今では目が慣れてしまった。だから昏闇がわからない。それでも日を追うほどに、深くなっているらしいことはわかる。
 それが真の暗黒ならば、指の先から徐々に呑まれてやるのもいい。けれどもややこしいことに、彼の暗黒は諸人の暁光であった。人並みに苦痛であり、屈辱でもある。その精神構造は極めて単純、衆人に変わりない。

*  *  *

 がちと、掃除機の進行が何者かに阻まれた。
「……ん、なんだこりゃ」
 床に落ちていたそれを、前かがみに拾い上げる。手の中にずしりと重みを持ち、部屋の薄明かりでぬらりと鈍色に光った。なにの装飾もなく簡素な、重い、鉄の大きな鍵である。どうしてこんなものがあるのかと首を傾げた。同時にランサーの肩上からさらりと髪の束が滑り落ちた。
「懐かしいな」意外なところから飛んできた声の主へと視線を向ける。悠然と二人掛けのソファへ寝そべってワイングラスを揺らす、不遜の権化に隠しもせず表情を曇らせた。ぞんざいに突き出して、「テメエのか」それにしてはやけに薄汚いなと思いながらも、そうであるならば処分するなり例のびっくり箱へしまうなり、どうにかしろと揺らしてやる。眼前に揺らされるそれだけを目に入れて、ギルガメッシュの頬と口端があがった。
「昔話をしてやろう」
 赤い咥内を覗かせ瞼閉じる男を、微塵の愉快さもなくハアと眺めて疲れたような顔をする。こうなっては止まらぬと、諦念の表情である。幸か不幸か、本日のランサーには差し迫ったシフトもない。むしろ本日の労働を終わらせてきたばかりである。逃亡の術をぐるり、頭の中に巡らせて、力技のほかに当てがない。教会の半壊は避けようと、ならば休憩がてらよた話に耳を傾けるくらいならばさしたる労働でもないだろう。「話は我がウルクの地へまで遡るが」既に話は始まっているらしい。
 がちんと音を立てて、テーブルの上に鍵を置く。エプロンを取り、ギルガメッシュの足側のソファへと腰を下ろした。
「我はライオンが好きでな」
 取り出し銜えた煙草に火を点けながら、アアと溜息のような相槌をする。テメエ自身そんな感じだもんな、とわざわざ言い返すも億劫だ。白い煙が煙草の先から棚引いて、ゆっくりと、紫煙が肺をいっぱいに満たしていく。
 ライオンを一匹、飼っていたと言う。どっしりとした胴に丸太のような手足、きららかな鬣と滑らかな毛皮の美しさに、しなやかさと頑強さとをあわせ持った身体。茶の瞳は鋭くも愛くるしく、すと流れる鼻筋からギルガメッシュの手の甲へ度々押しつけられる濡れた鼻は口づけの代用だ。飼うという表現は、彼の言葉では正しくない。正確にはシンガと名を与えられた一匹の雄ライオンが男の傍におり、そうするのは彼の望みであると同時に男の意志でもある。つまりは互いに暗黙の同意に基づいて、一人と一匹は寄り添ったと言うのである。極めて友にも近い従属だ。
 愚かな獣でありながら、理知的な顔立ちの通りに賢いシンガを彼は愛した。シンガもまた彼によく懐き従った。同時に従わぬことも多々あった。それがまた、やたらと彼の気に入った。
 遍くすべてを愛し受け入れながらすべての上に立ち、それを当然としながらも、そうされぬことに悦ぶ、単純ながら奇天烈な男の気性に獣のそれはよく合った。ある時にはギルガメッシュが国の粋を集めて作らせた金細工に紅玉をあしらったアクセサリーを、彼は贈られるなりすぐに自慢の牙で噛み砕いてしまった。王の怒りを恐れ慌てふためく臣下をよそに、シンガはつんとすましている。最早この無法者の首を落とす他なしと一人が刃を持ったところで、王は呵々大笑した。砕けた石の破片を掬いあげ、獣の鬣に振りかける。年頃の女のようにすましきった顔の上で、黄金の鬣の中に、赤の粒が輝いた。臣下たちはわけもわからず、ぽかんと呆けた顔をしている。パターンは様々であれ、二人はおおむね常にそんな調子である。
