hollow ataraxiaの世界に現界した言峰(仮)と切嗣(仮)。鯖峰本のプロトタイプ
厳密に言えば違うのだけれど、便宜的に、男を言峰綺礼と呼ぶこととした。
そう呼ぶことに人は疑問を持たないし、そも多くは男が言峰綺礼そのものであると信じきってしまっている。なにしろその顔や声から身体のひとつひとつ、深爪ぎみに切り揃えられた爪の先まで男はそのまま言峰綺礼の容姿を象っていたし、行動や発言のそれぞれにも特に違和がないのだから疑う理由も余地もない。そのくせ髪の色だけは以前の茶からぬばたみの黒へと変わっていたけれど、それさえ白髪染めを変えたのだろうなどとそれぞれに納得する程度で、不思議がる理由にはなり得ない。
同様なる存在である衛宮切嗣もまた左に倣っていたが、共にそうした己の不安定な成り立ちについてはさして気にも留めていない。そもこちらは綺礼のように社会生活は送っておらず、サーヴァント然と身を潜めて暮らしているものだからいよいよ関係もない。そのくせ愛する息子が衛宮士郎そのものでないことにはこだわるのだから、綺礼から見れば滑稽で仕様がない。
会いたいのならば会いに行ってしまえばいい。難しいことなど考えず。
けれどそれは違うと言う。あるいはいけないと言う。苦しげな顔で。聖杯から魔力の供給を絶たれた彼は、ただ体内の魔力を消費していくのみだ。少しでも消費を減らすべくと幼い姿となって、その際に忘れてきたらしいメラニンもそのまま、十にも満たぬこどもが眉間と鼻背の上にしわを寄せ、ぎゅうと目を瞑り歯噛みする。きっとそれを見るのが楽しいから何度だって会えばいいのになどと無責任なことを言いつけているに違いない。
今もそうして膝を抱える腕に顎を埋めている様を横目でじいと見つめていると、おもむろに、切嗣が小さな両手のひらでその口と鼻を覆った。
「しおのにおいがする」
しぼりだすような声。眼前には穏やかな海が広がっている。堤防に座っているのだから、いまさら、当然のことだ。潮風はなめるように男の白い髪を揺らし、薄い肌を撫ぜ重苦しい黒のコートをもったりと翻す。塩辛さが鼻の奥にしみたのだろう。探る腹ならばとびきり痛いものがいい。今、この者の苦痛にはどんな言葉も要さない。目の前に揺れる白の前髪が、無遠慮に彼を見つめる綺礼の泥色の瞳に映る血の透けた赤い瞳が、いちいち男を責めたて苦しませるのだ。なつかしい、その色は押しつぶすような悲しみで以て衛宮切嗣を苛んだ。なにぶん男の身体を構成しているものそれ自体が、悲哀に苦痛、世界中の負の感情を集めて捏ねて固めたものであるのだから、その悲嘆と言ったら海より深く、空よりも高い。
いじけた子供のように蹲っている切嗣の横で海原を見つめる。秋の陽光を受ける水面は輝かず、ただひたすらに海底の暗さを写し続けていた。流れる時間の穏やかさが、いっそ奇妙で仕方がない。己が手で握りつぶさんと追い求めた心臓がすぐ隣で動いている事実、それを平然と野放しにしている現状、その奇妙さがおかしくて、ひそり笑いがこみ上げてくる。口端がつりあがるのも隠さずに沈黙を守っていると、傍らの矮躯がびくりと跳ねた。真剣な眼差しが暫し宙を浮いてから、勢いよく立ち上がって、その身体がふらりと揺れる。ゆったりとその様を見つめながら、恭しげに差し出した綺礼の腕が崩れかけた切嗣の身体をすんでのところで支えた。不満げに身をよじり腕をはたき落とそうとする、その手の弱弱しさにいよいよ喉の奥が鳴る。
「はなして、くれ」
「なぜだね」
じとりと睨む目はわかっているくせにと抗議的だ。わかっているとも。もとより同じものから生まれ出でたのだから。兄弟よ。
「会いたくないんだ」
「己に会いたくないとは妙なことだな」
「一度離れた時点で、もう、別の存在だろう。少なくとも、またひとつにならない限り」
「そうだな。現に私は貴様ではない」
「ぞっとしないよ。材料が同じというだけさ」
「混ざらなかったことに感謝するのだな」
「どうだか。混ざっていたとして、きっと気がつくことさえできない」
特にきみは。
付け足す言葉は綺礼を突き刺すものであるように感じられて、そう感じること自体がおかしいのだと考えを打ち消した。もし彼が言峰綺礼でないとして、その立場にいて他に名前のない以上、どうしたって彼は言峰綺礼でしか在り得ないのだ。
眼前に揺れる白髪を見ていると、なるほど確かに、覚える感情は異なれどいつか絞め殺した女の影を想起させられた。その女に感慨などはかけらもないが、綺礼からのびる切嗣への感情に形を与え、名前を与えてくれたことについては感謝と、同時に深い憎悪の念を抱いている。
「ちょっ、おい」
掴んでいた腕を引っ張り、軽い身体を肩の上へと抱き上げた。想像以上の軽さに多少驚きながら、暴れるのを押さえつける。
「ここから、逃げたいのだろう?」
顔を寄せて囁いてやればこの上なくいやそうな表情が返された。酷薄な笑みを浮かべる顔面へ向けて繰り出されたてのひらが、目標へぶつかるとともにぶわりと霧散した。
「きみからもね」
冷淡に返す言葉には無視をして、切嗣を腕の中へ閉じ込めたままに無人の港を後にする。さて、どこへ行ったものか。ベッドのあるところであればどこでもよい。それこそ、二時間三千円のラブホテルだって構わない。
「われわれの、母なる魔力をたっぷり注ぎ込んでやろう」
「望んでないよ」
すべきこともなく、成したいこともかなわない。そんな世界に、存在する意味などないこどもは言う。
成したいことが存在する、その幸いを衛宮切嗣は解さない。あるいは理解したうえで、簡単に投げ捨ててしまう。そうだ、だから、成せぬ苦しみの中でもがき続ければいい。
それに返事こそすげないが、自ら死にに行くことも、こんな状況で渾身の反抗が行われることもないのだから結局のところ、積極的に死ぬつもりだってありはしないのだ。それが望みを捨てられないからであるとも、綺礼は知っている。
自ら叶えにいくつもりすらないくせに、ただ来るとも知れぬその日をひたすらに、怯えながらも待ち焦がれているのだ。
「貴様にはまだ、生きていてもらわねば困る」
その望みの挫ける様を、見届けねばならぬのだから。
わたし(たち)の空洞
(12/11/11)