この冬木の地では、そう語りだした神父の声はいつもの通りの低音で、なにの感情も伝えない爬虫類の肌のような低温だ。
 きみほど敬虔な信者もそう見ない。
 続いた言葉は取り留めもない社交辞令でしかなかった。それは男が初めてわたしに投げかけてきた言葉である。

 友達というものに縁薄かったわたしの足が教会へ向いたのは人が少なく常に静かであるからで、けして信仰故ではない。そも家は仏教である。詳しくは知らないが、葬式がそうだったのだからきっと間違いないだろう。静かな場所は他にもあるが、とりわけここに寄りつく子供はいなかった。わたしの通う小学校では年に一度講演があり、講演者は柳洞寺と冬木教会との交互であるので神父は隔年で訪れる。講演の内容といえば聖書に従った平凡極まりないものであるのだが、子供が記憶するのは話の内容よりも話者たる神父その人だ。天衝く男の縦にも横にも大きなその体格と、確かな自信を持った佇まい。浮かぶ笑みの酷薄さ。子供はみな男をひどく怖がる。ある者は恐ろしい大人の権化として、ある者は大人でありながら子供の如き純真な邪気を膨大に抱える異端として。大人は最早誰もがその異質を平常として疑問にさえ思わない。なにしろ男は確かに教会において完璧な神父であるのだ。ならば疑いなど持ちようはずもない。なにより疑念を持つ者ならば、尚更男に近づかない。その危険は命さえ脅かしかねんと知っているからだ。
 小中高の修学旅行で三度しか県外へ出たことのないわたしの知る教会と言えばひとつのみで、神父と言えばあの薄暗い目をした長身の男のほかを知らない。わたしの背の伸びきる前、巨人に見えた大人たちはいつしか同じ生き物となっていたのに、男は今でもわたしにとって巨人のままだ。
 日曜となると教会は礼拝に広場でのバザーにと賑わうが、他の曜日はほぼ常に無人である。なぜ人が訪れないのかと言えば簡単な話で、単純に不定休日が多すぎるからだ。日曜は前もった休みの告知がない限り必ず開かれるが、他の曜日は完全に神父の都合のみに因る。教会に休日という概念があるのかはわからないのだけれども、坂の上という立地もあり、わざわざ労力をはたいて開いているかもわからぬ教会へ訪れる者は極めて少ない。
 わたしの他に平日よく礼拝堂へ訪れている者はわたしの覚えている限り二人のみで、その二人というのは一度見れば忘れぬほど強烈な人間である。数度礼拝堂の奥に入っていくところを見たことがあるのであるいは神父の関係者であるのかもしれない。一人は青年で、一人は少年であるが彼らは揃って明るい金の髪を持っている。青年は知らないが、少年はまがまがしい赤の瞳だ。どちらも整った顔立ちもあってまるで造られた美術品のように見える。赤瞳というのは、外国人の多い冬木でもそうは目にかけない色合いだ。顔立ちもどことなく似ているので恐らくは親類であろう。他にもそれなりに通っているらしい顔はいるが、確信を持っては覚えられない程度だ。
 少年とは一度だけ、話をしたことがある。わたしが高校三年のとき。受験が終わり、あとは結果の出るのを待つだけで、しばし足の遠のいていた教会に再び入り浸りはじめてすぐのことであった。
「おねえさん、ずっと前から来ていますね」
 文庫本のページを捲くるか捲くるまいかというところ、突如話しかけられて少なからず動揺した。その数年わたしはやっとこのこどもを幽霊か物の怪の類ではないかと疑い始めていたころで、それというのも彼はいつまで経っても成長が見えないのである。まるで彼だけを時が避けて流れているかのように、その姿は変わらない。髪すら伸びていないようにも見えた。それは彼ほど顕著でないが、青年にも共通する。
 わたしはキリスト教を信仰してはいないけれど、神に愛されでもしなければ斯様に美しい人間は存在すまい。そう自然と思えるほどに、少年の造形は寸分の狂いもなく完璧だった。初めて耳にした声さえまるで鈴の音のよう、極めつけは向けられた笑みである。かけられた声と柔らかなアルカイックスマイルの美しさとにわたしはたいそう辟易し、赤面して俯いてからようやくはいとそれだけ返事をした。そう、と応える少年の細められた目は無邪気ながらも理知的で、冷静な残忍さを孕んでいる。その表情と容姿との食い違いを奇妙に思うよりもまず、その美しさに気を取られてしまう。「信者というわけではないのです。申し訳なく、恥ずかしいことではありますが」思わず口走った言葉は己の耳で聞いていると情けないほどに言い訳じみていた。言わなければよかったと後悔しながらとにかく最後まで言い切ると、へえと案外そうに少年の声があがった。「するとおねえさんは、なぜいつもここに来ているんですか?」素直に言えば失礼だろうとは想像がつくけれど、そう考える暇もなく、にこにこと返答を待つその相好を見ているだけでわたしの脳はとろけてしまう。