 以降は正に余談だ。そうして暫くに渡り、仲睦まじくしていたのであるが、終わりは随分と呆気なかった。午睡に微睡む頬をぺろりと舐められた瞬間に、ギルガメッシュが彼を手打ちにしたのである。獣は素早く飛び退いたが、刃を完全に避けるには間に合わず、逞しい身体にびしりと刃傷が走り、べっとりと柔らかい毛を血液が汚した。その傷からみるみる弱り、翌朝には死んでしまった。正しく言えば、それなりに世話をして、もう助からぬと判断し皮を剥いだのである。毛皮はギルガメッシュの衣服へと仕立てられ、以降それなりに着用された。ギルガメッシュに泥人形の友ができる、少し前のことである。
「わけがわからねえ」
 しかめ面のまま紫煙とともに素直な感想を吐き出したのは、言うまでもなく、ランサーである。
「我が好くのはライオンだけではない。もちろん人は好きだし、犬だって、嫌いではないぞ」
「だれが犬だ。つーか、そこはもういいんだけどよ……」
 不服そうにくわえ直した煙草を揺らしながら、テーブルの上で足を組む。続ける言葉はうまく見つけられなかった。わけがわかると言えばわかるし、わからぬと言えばわからない。この男のしたことだと聞けば、そうかと納得できそうであるのがまた、胸のうちの煙のようにもやもやとする。
「これは飽くまで話の触りだ」「まさか本筋じゃねえのかよ」
 畢竟不死を浴びることなく人間として身罷った原初の王は、当然の如く英霊の座へと招かれた。その栄誉はそれぞれが判じる他ないが、その椅子は豪奢でありながら無粋であり、また退屈でもあった。それは一瞬であり永遠。抜け出した己が持ち帰る記憶を、書物のように読み続ける他にはすることもない。今でも、英霊の座で英霊「ギルガメッシュ」は一人座し、ギルガメッシュたちの持ち帰る記憶と経験を退屈そうに追っているだろう。
 本体より離れ地上へ立つギルガメッシュは分身でありながら、その地のみにおける知名度等の外的要因によるパラメータの変化を除いては、本体となにも変わらぬ形をしている。意識や思想も本体のものと同一だ。飽くまで本体より離れるその瞬間のみ、との事実は切り離せないものであるが。
 そしてギルガメッシュは本体を離れ、旅立った。時間の停止しているそこでは本来、退屈など感じようはずもないのだが、既に彼の身体は退屈ではちきれんばかりであったので、足を動かし歩くことさえも、今の彼には愉快でならなかった。道中はひどく賑やかなものであった。たくさんの目新しいものたちが、彼の永きに渡る果てない無聊を慰める。見せ物小屋、否、それは紛うことなくサーカスの様相であった。初めて目にするものたちは、ギルガメッシュの胸を躍らせて、ウルクの晴れた夜、満点の星空のように彼の瞳を輝かせた。
 これは好きだ、あれは気に食わん、それは是非財宝庫へも入れておこう、云々。あれこれと感想を述べながら進むうちに、がらりとした隣がふと、空虚すぎることに気がついた。けれどそれでなにかが、変わるわけではない。ただ隣が空虚で、永遠にそれが、同じもので満たされることはないのだという事実を思い出しただけのことである。失われたものが返ることは二度となく、また、同じものが手に入ることもない。それが悲しくて、だからこそ愛おしくて、貴い。
 感傷は珍しく、どうしても、溢れた涙を止めることができない。鼻の奥がつんとして、塩辛さが口の中いっぱいに広がっていく。この世界にたった一人ぎりの友を、永遠に失ってしまった。悲しみは鮮烈で、胸のうちを焼き焦がす。それがまた愉しくて、どうしようもなくその身は人間でしかなくて、それが嬉しくて、悲しくて、それさえも愉しくて、涙も笑みも止めることができないのである。それでも一頻りそうすれば疲れてしまって、また一人、云々と感想を述べながら先を進む。
