
又兵衛の姿はなく、先を一人行っているようだった。将の名を呼ぶ声はこと大きく響いて、男へ首を向けた将の、憔悴しきった顔が照らされた。
気の触れかけた主へ歩み寄ろうとする奇異な男の存在は、衆の誰もが知っている。男の名を呼ぶ声は疲れにか、嗄れていた。将は男よりも一回りは年かさであろうから、この行軍はより堪えるのやもしれぬ。
「又兵衛様へご意見をしたいのだろうが、やめておけ。背を見失い早三日、到底追いつけぬ」
「なれど、後方では列を外れる者も出始めているほど。又兵衛様は目的地へ着いたらすぐさま敵へ攻め入るでしょう。あまりに無謀ではござらぬか」
「然様なことは承知の上だ!」
立ち止まった先頭に、順繰りに皆が立ち止まる。ざわめきがさざめいて、やがてしいんと静まり返った。遠くで反響する音だけが、ぼんやりと耳朶を打つ。鈍い男にも、将の、そして皆の疲れは勿論のこと、憤りや憔悴までありありと感じられた。
「……追いつくことができれば――」
無謀と知りながらの提案は縋るようで、けれど再び、足を進め始めた将は静かに首を振った。ぞろぞろと、列が蠢き後を着く。
右手の提灯を僅かに掲げ、道の先が照らされた。剥き出しの土が続く穴の先にはぽっかりと暗闇が口を開けるばかりで、主の姿は見えない。
「聞こえぬか」
なにか、秘密を告げるようにひっそりと囁く声で、男はやっと、辺りへ響く遠い音へと耳を傾ける。穴の向こう、道の先から聞こえるようだ。意味を持たない雑音が、みるみる輪郭を結んでいく。そうして形を成した音は人間の、後藤又兵衛の哄笑となった。
笑っているのだ。それに気がついて、ぞっとした。
「…………」
男の表情が引きつったのを見て、将も暗闇の先へと視線を戻す。
「……後方へ戻ってよい。ここで、共に進んでもよいが」
「……進軍先は、」「越後、上杉謙信だ」「上杉……」
以前又兵衛が大敗を喫した相手であると、話には聞き及んでいる。その怨恨の深さのほども。すると、この行軍の勢いにもいくらか納得ができた。
「又兵衛様を追います」「……正気か」
「追いつけるかはわかりませんが、出来る限りのことは」
荷から数日分の兵糧と水を貰い、腰へと下げる。いくつもの目が無言のまま、てきぱきと準備を進める男へと向けられていた。
「死体が転がっていたら、端へ除けてください」
不器用に笑んで、隈の深い目がなにか言いあぐねているのを、気づいていないふりをして、隊に背を向け歩を進め始めた。いつだって、主のこととなるとどうしたらよいのものか、どうするのが正解か、わからないことばかりである。けれど今は、初めて傷の手当を強引に申し出たときのように、なにを行うべきかはっきりと見えたのだ。そこで、それに従わぬ法はない。その果てに、得られる結果がどのようなものであったとしても。なにもしないよりは余程いい。
直線だった道はいくらか曲がりくねって、すぐに後方、本隊の灯りは届かなくなった。前方より時折響く狂笑を頼りに先へとを進む。追うにはよいが、こうして一人、聞き続けるにはどうにもつらい。一人ぎりでは昼夜の感覚もなく、腹が空いたら兵糧を齧り、疲れ切っては仮眠を取った。声は近づいているようにも、遠のいているようにも聞こえる。それでも後方より響く行軍の足音は遠のいていくのがわかったので、近づいてはいるのだろう。日にすれば二、三日のことが、男には酷く長く、永遠にも続くように感じられた。
もしも今追いついて、疲れきった体と頭で、主を説得できるだろうか、そうした不安のよぎり始めた頃、ふと、長く声を聞かないことに気がつく。この頃にはその周期が、睡眠も含めおおよそ掴めるようになってきたところで、それに則れば未だ眠るには早い。勿論そうした可能性も否定はしきれないけれど、或いは、……。そう思索を始めたところで、差し込む薄い明かりに気がついた。その意味を解すのに一瞬ばかり時間がかかって、それからやっと、間に合わなかったことを思い知らされての絶望と、少しばかりの安堵が胸のうちがないまぜになる。走り出したいけれど、そうする体力は残っていない。後方に残した軍がどうなっているか、歩くうちには何度だって心配をしたけれど、今になって頭のうちに残るのは、あの、誰よりも強い、そして誰よりも危うい彼の主のみであった。無理な行軍からそのまま敵地へと乗り込んで、兵らに耐えうるはずがない。それは又兵衛にだって、同じことだ。
心が急くのに、足は重くもたついて、巧く進んでくれない。思い通りにならぬ体を鞭打って、先を急ぐ。真っ白な昼の光が少しずつ、真暗な穴倉の中へと差し込んでくる。やがて徐々に姿を現した薄灰色の空に、長すぎる暗闇で過ごした時間から、どうにも己が酷く、場違いな生き物のように感じてしまう。肌寒さが身を衝けど、予想をしたような銀世界ではなかった。思えば暦は春を過ぎているのだから当然か。それでも気温は西の冬のようだ。身を刺すような寒さがあった。
