どうしてあなたは泣きますか。そんな、そんなにもくだらないことで。
 窺い見た横顔では隠されることもなく嗚咽と涙が頬を伝って顎から落ちる。木枠から滑り込んだ影がそのひとの涙をきらりと光らせ、わたしは慰めることも忘れきれいだ、と思った。



か わ い そ う




 妻を娶った。馬子さんに用意させたらきっと蘇我家のひとを連れて来るんだろうなあとは思っていたけれど、まあやっぱりといった感じだ。馬子さんの娘だそう。でも絶対に私は馬子さんをお義父さんとは呼ばないぞ! なににせよ、困った話だ。私は結婚なんてしたくなかったのに。しかし、世継ぎのためには子を残さなきゃあならないこともわかっているつもりだ。きっと、この先また何人か妻を娶るんだろうなあ、私は。妹子にはなんて言おう。ああ、別に言わなくてもいいのか。言わなければならない具体的な理由はどこにもない。ただなんとなくうしろめたくはある。
 私は目の前に礼儀正しく座っている女性を見やる。馬子さんもそうだけど、蘇我家の人たちはいちいち無表情だ。馬子さんの孫の入鹿も、幼いのに既に蘇我家特有の無表情、所謂蘇我ムッツリを我が物にしている。あんなムッツリじゃ将来が心配だ。いや、馬子さんの孫なんて私が心配する必要もないとは思うけれど。「太子」
「ん」
 窓枠に頬杖は付いたままで振り返る、人当たりは好い(妹子にはバカそうやらアホそうやらと言われる)笑みはしっかりと絶やさない。長いこと互いに無言で、彼女にもずっと正座を強いている。私もすっかり楽にしていいと言うタイミングを逃していた。この機に言おう。口を開かない感情の失せた目を見て、もう一度なに、と問うて軽く首を傾げる。
「なにもなさらないのですか」
 あまりにぶっちゃけた質問に思わず頭が頬杖の上から滑り落ちる。そのまま後頭部を窓枠にしたたかにぶつけた。無意識に奇声が漏れて頭を抑えたけれど、彼女が心配している様子はまったくない。ああ、やっぱり、つらかろうな。ぐらぐらと揺れる頭の中で考える。つらいだろう、かなしいだろう。好きでもない、男の元に嫁いだなんて。
「刀自古さん」「刀自古、で結構で御座います」え、どうしよう。私、女性を呼び捨てで呼んだことなんてないぞ。「ええと…………刀自古、」なんだか自分でも違和感を覚える。いやに気恥ずかしい。気を取り直して、彼女の目を見つめなおす。
「失礼は承知だが」「どうぞ」
「あなたは私とその、したいですか」
「いやですけど……」
「即答!? 自分から言っておいてコンチクショウ!」「だってカレー臭いですし」「ゲフー会って少しにして言ってくれるぜ天下の聖徳太子に向かって!」「みんな言ってるじゃないですか。それにカレー臭いだなんてみんなオブラートに包んであげてますけど、それって要するに加齢臭ですよ」「ポマード!」
 もうこれは初夜から前途多難だ。私、彼女と上手くやっていける自信がありません馬子さん。
 一息吐いて頬杖を直し、窓の外を見る。今ごろ、妹子はなにをしているのだろうか。私のことを考えてはいないだろうか。いや、もうこんな時間だ。とっくに眠っているだろう。今日の式にも出ていたのだろうけど、私はなるたけ顔を上げぬようにしていたからちゃんと姿は見ていない。どんな顔をしているのか知りたくなかったし、何より目が合えば律儀な彼は必ず私に祝いの言葉を述べに来ただろう。そのときおまえはずいぶん上手に笑うんだろう。そんな笑顔は見たくない。祝いなんかじゃなく、罵倒してくれればいいのに。流刑になったって私の力でなんとかしてあげるから、ねえ、妹子。(そして、私は妹子がそういった権力の使い方を極端に嫌っていることも知ってる。だけど、ほら。妹子が国書を無くしたと言ったときだって、そうして助けてあげたんだぞ)