「わたしの知る限りこの辺りで最も静かで、居心地のよい場所なので」「確かに、ここはいつも人がいないですもんね」避けた表現を相手から言われてしまい、きまりの悪い笑みを返す。そうかあ、と今更のように歳相応らしい幼げな間延びした声を少年はあげる。空々しさに自然と背が寒くなってから、考えすぎだと自身に言い聞かせた。
「てっきりボク、あなたは言峰を好きなんだとばかり思ってました」
 飛び出した思考外の言葉に閉口して、それからそうか、そのような考え方もあるのだなと見当違いにも感心してしまう。
「なるほど」
 そして神に祈りを捧げる長躯の背中を思い出す。俯いた頭と、立った襟に跳ね上げられた後ろ髪。堂内を反響する、信者と話す低い声や、目を瞑って喉の奥で小さく笑う様。
「わたしはわたしが思っていた以上に、あのひとを見ていたようです」
 気づきに目の覚めるような不思議な心持ちで、呆けたような声を返すとそれは気づけて良かったと屈託なく少年は笑んだ。自分のことに気のつけないことほど、愚かでかなしいこともないですから、と続けられた言葉にええと返しながら、それでもきっと、気づかずにいられたらそのほうが余程よかったように漠然と思いながら、少年の透明な笑みを見つめていた。
 以降わたしが礼拝堂で少年を目にすることはなかったが、神父に初めて声をかけられたのは因果かそうしたやりとりのあった直後のことである。けれどそれでなにがあったわけでもない。男の声は直接己へ向けられると、よそで聞いている以上に腹の底に響くのだなと、そのとき初めて知ったくらいのものだ。

 時は流れてあれから二年足らず。あののち大学進学を機に冬木を出て以来、帰省はこの春休みが初めてだ。避けていたつもりはないのだが、忙しかったわけでもないので帰る用事がなかったからというほかに特別な理由はない。今回の帰省も用向きはなにもなく、しいて言うのであればただなんとなく、久しぶりに冬木教会へ赴きたいと考えたからである。しかし今となって、もしかするとわたしは神父からすれば妙な人間であったのかもしれないと思えてなんとなく行きづらい。けれども冬木の地に立ち早朝眠りより目が覚めてみると、朝食を済ませたのち、まるでそれが当然であるかのように足はあの坂上の教会へと向かうのだ。新都のホテルから向かう教会はいささか遠い。肌へまとわりつくような、けれど下宿先よりは余程柔らかい寒さに身を縮こませながら、のろのろと足を進める。
 今日は火曜日。教会が開いているかはわからない。開いていなければ、今日中にも荷物をまとめてチェックアウトしてしまおうと考えながらゆるゆる続く坂道へと足をかける。毎日のように通った道が、たった二年のブランクで随分と厳しいもののように感じられた。急ぎでもないとたっぷり時間をかけて昇りきったころには足首がじんと鈍く痛んでいた。
 教会前の広場は閑散と沈黙を貫いて、鳥の声も、風の音さえ聞こえない。生き物の気配の一切ないここは穢土より隔離されし浄土か、或いは人ならざる者の住まう幽冥か。いずれにせよ、到底まともな世界ではあるまい。あの神父とて、天上へ祈りを捧げる存在と言うよりは西洋の、フランケンシュタインの類とでも言われたほうがまだ納得ができる。