新鮮な空気を吸い込んで、やっとの思いで洞穴を這い出づる。目を焼かれるような光の下で、辺りを窺えば戦場が近いらしい。他にあたりもないので、転がる死体を避け進む。落ちた旗の中に上杉の家紋を見て、また気ばかりが急いた。兵の影はぽつぽつとあるが、戦うようでもなく、戦が終わり双方退いている最中であるのだろう。この戦を知って、乱入すべく主は急いたのやも知れぬ。退却する兵らの中を進んで、ふと、目の前へと立ちはだかる影へ、一瞬呆気に取られて須臾、どっと胸から腹へ、重い一撃が下る。
あ、と息を詰めて背後へ倒れて、それから本来空気に触れぬはずの場所が曝け出されるすうすうとした心地悪さと、それからだくだくと零れ始める血の熱さに困惑する。その傷に慌てて、ここが敵地であることを思い出すに手間取った。至極当然の理を以て男へ切りかかったのは歳若い上杉軍の少年であったが、同じ兵の誰ぞがそれを咎めて、仰のく男へ止めを刺されることはなかった。そのまま倒れ続けてしまいそうな身をなんとか起こして、ずるずると体を前へ前へと進めていく。傷は深く、体は重く、血を失うほどに冷えていくようであったが、疲れと睡眠不足も極まって、燃え尽きる炎が寸前燃え上がるが如く、一歩を進める毎に、体が軽くなっていくようでもあった。傷を抑え握り締めた着物は吸い込んだ血液でじっとりと湿り、握る手に力を込めれば朦朧とした意識が稲妻の如き鮮烈な痛みに閃かされる。幾度も見失った背を捜して、ひたすらに足を動かした。辺りに人の影の消えたころ、遠く、白い陣幕が見えた。それが本陣であると理由もなく確信して、苦しい息を繰り返し、そうするだけの機関となったかのように、痛みと重さを押して、陣へと進む。やがて残った兵らが幕を落として、その向こう、捜した背の、倒れ伏しているのを見た。
一気に体から力が抜けて、膝を落としそうになるのをなんとか、寸でのところで踏みとどまる。そうしたら、二度と立てない。さあと頭の中が冷えていくようだった。口を開けど血痰の絡む喉と痛みに疼く胸では上手に言葉が発せない。「……た、え、さ……、ま、た、べえ、さ……っ」激しく咳き込んで、畢竟、膝を落とす。這い蹲って、けれど咳をする力もなく、喉に絡む血を吐き出そうと苦戦していると、視界がぼやけてなにも見えなくなる。目も痛くてどうも開けていられない。立ち上がる力はなくそのまま、薄ぼんやりと視認できる紫へと這い進んで、あと少しと迫ったところ、肩が、僅かに動いていることに気がつく。それに最後の力を得て、ようやく、地へ落ちた主の手を取った。
「……またべえ、さま」
うつ伏せた顔は兜の影となって、表情は見えない。ひゅうひゅうと、微かな息の音と、その合間、小さく、口の中で呻く声が聞こえる。哄笑は今も男の耳に残響のように貼りついて、とても、目の前で倒れ臥したその人から発せられていたとは思えない。篭手越しでは、その手の熱の有無すらわからぬのがもどかしい。肘に力を入れてじりじりと這い進み、言葉を聞き取らんとする。
「……と……は、……や……」
なけなしの力で、身を乗り出す。断片を繋ぎ合わせて、息を呑んだ。「又兵衛様!」彼自身すらはっとするほど通った声が出て、握る手に力をこめる。
「俺がここに……! お供いたします、地の果てまでも!」
悲鳴は切々として、陣を引き上げ荷を馬へ預けて撤退する上杉の兵すら憐憫に振り返るほどであったが、それを握り返す力はなく、男へ応える言葉もまた、なかった。
「……ひとり……は……、嫌……だぁ……」
突きつけられる事実に、目の前が暗くなっていく。それでも、それでも、……。叫ぶ声は、途切れ、闇へと深く沈んでいった。
* * *
地獄も、天井は土であるらしい。
そんなことを思った次の瞬間、身を貫く痛みに意識を身体へと引き戻される。引き攣るような悲鳴を上げて、もがき苦しんでいると、すぐ横に影が腰を下ろした。
「又、兵衛、様……」
ぐいと身を引かれて起き上がらせられると同時に腹を激痛が襲い、ぐうと呻く。目の前の影がゆっくりと焦点を結んで、甲冑を解いた将が、幾らか隈の薄らいだ顔で男へと水を突き出している。その強い視線に、幼いころ父に叱られたのを思い出して、なんだかばつが悪くなる。引き結ばれた口はなにも語らずとも、答えはわかった。
「……面目ございません、俺……」「なにも言うな」
辺りに他に、人の気配はなかった。浪人衆は解散したのだろう。混乱する頭にも、それはわかった。
未だ耳鳴りのように響く遠い狂笑の向こうで、弱りきった息遣いと、言葉が耳奥に繰り返された。途端、己の恥ずべき驕りを、堪らなく、誰にともなく懺悔せずにはいられなくなった。
「あの方の世界に、俺は存在しなかったのですね」
だからどうしようもなかったと、また諦められたらどんなに良かっただろう。渇ききった体を絞るように涙が瞼裏へ滲み、着物へと垂れ落ちていった。
共に行くと言ったくせに。嘘になってしまったそれを、どうか詰ってほしい。そうして連れて行かれるのも、悪くはない。
けれどことは決定的に遅いのだ。例え腹を切り、あとを追ったところで、詰られることはない。そしてあの背に追いつけることもまた、永遠にありはしないのだ。
見よ、その洞穴の先、果てに待つ暗闇を
(11/10/30)