あなたに会ったら僕はどんな顔をしよう。
ど う し よ う
目覚めるととりあえず腫れぼったい目をごしごしと強く擦った。頭がいやにぼんやりしている。昨夜遅くまで仕事をしていたせいだ。それだけではないが。特有のこの気だるい感じ、嫌いだ。朝は爽やかに目覚めたい。
暫く上体を起こしただけのまま呆け、思い出したように時計を見る。ああ、まずい。これはまずい。僕は緩慢な動きで立ち上がると、最初に目についた朝食として買っていたもののひとつのフランスパンを取って着替えると僕は少し急いで家を出た。
「――子殿、妹子殿!」
ふとその声で我に返る。「あ、すみません。なんですか?」事務用の微笑を作って声の主を見る。部下の一人であるまあそれなりによく働く男が立って心配そうに僕の顔を覗き込んでいた。「大丈夫ですか? 手は動いてましたけど、なんだかぼんやりしていますよ」「そうかな……そうかも」「きっと疲れておられるんですよ。このところ、妹子殿はまったく休みなしではないですか」「ええ、まあ、忙しかったので」「ここ最近は太子の式の後片付けも、ごたごたとしていましたし」「そうですね……。でも今やっている書類の関係が終われば一段落して休みも取れますし、もうひと踏ん張りですよ」
「ですがその終わりもまだ長いでしょう。どうですか、一休みしては」
「いや、でも」「ここ数日昼休みもろくに取っていないようですし、少しゆっくりされてもいいんじゃないですか。休んだほうがきっとあとで集中できますよ」
そんなことを言われ、昼の少し前にぼくは職場を追い出された。いや、ありがたい気遣いだ、いい部下を持った。好きなだけ休んできてどうぞと言われたから、今日はもうそのまま帰ってしまってもきっと彼らは怒らないだろう。でもそれは流石に気が引ける。少し休んで戻ろう。できれば小一時間くらい昼寝もしたいかな。
僕は朝廷の裏のすぐ近くにある日当たりのいい丘に座ると、半分になったフランスパンを取り出して食べ始めた。朝から時間が経ったので硬くなっていたけれど、気にせず齧る。こうしてなにもしなくなると、嫌でも太子のことを考えてしまう。ああ、だから僕はこのところ絶え間なく仕事をしていたんだ。あのひとが結婚すると聞いてから、あのひとのことを考えたくなかったから。もちろんそんな足掻きで考えずにいられるわけもなく、夜にはみっともなく泣いたりもしてしまうわけだけど。もう式から十日も経つというのに、どれだけ女々しいんだ、僕は。
あのひとは今ごろはまだ眠っているんだろう。式以来朝廷で姿を見ていない。なんか臭いしオッサンだし、そんな見た目もよくはないから、きっと童貞だろう。うん、そうに違いない。僕とするときだって僕が攻めなわけだし。なんか刀自古様もお若くて(あれは最早幼いの域だ)綺麗な人だったから、あの初心摂政はきっと明け方までアンアンしてたんだろう。ご愁傷様です、刀自古様。それに下手そうだしな。受けるのは上手いけど。
ぐるぐると太子について考えていたら、年甲斐もなく恥ずかしがりながら喘ぐ声やら病気みたいに白い胸やら要らんことまで思い出してきたので、僕はもう眠ることにする。幸い寝不足で眠気は常時頭の隅でスタンバイしているから、それを上手に引き出しさえすればすぐに眠れそうだ。ごろりと仰向けに寝転がり、組んだ腕を枕にして目を閉じる。どろりと意識が沈む瞬間思い出す、カレーの匂い。
ぱちりと目を開くと、太陽の位置がやや変わっていた。いやに頭の下が柔らかい。慣れた匂いを認めると同時に視界が暗くなった。
「お、起きた」
瞬時に答えを返せずに無言を続かせてから、やっと僕は「なにやってんですか」とつっこみには少々弱い言葉を返す。「なにって、膝枕?」ひょうひょうと答えると、いつものようにへらりと笑う。そのいつもとなんら変わらない笑顔に僕の心は静かに煮える。思い通りにいかない子供みたいな気持ち。純粋でないだけ性質が悪いし醜い。僕は起き上がって振り返る。太子は正座のまま笑っている。
「ねえ、妹子」「なんですか」憤りを滲ませぬようとは思ったが、思い返してみれば僕は大概この人には不機嫌そうにしている気もする。いつも、を思い出せない。きっとしばらくのブランクのせいだ。普段の冴え渡るようなつっこみも思い浮かばず、じゃあ穴に突っ込んでやりましょうかとでも下ネタに走ってみる選択肢もちょっとだけ考えてやめた。今となっては言ってはいけないことだろう。顔を上げるとその笑顔はなんとも中途半端なものになっていた。思わず僕も中途半端な顔になる。しばしの無言。このひととの無言は気まぐれに訪れるけれど、苦痛ではない。
「ああ、ごめんね。やっぱりなんて言ったらいいのかわからない」「そうですか」「うん。ごめんね」「構いませんよ」「ねえ、妹子」「はい」「浮気って、どう思う?」
ざわりと風が草たちを舐める。
「最低な行為だと思います」「ま、迷いねえ! 一点の曇りもない目で即答された!」「当たり前です。不倫は文化だなんてまったく以て思いません」「いやそれはそうだけど……」ギャンギャンと不毛且つ意味のない言い争いが続いて、ようやっといつも僕はどんな顔をしているのか、どんなつっこみをしていたのか調子を取り戻し始めた。これでいい。歳のせいか太子が息切れしだして、言い争いは鈍くなる。やがてどちらともなく口を閉ざした。これからどうなるのか考えたくない。
くさはらの傾斜にならって座ると、自然に太子には背を向けることになる。苦悩している恋人を抱きしめるでもなく放置するのは少し卑怯くさいとも思ったけれど、この人もいい大人だ。それも男だ。そろそろ仕事にも戻らなくてはいけない、かもしれない。ゆるい頭で様々なことをゆっくりしかし迅速に巡らせていると、とんと背中に小さな重みを感じた。器用に冠は当たらないよう僕に頭を預けている。表情は覗えないが、いい歳してあからさまに悲しげな顔なんてしてたらどうしよう。いや、きっと無表情だな。そういう人だ。さらりと生ぬるいが爽快な風が吹く。
「終わりなのかな」「許されることではありません」「うん」「そうでしょう」「そうだよね」「ええ」「私、いやだよ」「名誉を損なえば、二度と政権は握れませんよ」「わかってる」「僕と国と、どちらを選ぶと言うんですか」「わかってる、わかってる」 「太子」 「うん」「好きです」「そんなこと、もうずっとずっと前から知ってるよ。妹子」
(07/07/20)