 近づいた扉に貼られた紙を見れば当面は閉めることにすると、それだけのことが詫びもなく、簡素な文といやに整った文字で描かれていた。こうしたことは過去にも数度あったので、遠目に紙の白が見えたときから予感はしていた。神父の“当面”は五日で終わることもあれば、月を跨ぐこともある。その間教会は完全なる無人で、眠りの帳の中にいる。神父の仕事がどういうものかは知らないが、そうまで予定の分からぬものなのだろうか。もしかしたら、実はそれなりに杜撰な人間であるのかもしれない。閉ざされた扉、沈黙の教会。見慣れた、開かない冬木教会の姿である。こうしたとき、扉の鍵は閉められている。押したところで、がたりとも動かない。それは経験から知っている。もしあの男が杜撰であったとして、鍵をかけ忘れるだなんて間違いはけしてあり得ない。あり得ない、だというのに触れた扉は音もなく、ゆっくりと内側へと動いた。まさかと思う一方どこかで納得しながら、掌で扉を押す。蝶番が軋みをあげ開いてゆく扉の間に、薄暗い堂内が少しずつ姿を現していく。足下の石畳についた雨だれの跡が一瞬血痕に見えてどきりとした。一瞬で心拍数と息があがる。ゆらりと、祭壇の前にうずくまっていた巨大な影が立ち上がった。背中から吹きこんだ風の冷たさに肌が粟立って、そのときやっと己の浅はかさに気がついたのだ。
 ゆるく振り返る男の、まず見えた耳の肌色は不健康と言うよりも不気味に血色が悪い。次いで外からの光に晒された男の眼球はこちらを向いてぬめりと光った。見つめ合った一瞬は永遠のようで、この文言が恋愛小説で言うようにロマンチックであればどれだけよかったかと見当違いに世界を恨む。足を動かして身体を完全にこちらへ向けた神父はわたしを認め、貴重にも意外そうな表情を浮かべたがそれも刹那のことで、すぐに見慣れた陰鬱な笑みを顔面に浮かべていた。
「またここへ来てくれるとは思ってもいなかった」
 歓迎とも取れる言葉だが、恐らくはただ感想として口にしているだけだろう。それでも語調からそう受け取られても怒りはすまい。「久しぶりに、来てみたいと思ったんです。それで」「それは有り難いことだ」「特に変わりはないようで、安心しました」「神の家は常にひとしく安息の場であらねばならない。不変のものなどありはしないが、この場所が長く得難き康寧の地となっているならば幸いだ」
 滅多になく饒舌に吐き出される言葉が嘘か誠か、取り沙汰しても詮のない。意義はそれの真偽よりも、言葉が男の口から吐き出されること自体にある。真偽の解はきっと男のうちにさえ存在してはいないのだ。
 足を踏み出して三歩、薄暗い他に礼拝堂は以前となにも変化が見られない。この町でただひとつのわたしの居場所。わたしを拒絶しない場所。コツンと、男の硬い靴底が石を叩いて男の身体がぬっと大きくなる。その長躯から繰り出される一歩は大きく、同じ三歩で男の姿はわたしの目の前二メートルにまで迫った。近くで見れば改めて、見上げるばかりの巨人である。軽く広げられた芝居臭い腕がよりその身体を大きく見せた。
「あれほど毎日通ってくれたと言うのに、とんと姿を見なくなったのだ。私の寂寥のほどは察してくれてあまりあるだろう?」
 薄い笑みとともに紡がれたそれには流石にご冗談をと笑う他がない。けれど喉は上手に笑ってくれなかった。それにしても、こんな軽口も嗜む男であったとは意外である。それなりに整っている顔だ、女あしらいは手慣れているのかもしれない。さらに男の足が伸びて一歩、間は一メートルあまり。最早ほぼ真上へ顔を向けなければ、男の顔を見ることができない。汚泥の黒の渦巻く目を見返すことに耐えられず、視線から逃れるように俯いてしまう。
「神父、さん」
 口を開けばその奥の、やわらかい肉の咥内と舌の無防備さが恐ろしい。てろりとした革靴のつま先が、もう一歩、踏み出されるのを見た。十字架がひとつ揺れて、カソックの黒が眼前を覆う。嗅いだのは、人間の臭いでなければ男の臭いでもない。雨上がりの土のような、不思議な臭いだった。首元を掬うように触れてきた指先は雪のように冷たい。次いで首から頬を覆ったてのひらも。ぐいと顎を持ち上げられて、窮屈そうに背を曲げた神父の顔が近づいてくる。顎を掴む手指が肌へみしと食い込んで、少し苦しい。神父の指の腹の先でわたしの頸動脈が脈打っている。
「し」
 続く言葉は飲み込まれた。かさつく唇はやはり冷えて、ぬると差し込まれた舌さえ温かさを持たぬのだからきっとこの男は腹の中さえ冷たいのだろう。舌の端と歯列を舐められながら、開いた男の無防備な腹の中に手を浸すことを想像する。現実の手は所在なく、男の胸の前の服を握り締めているだけだ。男の舌の動きは執拗で、両の手に顔と後頭部を固定されているものだから逃れようもなく、上がった息だけが合間に口の端から漏れる。