「太子」「……なに」
「非礼をお詫び致します。どうぞ、お好きなように扱いください」
「別にあなたの身体に興味はない」
 本音をそのまま口にすれば、彼女の眉間にぐにゃりと皺が寄る。自分でも驚くほど冷たさを孕んだ声が出た。美しい人だ、矜持が傷付けられたのだろう。しかし蘇我一族の人間だ、そのくらいが丁度好い。しかしなんであれ年端のいかぬ娘であることには変わりない。恋愛結婚に夢や憧れも持っていただろう。
「刀自古。あなたは可哀想だ」
 怒りと憤りに細められていた目が軽く見開かれる。すぐに俯きが深くなって、この暗さの中ではその表情を窺えない。私も外へと視線を移して、影に照らされる暗闇を見る。「あなたは若く、馬子さんの血を引いているとは思えないほど美しい娘なのに、カレー臭い男に娶られる。そうして皇族と結婚し皇子を産むことでしか存在を肯定されない。まるで世継ぎ製造機だ。望みもしない男の元に嫁がされて、その男と子を生すしか生きる価値がない。それも、双方いやいやの行為だ。あなただってその美しさを以て、わざわざ私に嫌々抱かれたくもなどないだろうし、私だって愛する者がいるのだから他の人間なんて抱きたくない。しかし互いにそうせねばならない事情がある。それはこの国に、この身分に、この家計に生まれた以上、どうしようもない事情だ。なんて虚しいことだろう」「…………」「だけど、こんなことは普通で、どこででも毎日のように似たような事象が起こっているんだろうな。朝廷内だけでなく、地方の豪族たちや国の民たちの間でも。こんなことは普通なんだ。私は、それが一番かなしい。結婚すると言うと人はおめでとうとそれを賀す。結婚には二通りあって、ひとつは政略なりの裏がある結婚で、もう一方は恋愛結婚だ。後者ならば当人たちへの祝いの言葉は正しいだろう。しかし、前者ならば。前者ならば、祝いを捧ぐべきは当人たちでなく、彼らの父親で、その一族だ。子は親や一族が優位に立つための道具じゃない。けれど汚いこの策略はなくならない。なんて浅ましい―――」「、……たいし」
「へ?」
 ぱた、「あ、」自身の頬の冷たさに気が付く。今までまったく平気だったのに自覚すると不思議なもので、私は小さくしゃくりを上げた。ああ、そうか。わかった、己の憤りの正体が。見ると彼女は少々焦ったような顔をしていて、私は思わず苦笑いを浮かべた。「気にしなくていい」なにか言いたげに彼女は口を開いたが、言葉が見つからなかったのかわざわざ何かを言う必要もないと判断したのか、そのまま口を閉じた。再び、私たちの間に沈黙が訪れる。夜風が涙を冷やしていく。彼女は私が同情しているのだと思ったかもしれない。
「太子」「ん」
「なにもなさらないんですか」「え、いいの?」
「いやですけど」「ええー」「わたし、父上に認めて貰いたいんです」「……あんなんでも、やっぱり親は愛しいものだね」「ええ、認めたくありませんけど」「若いうちはそういうものだよ」「なにもなさらないんですか?」「……」「太子」
「そう急かずとも」苦笑を浮かべると、彼女は拗ねるように口を尖らせる。「急きます。今夜までに固めた、わたしの決意を汲んでください」「それはもう待ち遠しかったろうね!」「死んでください」あのひとみたいなことを言うなあ。複雑な心持になって、もう一度私は笑う。たしかに、彼女の言うことももっともだろう。私とて、明日また彼に会ったあとの夜にそんなことができるとも思えない。もう慣れてしまった沈黙を静かに裂いてそうだね、とこたえを紡ぐ。
「夜明けまでに、一度は」
 努めて明るく笑おうとしたけれど、きっと痛ましい笑顔となっていたに違いない。彼女は私を少女特有の綺麗な目で見上げると、消え入りそうな声で応え、頷いた。






(07/06/17)