 長きに渡る演目も、どうやら終わりが近いらしい。奔流のような情報が減り、道は徐々に侘びしく、閑散と、細く暗いものとなってきた。声が、聞こえる。遠き道の果てより、英雄王ギルガメッシュを呼ぶ声が。この声により、彼は本体を離れこの道を歩いてくることとなったのだ。座に至ってより初めて体験を以て認識する他者の存在に、にわかに胸がわきたった。誰が、一体どのような人間が、傲慢にも王たる己を呼び出すのか。目的は道中の演目により判ぜられたが、その遊興ぶりや王自ら手を下すべき問題であるかを確認してやらねばならぬ。少なからず、ギルガメッシュの中には己がマスター(この名称は非常に不本意であるが)となる人間への期待があった。
 だからこそ、その男のつまらなさには落胆の念を禁じ得なかったのだ。そうした折に、ふと、落ちるように何気なく、置かれていた檻の存在に気がついたのである。
 なんだこれはと、深紅の掛け布を上げ覗き込んでみれば、ぽっかりと闇が広がっている。昏闇に、貴様は誰かと問うてみた。返る沈黙の中、確かな生き物の息づかいを感じる。巨躯が、漆黒の向こうに動いたような気がした。
 檻の近くへ酒杯片手に腰を下ろして、戯れに呼びかけ続けてどれほどか。彼が飽きていないのだから、そう長い時間ではなかったのだろう。それでも気まぐれであれ、待たされたのだからひどく長い時間と貴重な手間をかけてやったという気になった。呼びかけへの返答は低く落ち着いた、けれど獣の呻き声で、ギルガメッシュはすぐにその獣が気に入った。得たのはシンガに出会ったときに極めて近い、必ずやこの生き物は己に隷属する、そしてきっと互いに信頼し合うという、予感のような確信である。
 一度声を聞いてからはスムーズなもので、なぜここに入っているのかと問えば生来より閉じこめられているのだと答え、理由を問えばわからぬと応える。理由は不明であるが、とにかく己はここから出てはいけないのだと、そればかりであまり要領を得ない。応えはいつも楽しそうではなかったが、問いかけには几帳面にすべてに返事がくる。ジョークもなければ愉快な知識もない、ただ無骨なだけのその獣との会話に、どうしてかギルガメッシュは入れ込んだ。
 ある日の会話である。
「貴様、ここを出たくはないのか」
「そのつもりはない」
「欲がないと言うか」
「そうは言わん」
「好奇心・知識欲、獣でさえ、逃れ得ぬ欲求であると思うのだがな」
「今はただ、」濡れた声が焦るようにひっかかり、ひくりと喉が鳴る。怯えているらしい。可哀想に、心の底より思う。
「大丈夫だ、我は貴様に、少なくとも意図して、害なすつもりはない。檻を開けてやるつもりもない代わりにな。我は、貴様に、なにもしない。なればこそ、畏怖こそすれ、恐怖をする必要は、どこにもない」
 努めて穏やかな声色で宥めてやれば、ぬっと、昏闇より出でた手が鉄格子を掴む。大きな掌と、長い指に節くれ立った、しなやかで逞しい手だ。がしりと格子を捕らえる手の、その腕の先は見えない。
「昏闇に、のまれるのがおそろしい」
 一際に低い獣の呻く声が、耳の近く、腹底へ響いた。
「昏闇? 呑まれたらどうなる」
「常より私は昏闇の中にいる。私をのみこむのはさらに深い、昏闇だ。闇はこわい。くるしい。私を常に苛まれている。それにのまれたら、どうなるのか。私はそれがおそろしい」
 ふうんと話半分に聞きながら、ならば出れば良いではないかと言ってやる。するとやはり、最早決まりきったことのように、己は出てはならぬのだ、とそれだけ応える。
 それで些か面倒になりながらも、格子越しの逢瀬は続いたが、あれ以降獣は黙り込みがちで、話しかけども上の空だ。それでは張り合いがない。なにしろ会話の他にはなにもコミュニケーションの術がないのだから、応えのないことにはどうしようもない。人に構わず話し続けることはあれど、応える気のない者に向け話しかけても仕方がないし、なにの面白みも感じない。
 その翌日より、ギルガメッシュが檻の中へと声をかけることはなくなった。