 ふらついた身体を支える手がいやに紳士的で不気味だ。解放され厚い胸板に頭を埋めて、つけた耳に聞こえるのは自身の上がった息づかいと鼓動。男の息はひとかけらもあがっていない。
 男の両手がわたしの頬を覆った。抱きしめるように。慈しむように。その手が撫でるように、舐めるように下へと滑り降りていく。
 目を上げて、とらえた男の顔が笑んでいたので、わたしにはそれだけでよかった。侮蔑でも嘲りでも、憐憫でさえなく、男は確かな悦楽にわらっている。それだけでいい。それだけで、許された。

「……ひどいひと」
 だれにでもこんなこと、しているんでしょう。誰のものでもない言葉を吐き出してわたしも笑う。頬を水滴が滑ったのはきっと気のせいだ。さいごまで強がらせてほしい。



 言峰綺礼は忙しい。予定を大幅に繰り上げて、五度目の戦いが今、冬木の地で開かれようとしているのだ。十年前を思い返し、父の残した記録を捲りながら教会と協会と、ひっきりなしに連絡を取る毎日だ。こうして礼拝堂で、祭壇へ向かう時間は貴重だった。
 算段は整えている。進行も滞りはない。番狂わせを、期待している節はある。けれど今のところ、このままならば第五次聖杯戦争は恙無く、言峰綺礼のものとなるだろう。ふ、と口元に笑みが浮かぶ。前回、そうして勝利を確信していた男が敗れたのだ。慢心せず、慎重に行かねばと心の内で自戒する。その確信を挫いたのは誰か、まあ、それはいい。
「いるのだろう」
 静まり返った堂内の地を這うように、男の声は響いた。問いかけた相手は返事もなく、口を引き結んだままに霊体化を解いてその姿を露にする。最後列の椅子へどかりと座る青いスーツに身を包んだ青年はアイルランドの英霊・クーフーリン、今は言峰のサーヴァント、ランサーである。精悍な顔は不機嫌そうに歪められ、剥き出しの額には薄く青筋が浮いている。
「それを地下に片づけておけ」
 振り返りもせず、祭壇を見つめたままに言峰は言いつけた。その背後には、だらりと首のやわらかく折れた女の死体が打ち捨てられたように転がっていた。厳密に言えばまだ、微か息があるのだから死体ではない。しかし今となっては手の施しようもなく、ただ訪れる死をひたすらに待つだけの物体だ。
 男が女の首を砕くのを、偵察より戻ったランサーも見届けていた。信じられない、などとそんな言葉では生やさしい。その意図も、理由さえわからない。ただただ理不尽に、男はなにの関係もない信者の女を殺めた。とても正気とは思えない。いや、正気であるからこそ、男はどうしようもなく、まともな人間ではなかった。
「おい」
「なんだ。欲しいならばおまえが食べてもいい」頭の血がぐつりと煮える。
「これだけ聞かせろ」
「好きに訊くといい」くつくつと、喉奥で鳴る嘲笑が気に障る。
「なぜ殺した」
 問いかけは短く、凄みの込められたランサーの声はその尾を引いて堂内に残る。隠しもしない殺気が、無数の刃となって祭壇へ向かう男の背へと容赦なく突き刺さっていた。それを雨のように浴びながら、歯牙にもかけぬように男の目がランサーをまなざしかえす。そこに殺気など微塵もない。端を釣り上げた口は大きく笑みの形に開かれて、目は弧を描き細められている。狂気。凶気。狂喜。
「ここに、いたからだ」
 それだけ。ただそれだけなのだ。理由などほかにはない。ここにいたから、そうしたかったから男はそれをしたのだ。その主語を、当然のように若い女であると取ってランサーの顔が歪む。理不尽に与えられる害悪の存在も無情も、知っているし解している。悦楽に暴力を振るい命を奪うことだって、なにも珍しいことではない。そうしたものの、多い時代を生きていたのだ。そんなものには慣れきっている、だから目の当たりにしたところでどんな感情も得ない。そのはずだった。
 くるってやがる、苦々しく吐き出した語末が震えたのは恐怖からではない。真黒の無邪気が形を成して服を着、生きているような男への、どこまでも澄み切った、純真な嫌悪。そして怒りだ。
 ぎりりと握る拳の中で、薄い掌の皮膚を爪の先が裂いた。ぽたりと血が流れ落ちる。刺し貫く雨は彼にとっては慈雨であり、その中で言峰は平然と、味わい楽しむように目を細めた。悦楽の正体を、ランサーが知る日は訪れない。倒れた女の身体からはいつしか呼吸も失せていた。





うろみたすみつふらすどく




(13/01/03)