#bsr_trip

「ごへーさあん」ざっく。息を吐いて手を止めた。鍬を持ち上げる気力もない。つかれた。地面に突き刺した鍬に体重を預けて、もういっちょ盛大に溜息。しにそうだ。
「今のお、日本のお」ざっく。「一番偉い人ってえ、だれですか」
「ああ? んなこた知らねエよ」ざっく。「……そうですね」
「日本ってなあどこだい」「ええと……この村とか、そのへんの村とか、全部含めてのこの島全部というか」
「ここは島じゃあねえぞ? つまりそりゃあどういうこった」「……うーん……」
「手エが止まってるぞ嬢ちゃん」「サーセン」「さあせん?」
 よろよろと鍬を持ち上げて、振り下ろす。その度に鍬の先が足に当たったらと想像してしまって肝が冷える。鍬が肉に割り入る感触。それで鮮血が噴き出す。考えただけでぐらぐらして気持ちが悪い。おまけにこの日差しだ。真っ黒になった腕を見て、また溜息。
「なんだいアンタ、本当に体力ねエんだなあ」「ああ、すみません」「変なカッコしとったし、農民でもねんだろ。なんなんだい」「はあ」「もうなんべんも訊いたがなあ」「わかりません」「ああ?」「わたしにも、よくわからんのです」
 いささか投げやりな調子で吐き出すと、はあと不可解そうな声をひとつあげてそれぎり吾平さんは黙った。
 吾平さんはこの村に転がり込んできたわたしを家に置いてくれている親切な農民さんだ。いや嘘だ。親切に置いてくれているのは奥さんの静さんだ。彼女が丁度腰を悪くしていて農作業を手伝えないということで、人手が欲しかったらしい。吾平さんはあまりよく思っておらんようで、一昨日に寝込みを襲われた。襲われながら殴ったら追い出されるに違いないなどと考えられたわたしは存外冷静だ。それからどっち道やはり長くここにはいられないなと考えた。うす汚れた手が服の中をまさぐって胸を舐められたときにようやっと最も己に被害の出ない方法で静さんを呼ぼうと思い当たって、やめてくださいと涙声を出した。我ながら演技派だ。運良く静さんはすぐに起き出して、居候の若い女に手を出そうとしていた旦那に激昂した。それはそれはおっとろしい鬼嫁っぷりであった。そして静さんの怒りがわたしでなく吾平さんもといエロ狸に向いてくれて本当によかった。そうでなければわたしは真夜中に家から放り出され、着の身着のまま路頭に迷ってしまっていたかもしれないのだ。それだけは避けたい。わたしはともかく身の安全と、それからひとまず貞操を守れたことに一安心して胸を撫で下ろした。エロ狸はわたしの着物が静さんから借りたものであるので間違えたなどとわけのわからない言い訳をしていた。静さんはエロ狸を猛烈な勢いでなじっていた。怒りがわたしに向かなくとも、わたしの心配はしないことには特になにも言うまい。夫婦とは、むずかしい。かと言って争いの横でさっさと寝てしまうわけにもいかず、着衣だけ整えて騒ぎが治まるのを待とうと黙って俯いていたら、知らず涙がでてきた。泣くのはこの世界に来た日の夜以来である。ともかくそれから二日。この家で平和に暮らし続けるのは、そろそろが限度のように思う。
 わたしはここを発たねばならぬ。ここがどこであるのかすらよくわかっていないのが、目下の問題だ。ここは日本のどこなのだろう。そしてわたしはどこへ行けばいいのだろう。




 


(11/01/22)