*  *  *

 客がなくなったところで、失望をすることもない。元より有り得なかったはずのものだ。声をかけられたときには驚きもしたし、二度目以降があったときには現実とは信じがたかった。けれどそれで、なにかを期待したわけではない。
 昏闇は深く、寒い。己のかたちが、わからなくなる。否、元よりわかってなどいないのだ。生まれてこのかたここに過ごしているのだから。こうして閉じこめられるのだから、己はきっとさぞや醜い怪物であるのだろう。獰猛でもあるに違いない。その形を知りたい。どれだけに醜いのか、どれほどに獰猛であるのか。そう、思わないことはないのだ。確かに。
 客人が訪れなくなってどれほど経ったか。今日も檻は、ここを出てはならぬと言う。近頃は、頓に強く、そう言うのだ。もう長いこと、定例の呪文のように繰り返すだけであったのに。出てはならぬと、それはその通りに思う。だからこそ、あの客人には二度と見ゆべきでない。風を知らぬ水面が、掻き乱されてしまうから。出てはならぬと唱え続ける檻だって、こんな醜いものを入れていることなどきっと、忘れてしまいたいに決まっている。そうして忘れかけていたから、強く言うこともなくなりつつあったのだ。
 檻は今では彼の形も、気性も知りはしないはずだ。私を、見てみたくはないか。問いかけに、檻は応えない。昏闇も沈黙している。
 なんだかくだらなくて、いっそこの檻の中で死んでしまえればいいのにと、もう何度考えたか知らぬことさえ久しぶりに考えてもみてしまう。そんなことはできるはずもないのに。
 ならば檻ごと壊してしまえばいい。それともこの檻を説得してみるか。どうだ、檻。私を隠し続ける檻よ。最早おまえに隠せるものなどありはしない。だって鉄の格子はこんなにも、隙間だらけなのだから。私に外は見えないが、おまえが隠したいものからは、私のすべてが見えてしまう。きっと私は、おまえが知るよりずっと、おまえが思うよりもずっと、醜く、獰猛に育っただろう。檻よ、私をここから出してくれ。私をここから出してくれ。その礼に、必ずや、私はいずこへか暗黒を齎すだろう。
「それでいい」
 聞いた声が満足そうに、檻の外より飛び込んできた。ばさりと檻を覆うビロードが落とされて、格子を挟む眼前に、鉄の鍵が揺れている。
「獣よ、檻の外を臨め。檻を出で、人となるのだ」
 見上げると、若い男が立っている。金の髪に赤い瞳をした、毒々しく美しい男だ。伸ばした手に、握る鍵は冷たかった。「いい子だ」その讃はいくばくか不釣合いなように感じたが、外界に出るときを生まれ出づる瞬間とするのであれば、幼児扱いも道理か。
 鍵を受け取ったというのに、しかし檻はなにも言わない。あれだけ出るなと言ったのが嘘のように、だんまりを決め込んでいる。出て、いいのか。問いかけに返事はなく、檻でなく貴様が決めろと代わりに応えたのは、目の前の男であった。
「出てこい、綺礼。ちゃんと出てこられたら、我が貴様を人間にしてやる。たくさん舐めて、嬲って犯してやろう」
 弧を描く瞳と、誘うような瞳孔にかどわかされたのではない。けれど下腹の底で、ついぞ知らなかった期待が頭をもたげるのを自覚せずにはいられなかった。はあと息が上がり、頭の中が熱くなる。握る鉄格子がひやりと冷たい。ゆっくりと力を込めると、軋みをあげて、容易に檻の口は開いた。

*  *  *

「そうして神父は人間になれたってわけか。趣味のわりい御伽噺だな」
「御伽噺ではない」
 心底いやそうな顔をして、機嫌を損ねたらしい拗ねた声を聞き流す。
「人魚姫みてえなもんだろ。は、どうしたら泡になるってんだ」嘲りとともに短くなった煙草をがりがりと噛みながら、つっかけた靴をつま先で揺らす。
「もちろん、恋が叶ったときと相場が決まっておろう」
「破れたら、の間違いだろ」
 うん? と惚けた顔をしながら、空になったワイングラスをテーブルへ置く。どかりとソファに寝転がり直して、「その例えも悪くはないが、言峰は元よりずっと人間であろう」なにを呆けたことを、と、たっぷりの憐憫を視線とともに浴びせられれば流石に腹も立つ。
「はじめから終わりまで、徹頭徹尾、あれは愛い道化よ」
 陶酔の、とろけるような声にぞわりと鳥肌が立って、話が終わりならばさっさと立ち去るに限ると席を立つ。エプロンを被り直しているところに、知った気配が教会の戸を潜った。
「いるのだろう、ギルガメッシュ。そろそろ行くぞ」
 壁数枚挟んだ声に、ああと適当な返事を返してギルガメッシュもやっとのこと立ち上がる。再び掃除機を取るランサーには見向きもせずに部屋の扉へと向かい、ちらちらと、金色の残滓とともに霊体化していく、その最中。
「叶うも破れるも同じようなものだろう。あれが求めるのは、そういうものだ」
 意味を問おうと顔を向けたときには、既に霊体化しきって部屋を出たところであるらしかった。離れた神父の元に現れたのだろう。少しずつ、二人の気配が遠ざかっていくのを感じた。
「……きもちわりい」
 苦々しげに吐き捨てて、掃除機を持ちながら、あの二人が翌朝戻るまでに教会中をぴかぴかに磨いてやろうとひそり、ランサーは胸の中で決意した。それであの二人のそれぞれに薄汚れた精神がほんの僅かにでも晴れたらと、ありもしない期待をしてみながら。





檻の中には昏闇がいた。




(13/03/31)